書籍目録

『ニューヨーク・ジャパンソサエティ(年報)①1909-1910(第3年次)年, ②1912-1913(第6年次)年, ③1912-1913(第6年次)年, ④1914(第7年次), ⑤1916(第9年次), ⑥1918(第11年次)』

ニューヨーク・ジャパンソサエティ

『ニューヨーク・ジャパンソサエティ(年報)①1909-1910(第3年次)年, ②1912-1913(第6年次)年, ③1912-1913(第6年次)年, ④1914(第7年次), ⑤1916(第9年次), ⑥1918(第11年次)』

6点セット 1909-1918年 ニューヨーク刊

The Japan Society of New York.

THE JAPAN SOCIETY OF NEW YORK: TO PROMOTE FRIENDLY RELATIONS BETWEEN THE UNITED STATES AND JAPAN...

New York, 1909-1918. <AB2018140>

Reserved

A set of 6 titles.

①13.0 cm x 19.0 cm ②15.5 cm x 20.3 cm ③④⑤⑥12.0 x 28.2 cm, ①Front., pp.[1(Title.)-6], 7-54, Photo plates:[8] ②Front.,pp.[1(Title.)-8], 9-,54 Photo Plates: [6] ③Front., pp.[1(Title.), 2], 3-40, Plates: [2] ④Front., pp.[1(Title.), 2], 3-39, Plates: [3] ⑤1 leaf, pp.[1(Title.), 2], 3-32, ⑥pp.[1(Title.), 2], 3-42, ①Original decorative black cloth ②Original pictorial half cloth on card boards ③④⑤⑥Original pictorial card boards bound in Japanese style, printed on folded papers.

Information

日米友好のための民間団体、ニューヨーク・ジャパンソサエティの初期活動を伝える貴重な年報資料群

 ニューヨーク・ジャパン・ソサエティー(以下JS)は、1907年に日米友好と文化交流の促進を目的として設立された非営利団体で、幕末の日本で日米友好の基礎を築いた初代駐日アメリカ弁理公使ハリス(Townsend Harris, 1804 - 1878)が設立したニューヨーク市立大学の当時の総長フィンレイ(John Huston Finley, 1863 - 1940)も設立に関わった、ハリスと縁の深い団体です。JSは、太平洋戦争の困難な時期を乗り越えて現在もなお活発に活動しており、100年以上にわたって日米友好の促進に尽力してきていることから、民間レベルの日米交流史を紐解く上でも最も重要な組織ということができます。

 ここにご紹介する6点の資料は、JSが設立された初期の頃(1909年から1918年)にJSが発行していた年報で、当時の活動の記録やメンバー、文献案内などを記した、JSの初期の活動を知るための貴重な資料となるものです。JSは、こうした年報の他にも様々な出版物を刊行していましたが、比較的大部の書籍となったタイトルは国内外において所蔵が確認できるものの、本書のような年報類や、よりボリュームの少ないリーフレット類については、まとまって所蔵している機関がありません。

  • ①1909-1910(第3年次にあたる)外観
  • タイトルページ
  • ②1912-1913(第6年次にあたる)外観
  • タイトルページ
  • ③1912-1913(第6年次)外観
  • タイトルページ
  • ④1914(第7年次)外観
  • タイトルページ
  • ⑤1916(第9年次)外観
  • タイトルページ
  • ⑥1918(第11年次)外観
  • タイトルページ

 JSは、アメリカの日系企業からの寄付金を元にJS内に設けられたハリス基金委員会(Townsend Harris Permanet Endowment Fund Committee of the Japan Society)の援助を受けて様々な出版活動を行うことにより、日米相互理解、特にアメリカにおける日本社会、文化、政治、経済の正しい理解と友好関係の促進を図っていることから、JSの活動を把握する上では、こうした出版物の研究は欠かせないものとなるはずなのですが、残念ながら、いつ、どれほどのタイトル数の出版物を刊行していたのかについては、ほとんど知られていないものと思われます。また、現在もニューヨークにあるJS本部のライブラリにもこうした出版物は残されておらず、また出版活動について記録した文書も残されていない(店主が2019年3月に直接JSを訪問して調査、確認した限り)ということです。こうした状況に鑑みますと、これらのJS初期にあたる時期刊行された年報類は、JSの初期活動、ならびに1910年代前後の日米交流の歴史を研究する上で、大変貴重な資料になるものと思われます。

 これら6点の資料は、下記のものから構成されています。

①1909-1910(第3年次にあたる)年
②1912-1913(第6年次にあたる)年
③1912-1913(第6年次)年
④1914(第7年次)年
⑤1916(第9年次)年
⑥1918(第11年次)年』

 店主の確認できた限りでは、①より以前にこうした年報類が刊行されたという記録や、所蔵期間は確認することができませんでしたので、あるいは①が最初の年報にあたるものになるのかもしれません。装丁からみた区分としては、③以降は全て同じ形式で、縦長の厚紙装丁の和綴じ本で、表紙に日本画やプリントの装飾が施されています。したがって、1912-1913(第6年次)年以降は、内容、装丁ともに年報の形式がある程度定まっていったものと考えられます。しかしながら、この種の年報がいつまで発行され続けたのかという点については、なお不明のままです。また、①と②との間には、少なくとも1910-1911(第4年次にあたる)年報が刊行されていることが国内所蔵期間から確認(The Japan Society of New York, 1910-1911. New York, 1910. NII書誌ID: BA4980234X)できます。ただし、①や②の最初期の年報は、年次表記そのものがないことから、果たして毎年刊行されていたのかどうかについては、やはり不明です。

①に冒頭に掲載されているJS発足の経緯についての紹介記事。
  • ①に収録されている万延元年遣米使節の写真
  • ①に収録されている駐米大使高平小五郎の写真と日米通商航海条約条文。
  • ①に収録されている陸軍長官時代のタフトの来日時に参加したパーティーの写真
  • ①には、当時の会員申し込み用紙が挟み込まれている。

 いずれの年報も、共通する内容としては、会の紹介、役員、名誉会員、一般会員などの構成メンバーの紹介、講演、展示、昼食会、晩餐会などの各種活動、英語で読みことができる日本についての推薦図書、簡単な日本語会話帳、会則、などが挙げられ、これらを追っていくことで、構成メンバーの増減や変化、活動内容などをたどっていくことができるものです。

 特に、最初期にあたる①については、それ以降のものよりも内容が充実している印象があります。すなわち、JSが発足した経緯を詳細に説明しているほか、いわゆる不平等条約の改正を実現することになった日米通商航海条約(1894年調印、1899年発効)の条文、日米間の外交的緊張緩和を狙った高平(小五郎)・(エルフ)ルート協定(太平洋方面に関する日米交換公文)、1907年における日米貿易の概要、双方の主要な外交関係者名が掲載されており、JS発足最初期の1909年に置かれていた日米間の政治的、経済的状況を概観する内容が含まれています。それだけでなく、アメリカ大統領ウィリアム・タフト、1908年に駐米大使となった高平小五郎や、駐日大使トマス・J・オブライエンといった日米外交の最重要人物の肖像写真や、万延元年遣米使節の写真、陸軍長官時代のタフトの来日時に参加したパーティーの写真など、各種の資格資料も収録されています。また、岡倉天心が日本美術の収集と展示に尽力していたボストン美術館での展示企画の紹介もあり、多方面にわたる日米交流の様子をこの小著から見ることができます。

  • ④に掲載されている太平洋横断世界一周の旅ルート
  • 1915年のサンフランシスコ万博は、アメリカからの訪日旅行者誘致事業にとって非常に重要なイベントでもあった。
日本最初の外客誘致と便宜を図るための非営利団体である喜賓会(The Welcome Society of Japan)についての記事も確認できる。1914年当時には喜賓会の後継にあたるジャパン・ツーリスト・ビューローが発足しておりJSとも提携しているはずなので、不思議ではあるが。

 また、④1914(第7年次)年は、翌1915年のサンフランシスコ万博を控えて、そこから太平洋を汽船で横断して日本まで旅行することを進める特集記事を見ることができます。このサンフランシスコ万博では、発足したばからいのジャパン・ツーリスト・ビューローや鉄道省が特設ブースを設置して、ガイドブックやパンフレットの配布を通じて外客誘致活動を精力的に行ったことでも知られています。当時JSの理事長にあったリンゼーは、ジャパン・ツーリスト・ビューローのアメリカにおける活動のあり方について具体的に細かな助言や協力を行なっており、またビューローと提携することで、アメリカから日本へ向かう旅行者のための代理店業務を行うなどしていましたので、ここに見られる記述は大変興味深いものです。

 年を重ねるごとに年報の記述内容はより形式的に整理されたものとなっていきますが、そうした変化も含めてこれら6点の資料から、日米交流史の一端にまつわる多くの事柄を読み解くことができそうです。

  • ③の口絵
  • ④の口絵

「ジャパン・ソサエティー(JS)の設立は1907年に遡ります。その年の5月19日、「ジェネラル・クロキ」の名を世界に轟かせた日露戦争の将軍、黒木為楨大将と伊集院五郎提督のニューヨーク訪問を歓迎する午餐会が、ニューヨークのアスターホテルで開催されました。黒木大将は、ワシントンで受けたルーズベルト大統領の艦隊に引き続いてのニューヨーク入りでした。75人の日米名士が集まったこの午餐会の席で、ジャパン・ソサエティー・オブ・ニューヨークの設立が宣言されました。翌日の『ニューヨーク・タイムズ』紙は、「黒木大将の歓迎会でジャパン・ソサエティー誕生」と見出した特別記事を第一面で掲載、「その設立趣意は、米国と日本の友好を促進し、日本の思想、芸術、科学、産業、経済環境に対する米国人の理解を促進することにある」と報じました。
 日露戦争での日本の勝利によって、列強諸国は日本の存在を強く意識するようになり、米国人の間では日本を太平洋を挟んだライバルとする見方が浮上、一方、米国内の邦人からは移民の差別廃止と地位の改善要求が起こり、日米友好関係のための期間が必要であるとの声が強まっていました。
 この動きを受けて、米国人側は前ニューヨーク市長セス・ロー、雑誌『Independent』社主ハミルトン・ホルト(ウッドロー・ウィルソン基金の創設者)、ニューヨーク市立大学(初代駐日大使タウンゼント・ハリスが創始者)総長ジョン・フィレイ博士、関税法務弁護士リンゼイ・ラッセルなどが、邦人側では、科学者で実業家の高峰譲吉、ニューヨーク総領事小池張蔵、日本銀行監査役小野英二郎、三井物産ニューヨーク支店長福井菊三郎、賞金銀行(のち東京銀行)ニューヨーク支店長一宮鈴太郎、そして地場実業界の領袖である森村ブラザーズ(現森村商事。日本陶器=ノリタケを創設)村井保固、生糸貿易の森村・新井商会創業者新井領一郎などが新規艦創設の主唱者となり、ジャパン・ソサエティー設立の準備に取り掛かりました。
 JS初代役員は、理事長にフィンレイ博士、副理事長にラッセル、名誉理事長に青木周蔵駐米大使、さらにフレッド・グラント陸軍少将(グラント大統領の子孫)および高峰譲吉の二名が名誉副理事長となって発足、発足当初の会員数は100余名、初年度末で会員数は250名。以降JSは、在留邦人と米国人との接触を図るもっとも有力な車校機関として、時代の荒波の中を揺れながら発展していきます。

 設立当初のJSの主な活動は、日本からの賓客、新任駐米大使や駐日大使の歓送迎昼食会や晩餐会などでした。当時は西海岸での日系移民排斥運動を反映して日米関係は必ずしも円満ではありませんでしたが、ニューヨークのJSは活発に活動を広げていきました。
 発足当時の副理事長リンゼイ・ラッセルは、1910年に理事長に選任されますが、これを機に、彼は財政運営面での手腕を発揮するとともに、会員数を一挙に増やし、JSを確固とした組織に成長させていきます。
 1919年まで理事長として活躍したラッセルの貢献は多大でした。例えば文化活動を充実させるために「芸術と文化」部門を創設、文化講座や日本美術展を頻繁に催しました。当時のJSは専有の建物を持っていなかったために、こうしたイベントはアスターホテルやニューヨーク近代美術館(MoMA)で開催されましたが、最初の美術展は浮世絵をテーマに、数百人を集めました。また、浮世絵版画など日本文化に関する書籍や資料、そして会報『Japan Society Bulletin』の配布も始めます。こうした活動は今日のJSのプログラムの先駆けとなります。
 特筆すべきは、1912年に開催したイベントで、アスターホテルの屋上に茶室付きの日本庭園を造り上げ、2週間余にわたってお茶会や生け花の実演、日本庭園についての講義、さらに能の上演を行うという画期的なものでした。このイベントで、全く日本に関心がなかった一般米国人にも広く日本文化を知ってもらうことができました。
 また同年、JSは旅行部門を設置、当時政府機関だった日本交通公社と提携して、翌1913年春に日本旅行を企画します。この旅行部門は、その後長きにわたって日本交通公社ニューヨーク代表として機能することになります。当時日本への旅行は、米国人にとって冒険にも等しく、米国の旅行会社には手配は不可能であったため、JSは「ニューヨーク発日本行き」旅行事業の先駆者として、日本旅行を定期的に催行、同事業はJSの大きな収益源ともなりました。
 1913年、JSはニューヨーク州法の下で非営利法人化します。」

(ジャパン・ソサエティー「ジャパン・ソサエティーの歩み」(同協会ホームページ掲載)より)