書籍目録

『日本旅行記』

ベックマン

『日本旅行記』

私家版 / 著者直筆献辞本 1886年 ベルリン刊

Böckmann, Wilhelm.

REISE NACH JAPAN AUS BRIEFEN UND TAGEBÜCHERN ZUSAMMENGESTELLT UND MEINEN FREUNDEN...

Berlin, 1886. <AB2018176>

Reserved

Self published.

18.5 cm x 26.2 cm, Blank leaf, Title, 2 leaves, pp.1-201, Photo leaves: [15], with double pages map(KARTE von CENTRAL-JAPAN), Original decorative red cloth.

Information

国会議事堂を現在の永田町丘上に置くことを提案した明治日本の官庁街設計者による詳細な日本滞在記

 本書は、明治東京の官庁街設計のため1886年に招聘されたドイツ人、ベックマン(Wilhelm Wöckmann, 1832 - 1907)が日本渡航時の日記をもとに著した書物です。ベックマンの東京官庁街設計案は、当時のヨーロッパ諸国の主要都市設計に強い影響を与えた、パリに代表されるバロック都市設計を発展させた壮大なもので、その大半は実現に至りませんでしたが、明治東京の都市設計に大きな足跡を残した人物として知られています。中でも、近年の研究成果(後述)が明らかにしたように、現在の国会議事堂を永田町一丁目にすべきであることを最初に提言した点は、現在に至る国会議事堂を中心とした永田町の官庁街設計の基本軸を打ち出したものとして高く評価されるべき点でしょう。本書はベックマンの日本滞在時の記録を中心とした貴重な一次資料と言えるもので、ベックマンの官庁街設計をはじめ、ベックマンと日本の関わりを研究する上での最重要文献とされており、帰国直後の1886年8月に刊行されていることからその信ぴょう性も高いものと思われます。ごく親しい人々に配るために作成された私家版として刊行されており、一般に販売されなかったことから、現在では非常に入手が難しくなっている文献でもあります。

 ベックマンが関わることになった明治東京における官庁街設計計画は、明治政府の内閣制度の発足と不平等条約改正に向けた交渉を背景に立ち上がったもので、外務卿となった井上馨が1884年から1885年に御雇外国人のコンドル(Josaiah Conder, 1852 - 1920)に試案の提出とその検討を行ったことに始まります。コンドル案に満足しなかった井上は、1886年に新たな内閣直轄の臨時建築局を発足させ、それまでの都市計画の中心を担っていた内務省から権限を奪取し、自身が理想とする官庁街設計を強力に推し進めて行きます。井上は、ドイツから新たに顧問を招聘することを求め、ベルリン建築学院(Berlin Bauakademie)の教授でもあった建築家エンデ(Hermann Ende, 1829 - 1907)の招聘を決定します。エンデはベックマンと二人でベルリン最初と言われる建築事務所、エンデ・ベックマン事務所を1860年から営んでおり、両名でもって明治政府の招聘に応じることになりました。ベックマンは1886年4月に来日し、約3ヶ月の日本滞在の間に官庁街設計の基本案を作成、提出し、明治政府と正式な契約を締結したのちに帰国し、翌年1887年にエンデが来日し、計画案をまとめ上げました。しかしながら、ベックマンが日本を発った直後に、井上が全権代表として交渉を進めていた不平等条約改正交渉は頓挫、国内でも反対の声が吹き荒れることになり、9月に大臣を辞職し、それとともに井上肝いりであった臨時建築局は、内務省へとその管轄が移管され、実質的に井上が主導し、ベックマンが構想した官庁街設計計画の大半は頓挫することになりました。しかし、永田町の丘上に位置する場所に国会議事堂を建築し、それを中心とした官庁街を設計するというベックマンの基本構想は引き継がれ、結果的にベックマンは国会議事堂を現在位置に建築することを提唱した最初の人物として、現在の永田町の景観に大きな足跡を残すことになりました。

「(前略)ベックマンの計画は、国会議事堂の位置を現在の議事堂と同じ永田町の丘の上に示した初めての都市計画であったということである。具体的には、政府は明治20年4月、ベックマンが示したのとほぼ同じ場所である永田町一丁目に国会議事堂を建設することを閣議決定した。その位置は、ホープレヒトとエンデによる縮小計画(明治20年5〜7月)や、のちに臨時建築局総裁となって官庁集中計画を担った山尾庸三の計画(明治21年9月)においても変更されることはなかった。明治23年(1890)に仮議事堂が内幸町に建設された後も、将来の本議事堂建設に向けた政府の検討委員会が幾度か組織され、建設地に関する議論は続けられた。しかし、その場所は常に予定地通りにされ、ついに大正6年(1917)の議院建築調査会の審議により最終決定された。エンデ・ベックマンの計画で実現したのは司法省(法務省)と裁判所の建築だけだ、と言われることがあるが、決してそうではないのである。
 このように、ベックマンの東京計画は、わが国の国会議事堂建設地の決定、ひいては、議事堂の位置と強く関連したに違いない中央官庁街の計画に少なからず影響を与えた可能性のある、史的研究の対象として非常に興味深い都市計画だと考える。」
(清水英範「ベックマンの東京計画に関する研究-国会議事堂の位置選定を中心として-」『土木学会論文集D3(土木計画学)第70巻第5号所収より)

 このように、明治東京の官庁街設計において大きな足跡を残したベックマンが、帰国直後の1886年8月に、日本渡航と滞在時の出来事を日記と書簡を元に書物の形でまとめたものが本書です。序文でベックマンが述べているように当初は自身ないしは家族のための個人的な記録として出版を意図していなかったものの、友人の勧めもあって刊行することになったというもので、それぞれの記事を記録した日付と場所が記されており、ベックマンの日本滞在時の動向を知るための最重要資料と言えるものです。本書には1ページ大の写真や、ベックマンが滞在した東京、関西、東海を中心とした2ページ大の日本地図(ベックマンの移動の足跡を示す)も収録しており、来日外国人による同時代の日本社会研究書としても大変興味深い内容を多数含んでいます。

 本書は全4部で構成されており、ミュンヘンを発って地中海を渡りスエズ運河を通過して、シンガポール、香港を経由して日本に至るまでを記した第1部、日本滞在と太平洋を渡ってサンフランシスコに至るまでを記した第2部(本書の中心部)、アメリカ滞在と大西洋を渡ってヨーロッパに至るまでを記した第3部、ベルリンに帰り着くまでを記した第4部、という構成になっています。本書については、堀内正昭氏による研究書(『明治のお雇い建築家エンデ&ベックマン』井上書院、1989年)や抄訳論文(「ベックマンの『日本旅行記』について」『建築史学』第7号、1986年所収、店主未見)があります。先の清水英範氏による論文やこれらによりながら本書を見ていきますと、ベックマン日本滞在中の行動を概ね下記のように辿ることができます。

4月24日
神戸到着(第2部末尾47頁)
4月25日(第3部49頁)
大阪に移動、造幣寮見学。
4月26日(52頁)
神戸港から横浜港へと移動
4月27日(53頁)
横浜到着
4月28日(53頁)
東京到着、鹿鳴館に滞在。井上馨、青木周蔵と官庁街設計について最初の会談
4月30日(54頁)
永田町一丁目にあったドイツ公使館を表敬訪問。国会議事堂を明治政府が定めていた日比谷ではなく、永田町の丘陵地におくべきことを記す。
(この間計画図作成に専念したため日記中断)
5月6日(55頁)
作成した計画図を携えて井上、青木と会談。午前10時から午後2時に至るまで階段を続け賛同を得る。その後、上野で日本絵画展覧会を見学、夜は鹿鳴館にて夜会に出席。
5月7日(56頁)
会談の内容を踏まえて計画図の修正作業を行う。
5月8日(56頁)
井上に修正図を提出し、早速午後の会議にはかる旨の返答を得る。
5月9日(57頁)〜19日(63頁)
東京各地で業務。コンドルとともに建築中のニコライ聖堂の見学など在日外国要人らとの面会や、森有礼ら政府要人との会談をこなす。
5月20日(63頁)〜5月24日
宮ノ下、箱根、芦ノ湖、熱海、小田原に視察も兼ねた小旅行を行う。
5月28日(73頁)〜6月1日
ベックマンによる計画案が賞賛とともに承認される。東京にて業務。
6月2日(75頁)〜6月4日
日光見学小旅行を行う。
6月5日〜7日
東京、横浜で業務
6月8日(83頁)
京都旅行に出かける。名古屋にて宿泊
6月9日(83頁)
名古屋城を見学してから、大垣を経由して長浜へ向かう。
6月10日〜13日(87頁)
京都見学、外国人向けホテルとして著名であった也阿弥ホテルに滞在、御所、二条城などを見学する。
6月14日(88頁)
神戸を経由して船で横浜に向かう。
6月15日〜20日(90頁)
東京にて業務。国会議事堂と司法省のスケッチや各種建白書を提出。20日には森有礼の主催する研究会にてフェノロサ(Ernest Francisco Fenollosa, 1853 - 1908)と日本の装飾芸術の西洋建築への応用の是非、方法について議論を交わす。
6月21日(92頁)
明治天皇に謁見してベックマン自身が設計図について説明を行う。
6月22日〜7月1日
東京にて最後の業務。再びフェノロサらと議論を交わしたり、ベルツ(Erwin Baelz, 1849 - 1913)とも交流する。
7月2日(97頁)
横浜港より日本を発つ。(その後も7月17日(147頁)にサンフランシスコへ到着まで日本でのことなど各種考察を綴った日記を認めている)

 テキストの合間には写真が豊富に挿入されており、東京の愛宕神社、様々な市井の人々を写したもの、宮ノ下で撮影した記念写真(ベックマン自身や同行した松ヶ崎万長らの姿が写っている)、日光東照宮、名古屋城の写真を見ることができます。また、先述しましたようにベックマンが滞在した各地とその足跡を描いた見開き大の日本地図も収録されていて、本文テキストとこれらを合わせることで、ベックマンの日本滞在中の動向については相当程度が本書を読み解くことで明らかにすることができます。先にあげた清水英範氏による論文では「「日記」によれば、ベックマンは明治19年4月28日午前に東京に着き、早速、井上と青木周蔵外務時間と会談し、計画に向けた打ち合わせを行った。そして、驚くことに早くも30日、ベックマンは、国会議事堂を政府の方針である日比谷ではなく、永田町の丘陵地に起きたいとの意思を「日記に」に記したのである」と、本書を読み解いて「ベックマンは極めて早い時期に、しかも政府の方針を変えてまで、国会議事堂を永田町の丘の上に起きたいとの意思を示した。その後、短期間で都市計画図の完成に至っていることから、議事堂の位置はベックマンの計画全体の中で、重要な意味を持つものであったと想像される」とされていて、本書からベックマンの国会議事堂を中心とした都市計画が策定されていく過程とその意味が明らかにされています。こうしたことからもわかるように、本書はベックマンの滞在記の活動を知るための、最も重要な基本一次資料として用いることができるものです。

 日本を離れたベックマンは、その後サンフランシスコにわたり、ソルトレイクシティやナイアガラの滝、ワシントンを尋ねながら東海岸へと抜け、その後ヨーロッパに帰国しており、その意味で、当時流行のグローブ・トロッターとして世界一周旅行を行ったとも言えます。

 本書はこのように、明治日本の官庁街設計において、特に国会議事堂建設場所の決定という重要事項において大きな足跡を残した人物本人による日本滞在時の最重要文献と言えるものですが、先述の通り、広く販売することを目的とせず、親しい人々に贈呈するために少部数のみが作成された私家版であったことから、国内での所蔵状況も極めて限られたものとなっており、また現在でも入手が非常に難しい文献となっています。それだけに、全ての写真と地図を含んでいる本書は、研究資料としても大変貴重なものということができます。

 ちなみに彼は後年の1893年にも本書によく似た趣旨で『インド旅行記(Reise nach Indien)』を同じく私家版でも出版しています(上掲研究によりますと、こちらの文献にも本書を補う形で日本滞在時の記録が掲載されているようです)。本書が好評を博したのか、こちらの書物は本書よりもかなり多くが作成されたようで、国内の所蔵期間は決して多くありませんが、現在でも比較的容易に入手が可能となっています。

1冊毎に特定の人物に宛てたベックマンの直筆サインが入る凝った作りのタイトルページ。店主には贈られた人物を特定できず。
目次。第2部が本書の中心となる日本滞在時の記録である。
ベックマンが滞在、訪問した日本各地とその軌跡を示した地図。
第2部冒頭箇所
愛宕神社
ベックマン自身や同行した松ヶ崎万長らの姿が写っている宮ノ下で撮影した記念写真。
日光①
日光②
名古屋城
見返しの紙にもこだわりが見られる。
装丁の状態もオリジナルを保っており良い状態と言える。