書籍目録

『信心深き改宗者である日本帝国の奥州王国に関する報告、並びにフランシスコ会士ソテロと王家の血を引く高貴なる支倉六衛門のローマ教皇パウロ5世とスペイン国王フェリペ3世への1615年使節記』(『伊達政宗遣使録』)

(慶長遣欧使節) / アマーティ(著) / ヘンシェル(訳、追記)

『信心深き改宗者である日本帝国の奥州王国に関する報告、並びにフランシスコ会士ソテロと王家の血を引く高貴なる支倉六衛門のローマ教皇パウロ5世とスペイン国王フェリペ3世への1615年使節記』(『伊達政宗遣使録』)

ドイツ語版、ヘンシェルによる他作品と合冊 1617年 インゴルシュタット刊

Amati, Scipione / Hendschel, Tobias.

Relation Und gründtlicher Bericht von deß Königreichs Voxu im Japonischen Keyserthumb Gottseliger Bekehrung / und dessentwegen außgesertigter Ambasciada an Päbst: Heil: gen Rom Paulum den fünfften/ und an die Cathol: May: Philip:den dritten Köning...

Ingolstatt, Elisabeth Angermayrin, M. DC. XVII.(1615). <AB2018103>

Sold

German edition.

4to (14.5 cm x 19.0 cm), Illustrated Half Title, Title, 2 leaves(including a Portrait of "DON FILIPPO FRANCESCO FAXICVRA"), pp.1-219, 120[i.e.220], 221, 272-273[i.e.222-223], 224-283, 224[i.e.284], 285-292, [bound with another work by the same author], Title, pp.1-109, (Restored) contemporary parchment.
刊行当時の装丁を近年修復したと思われ、状態は極めて良好。小口三方が藍色に染められている。

Information

原著にない刊行意図と内容、支倉常長像を備える最重要文献として知られるドイツ語版

 本書は、仙台藩主伊達政宗が1613(慶長18)年にヨーロッパに派遣した、いわゆる「慶長遣欧使節」に関するヨーロッパ側の最重要文献として知られる、アマーティ(Scipione Amati, 1583 - 1655?)がイタリア語で著した『伊達政宗遣欧使節記(Historia del regno di Voxu del Giappone...1615)』のドイツ語版です。原著イタリア語版にはない支倉常長の肖像画を収録しているだけでなく、ドイツ語版固有の刊行意図と内容を有している慶長遣欧使節研究における第一級の資料です。

 慶長遣欧使節は、日本とスペイン(のみならずポルトガルも含めたカソリック国)との関係が極めて微妙な時期に派遣されたことが影響して、日本、ヨーロッパ両地において様々な利害関係者の思惑が交錯する政治的、社会的状況のもとで行われました。そのため、その正確な理解には、日本とヨーロッパ双方に残る様々な文書や書物を複眼的に読み解くことが欠かせないとされており、現在でも慶長遣欧使節の評価や全貌をめぐって活発な議論が続けられています。

 こうした研究状況にあって、本書が底本としたアマーティの『伊達政宗遣欧使節記』は、ヨーロッパ側資料の最重要基本文献として古くから知られているものです。全31章構成で、奥州国や伊達政宗の解説に始まり、使節派遣の実現と遂行に最も深く関与したフランシスコ会士ソテロ(Luis Sotelo, 1574 - 1624)による奥州での布教と使節派遣実現までの経緯、仙台を発ってからメキシコを経由してマドリッドに至るまで、マドリッドでの国王フェリペ3世との謁見と支倉常長の受洗、マドリッドからローマに至るまでの行程、ローマ入市式やローマ法王パウロ5世との謁見など、使節のおおよその全貌を時系列に沿って詳細に記しています。

 『伊達政宗遣欧使節記』の著者であるアマーティは、マドリッドに到着した使節に通訳(兼外交官)として同行した人物であったことから、同書は、マドリッド到着以降の使節の最も傍にいた人物が記した文献として高く評価されています。その一方で、著者アマーティの人物像については近年までほとんど知られることがありませんでしたが、小川仁氏による新出史料を駆使した画期的な研究成果の蓄積(小川仁「慶長遣欧使節通訳兼折衝役シピオーネ・アマーティ―新出史料に見る人物像とその役割」『ディアファネース―芸術と思想』第3号 2016, 63-82頁、「シピオーネ・アマーティ著「日本略記」(手稿)における考察―ルイス・デ・グスマン著『東方伝道史』(1601)からの引用についてー」『日本研究』第53集, 2016, 101-126頁ほか多数、2019年4月には『シピオーネ ・アマーティ研究 慶長遣欧使節とバロック期西欧の日本像』臨川書店、が刊行されました)により、アマーティが当時のローマを代表する有力家系であるコロンナ家に仕えた人物であることや、コロンナ文書館に残された史料から、アマーティが単なる通訳としてではなく、コロンナ家、教皇庁双方のヒューミントとしての役割を果たしながら、使節を取り巻く状況に深く関与していたことが明らかにされてきました。

「(前略)アマーティは教皇庁、コロンナ家双方から使節に関する情報収集を依頼され、双方のヒューミントとして活動していたと判断するのが妥当と言える。見方を変えれば、アマーティの使節随行員選出を軸として、教皇庁、コロンナ家、スペイン宮廷とのあいだで、慶長遣欧使節の情報をめぐる争奪戦が静かに繰り広げられていたとも捉えられよう。慶長遣欧使節は、本来目的としていた外交交渉、あるいはソテーロの思惑とは裏腹に、17世紀初頭ヨーロッパの複雑な政治的・外交的駆け引きという表舞台のただ中で期せずして踊らされていたのであった。」(小川前掲書83頁)

 この最新の研究成果に基づいて明らかにされた、使節を取り巻く状況に深く関与したヒューミントとしてのアマーティ像を踏まえることで、彼の著作『伊達政宗遣欧使節記』についても、再解釈する可能性が開かれるものと思われます。また、小川氏が明らかにしているように(前掲書第3章「アマーティ著「日本略記」(手稿)の成立史」、第4章「アマーティの政治思想と日本情報」、ならびに付録「「日本略記」翻刻・翻訳」を参照のこと)アマーティは「日本略記」と題した日本誌的な著作(ただし刊行はされず)も残しており、「日本略記」が著された背景と内容、アマーティと使節をめぐる関係者との関係も読み解いた上で、『伊達政宗遣欧使節記』を再解釈する必要が出てくるでしょう。

タイトルページ。原著イタリア語版と比べて、よりフランシスコ会の立場を打ち出すタイトルがつけられている。

 こうしたことを踏まえますと、本書であるドイツ語版が有する意味が、単なる「ドイツ語訳」にとどまるものでなく、「17世紀初頭ヨーロッパの複雑な政治的・外交的駆け引きという表舞台のただ中」において、アマーティ原著とは異なる明確な意図をもった固有の意味を有していることが見えてきます。

 まず、タイトルからはっきりとわかるように、このドイツ語版は、はっきりとフランシスコ会士ソテーロの役割を肯定的に非常に大きなものとして捉えています。これには、本書の訳者であるヘンシェル(Tobias Hendsche, 1562 - 1620)がオーストリアのフランシスコ会士で、使節のヨーロッパにおける意義の大きさを強調するとともに、それを実現したフランシスコ会の意義を喧伝するために、アマーティの著作を独訳したという立場が強く反映されているものと思われます。

原著にはないオーストリアの女大公アンヌ(Anne d'Autriche, 1601 - 1666)への献辞文。アンヌは天正遣欧使節が謁見したフェリペ2世の娘でスペイン・ハプスブルク家の血を引くものとしてオーストリア女大公も兼ねていた。また、のちにルイ14世の母となったことでも知られる。→2020年6月22日追記:献辞宛名はAnne d'Autriche ではなく、アンナ・フォン・ティロル(Anna von Tyrol, 1585 - 1618)ではないかというご指摘を頂戴しました。再度確認しましたところ、アンヌと同じくオーストリア女大公でボヘミア・ハンガリー女大公の称号を有していた後者であることが判明いたしましたので、お詫び申し上げますとともに修正いたします。貴重なご指摘をいただきましたことに改めて御礼申し上げます。
ヘンシェルによる序文。当然これも原著にはないもので、フランシスコ会の意義を強調する内容となっているようである。
目次冒頭部分。全31章からなる構成は原著と同じ。
本文冒頭部分。
本文に続いて164頁から始まる「新世界における宗教的状況(Indianicher Religionstandt der gantzen nenwen Welt)」標題紙。原著にはない内容。
さらに「使節記続編(Continuation)」と題した別の著作が合冊されている。

 また、原著ではパウロ5世への献辞文がありましたが、本書では、フェリペ2世の娘で後にルイ14世の母となった、オーストリアの女大公アンヌ(Anne d'Autriche, 1601 - 1666)への献辞文が新たに付け加えられています(*2020年6月22日追記;献辞宛名はAnne d'Autriche ではなく、アンナ・フォン・ティロル(Anna von Tyrol, 1585 - 1618)ではないかというご指摘を頂戴しました。再度確認しましたところ、アンヌと同じくオーストリア女大公でボヘミア・ハンガリー女大公の称号を有していた後者であることが判明いたしましたので、お詫び申し上げますとともに訂正いたします。貴重なご指摘をいただきましたことに改めて御礼申し上げます。)。この献辞文の後には原著献辞文と序文の独訳が掲載されていますが、それに続いて本書独自の序文が掲載されており、そこではヘンシェルの視点に基づいた使節の評価とフランシスコ会の意義が述べられています。本文の構成は原著と同じ31章となっており、内容の大幅な改変は見られないかと思われますが、より精緻に比較することが必要でしょう。また、本書は、原著になかった「新世界における宗教的状況(Indianicher Religionstandt der gantzen nenwen Welt)」と題した付録が164頁から付け加えられているほか、使節記の「続編(Continuation)」と題した全く別の著作が合冊されています。これらはいずれもフランシスコ会の歴史や主要人物、ヨーロッパ内外での宣教記録などを先行する著作を元に編纂したもので、フランシスコ会の意義を喧伝する意図がはっきりと示されています。こうしたことに鑑みますと、本書がアマーティの原著にはない、固有の意図と内容を有していることが見えてくるものと思われます。すなわち、慶長遣欧使節が、小川氏が指摘されている「教皇庁、コロンナ家、スペイン宮廷」に加えて、スペイン・ハプスブルク家とオーストリア、(イエズス会と対立する)フランシスコ会といったヨーロッパ大に広がる利害関係者の思惑が交錯する文脈の中にあったことを鮮明に示しています。このことは、使節の意義の世界史的文脈における再解釈、再評価にもつながることになるでしょう。

仮標題紙に登場する支倉常長とソテロと思しき人物の立像。
支倉常長の肖像。使節を象徴する書状を右手に持ち、右上には彼の家紋であったとされる逆さ卍が描かれている。

 さらに、これまでにも広く知られてきたことですが、このドイツ語版にはアマーティの原著にはなかった支倉常長を描いた肖像画が収録されている点に大きな資料的価値があります。支倉常長の肖像は本書において、冒頭の仮標題紙と原著献辞文の直前の口絵に見ることができます。いずれも支倉常長を実見した人物による視覚資料をもとにしたと思われる非常に写実的な表現で描かれており、ヘンシェル、あるいはこのドイツ語訳版の刊行に関わった人物がこうした資料にアクセスできる立場にあったことが伺えます。その点でも、支倉常長像の写実性は、本書刊行にかかわった関係者とヨーロッパにおける使節関係者との緊密さを示唆する重要な点と言えます。いずれの肖像においても、支倉常長は使節を象徴する書状を右手に持つ立像で描かれており、口絵の右上には彼の家紋であったとされる逆さ卍が描かれています。口絵下部には、彼がマドリッドで洗礼を受けた際の洗礼名で DON FILIPPO FRANCESCO FAXICVRA と記されています。また、冒頭の仮標題紙には支倉常長の対になる位置にフランシスコ会士と思しき服装のヨーロッパ人が描かれていますが、これはおそらくソテロを描いたものと思われます。この2枚の肖像は、ヨーロッパに写実的にもたらされた初期の日本人像としても大変重要な資料と言えるものです。

  • 状態は非常に良い。
  • 三方は藍色に染められている。

 ところで、このドイツ語版には諸種の異刷が存在することが知られています。いずれも本書と同じく1617年に刊行されており、内容も同じとされていますが、主な特徴をまとめますと、下記のようになります。

A) インゴルシュタット刊 全292ページ 支倉常長の肖像画2枚収録
B1) インゴルシュタット刊 全359ページ 支倉常長の肖像画2枚収録
B2) インゴルシュタット刊 全359ページ 支倉常長の肖像画2枚+赤黒二色刷標題紙裏面にパウロ5世謁見図を描いた図版収録
C) ロットヴァイル刊 ページ数未確認 肖像画が含まれない

 本書は、上記のうちのA)にあたるものです。慶長遣欧使節関連の展示目録などで見ることができるB2)収録のパウロ5世謁見図を描いた図版は、他の図版とは異なる人物によるものです。これを含むB2)本固有の赤黒二色刷の標題紙の裏面に掲載されていることから、B2)本は、何らかの特別な目的(献呈など)を持った特殊な本であると思われます。C)は、本書とは異なる訳者(Joanne Bürken)と出版社(Johann Madimilian Helmin)によって刊行されたという全く異なるドイツ語版(Histori deß Haydnischen Königreichs Voxu in Japonia...)で、幸田成友がその存在を1934年にすでに指摘しています(『和蘭雑話』第一書房、50頁)が、店主はこれまでこの本を見たことがありません。何れのドイツ語版にしても、原著イタリア語版と比べても極めて稀覯とされており、まして本書のように状態が大変良いものは極めて貴重と言えるものです。

「1615年にアマーティによるイタリア語版『使節記』が出版されると、イタリアでは大きな反響を呼び、1617年に再版が出た(店主には1617年再版本の存在は確認できず;引用者注)。使節の主要目的の1つとして日本におけるカトリック教の普及が謳われている以上、教皇のお膝元であるローマ、イタリアで使節の派遣が評判になったのは当然であろう。
 一方ドイツでは、1617年さらに1637年に『使節記』の訳書が刊行された(店主には1637年刊行ドイツ語版の存在は確認できず;引用者注)。このように早い時期に2種類ものドイツ語訳版が出版された(上述の通り少なくとも1617年版だけで3種ある;引用者注)のはなぜだろうか。この頃ドイツでは新旧キリスト教が相争って宗教戦争へと突き進んでおり、旧教側としては、世界的規模で拡大するカトリック教を擁護し宣伝する格好の書物として『使節記』を翻訳・公刊する要望が大きかったと推察される。
 カトリック強国スペインは慶長遣欧使節の目的地の1つでもあり、王宮はもとより民間でも使節は大きな関心を引いた。1614年に奥州王国による使節派遣について短い報告書が成され、また1616年に彼らのローマへの入市についてもその報告が刊行され、両書とも1617年のイタリア語版『使節記』にスペイン語のまま収録されている。ただしアマーティの著書自体はスペイン語に翻訳されなかったようである。
 同じくカトリック教国のフランスでは、使節一行がサン・トロペに寄港したこともあって、これを伝える報告書などが残されており、彼らの動向が衆目を集めていた。しかし『使節記』そのものはフランス語に訳されなかったようである。
 これに対し、カトリック教国でなはないイギリスやオランダが、使節に対し当時どのような反応を示したかは不明である。」
(平田隆一「アマーティ著『伊達政宗遣欧使節記』の成立と展開」仙台市史編さん委員会編『仙台市史:特別編8 慶長遣欧使節』2011年所収、543,544頁より)