書籍目録

(第4回)『花ノ栞』

手島精一 / 野村宗十郎

(第4回)『花ノ栞』

1902(明治35)年 東京(市)刊

東京築地活版製造所, <AB201880>

Sold

23.0 cm x 30.0 cm, ページ付なし、序文(1葉)、口絵(1葉)、目次(3葉)、100点以上の作品を収録。, N. YUBIによる布装丁
背付近の製本クロスに破れと痛みあり、綴じの状態に痛みあり、旧蔵者による応急修理。東京工業大学図書館蔵書印と除籍印あり。

Information

明治半ばから開催された印刷技術向上のために限定出版された印刷見本集

ただいま解題準備中です。今しばらくお待ちください。

「印刷見本集。1893(明治26)年12月に第一回全国印刷業者制作印刷物蒐集交換会が開かれ、罫画(罫線の組み合わせ)、活版、木版、石版などの見本をまとめて、株式会社東京築地活版製造所の曲田成が発行した。製版者や印刷者が腕を競い合い、業界全体の技術向上を狙ったといえる。1908年の第五回までは、同社はすべての発行元になっている。

第一回1893(明治26)年
第二回1894(明治27)年
第三回1898(明治31)年
第四回1902(明治35)年
第五回1908(明治41)年

東京築地活版製造所
 1869(明治2)年に長崎製鉄所頭取の本木昌造は、所内に活版伝習所を設け、中国上海の華美書館艦長ウィリアム・ギャンブルを招聘し、活字製造技術を学んだ。これが日本の本格的な金属活字製造の始まりである。その後活版伝習所は、長崎製鉄所付属新聞局と新塾活版製造所の2つに分かれた。前者は大蔵省紙幣寮へと引き継がれ、後者は東京築地活版製造所の前身となった。
 同社の平野富二は長崎での人脈を活かし積極的に東京から事業展開をして、全国に活字を広めた。同社は1873年築地に工場を建設し、活字製造販売、活版印刷にとどまらず、印刷機の製造、さらに石版印刷も手がけ、日本の印刷会で長年にわたりリーダー的な存在感を示した。しかし、1923年関東大震災での被災、昭和初期の不況など、企業環境の変化に対応できず、1938年に解散した。」

(印刷博物館編『印刷年東京都近代日本』2012年、凸版印刷株式会社、122ページより)