書籍目録

『1910年ロンドン開催日英博覧会公式報告書』

(キラルフィー)

『1910年ロンドン開催日英博覧会公式報告書』

1911年 ロンドン刊

(Kiralfy, Imre)

OFFICIAL REPORT OF THE JAPAN BRITISH EXHIBITION 1910 AT THE GREAT WHITE CITY SHEPHERD'S BUSH, LONDON.

London, Unwin Brothers, Limited, 1911. <AB201872>

Sold

Large 4to (24.5 cm x 30.5 cm), pp.[1(Half Title)-3(Front with Errata)-5(Title), 6], 7-388, 391-396, 389. 390, 397-551, 1 Folded leaf of map, Original red cloth.

Information

明治期日本の近代化の到達点を示そうとした博覧会の最重要資料

 日英博覧会とは、1910年にイギリスと日本の二国間で開催された相互博覧会のことです。日英同盟による当時の両国の関係を背景に企画され、開催直前にイギリス国王エドワード7世が崩御した影響を受けながらも、ロンドン西部のホワイト・シティの広大な敷地を用いた会場には5ヶ月間の開催期間中に約800万人を越える人々が訪れたと言われています。本書は、この日本が初めて開催した相互博覧会の公式報告書で、日英両国の主要関係者、出品展示内容、博覧会概要といった文字情報に加え、展示会場や会場内部、出展品を撮影した数多くの写真、会場全体の地図などのビジュアル資料を豊富に収録しており、日英博覧会の内容を理解する上で欠かせない最重要資料と言えるものです。

 日英博覧会は、民間のイベント興行師であるキラルフィーが興行主であったことから、厳密には両国公式の博覧会とは言えませんが、少なくとも日本側については、日英関係の強化を強く望んでいた外務大臣小村寿太郎の要請もあり、国家政策として大規模な出展を行いました。明治以降の近代化の一つの到達点として、世界に名だたる大英帝国に肩を並べた近代国家日本を、イギリスはもとより世界に広く知らしめるという自負心もあって、日本が相当な熱意をもってこの博覧会に臨んでいたことが本書から読み取ることができます。

 本書のテキストは、全3部に補遺を加えた構成となっています。

 まず、最初に日英両国の主要委員と博覧会開催に至る歴史経緯をまとめたキラルフィーによる小論、そして博覧会の概要と主要なパビリオンを紹介する記事があります。ここでは、そもそも日英博覧会がどのような人物によっていかなる経緯で開催されることになったのかが興行主であるキラルフィーの視点から表明されているだけでなく、収録された数多くの写真から視覚的にも博覧会会場の様子を詳細に知ることができるようになっています。

 続いて、「日本の部(Japanese Section)」と題した日本の出展内容を網羅的に紹介するパートが設けられていて、ここでは様々な日本の展示品とその狙いを見て取ることができます。出展内容の概要が簡単に紹介されたのち、芸術部門では古代から現代に至る日本伝統の絵画や書、建築物(の模型)、仏像、武具などが紹介されています。日英博覧会において、日本は初めて国宝級の美術品を海外の博覧会で出展しており、日本を訪れる機会のない人々にとっては、日本伝統の美術品を直接見ることのできる貴重な場ともなりました。この箇所に挿入された写真では展示会場の様子や出展された個別の作品を見ることができます。
 続く産業部門の記事から、外国貿易の中心地であった横浜と神戸港の図面をはじめとした諸外国との貿易金融関係の展示があったこと、また欧米各国の関心が高かった日本の司法制度、特に監獄施設の様子を紹介する展示があったことがわかります。この部門では、海外からの注目を集めつつあった盆栽や、広島宮島の厳島神社の模型が展示されたことに加え、内閣鉄道院(Japanese Government Railways)による日本における鉄道敷設状況と歴史を紹介したパネル、沿線各地の美しい風景を撮影した写真を、まるで車窓から眺めているかのように工夫した展示が行われていたことがテキスト、写真の双方から知ることができます。
また、歴史館(Historical Palace)では、古来から現在に至るまでの日本社会の変遷をミニチュア展示で紹介しており、伝統的側面と明治以降の近代的側面の理想法を演出した展示内容になっていたようです。また、京都、大阪、東京といった大都市が独自に出展を行なっていたことや、日本美術の国際ブローカーとして名を馳せていた山中商会の出展があったことも伺えます。
 織物館(Japanese Textile Palace)と名付けられたパビリオンでは、絹織物を中心としたテキスタイルが展示されたようで、川島織物や高島屋、三井が独自の展示を展開しており、また海外で高い評価を受けていた日本紙の展示や仏具の展示があったことが本書からわかります。
 天然資源の部では、同じ建物を左右に分けて日英両国の産出物が出展されたようで、鉱物資源、漁業資源、農産物(茶と酒を含む)とそれらの産出に関連する技術展示が行われたようです。
 また会場の目玉の一つでもあった日本庭園は、本書でも大きく取り上げられており、会場内に設けられた日本庭園の様子を写真でも見ることができます。
 産業と教育を紹介する部門では、日本の各種教育機関を紹介するパネル展示や用いられている機材の展示、東京美術学校などの芸術教育の概要展示と学生作品の展示、海外から関心の高かった女子教育の進展とその成果を紹介する展示があったことが見て取れます。欧米科学を積極的に高い水準で摂取する各種機関が整備されていることが特に強調されており、それらに支えられた高度な工業生産が行われていることが紹介されていたようです。ミキモト真珠や輸出工芸品として人気のあった七宝、象牙、ヤマハピアノの展示、日本の城郭をかたどった横浜正金銀行のパビリオンなど興味深い展示が数多く行われたようです。
 当時の海外植民地を紹介する東洋館(The Palace of the Orient)では、台湾の茶栽培や樟脳栽培の展示、朝鮮、南満州を紹介する展示がなされていたことがわかります。こうした植民地に関する展示は、日本による良好な植民地政策が行われていることを積極的にアピールすることによって、外交上の利益に資することも目的にあったものと思われます。
 政府部門では、主に陸海軍に関連する展示が中心で、日本史における主要な戦闘を表したミニチュア展示のほか、海軍による船舶の歴史をたどる模型展示では、初めて日本に来航したイギリス人ウィリアム・アダムス(William Adams, 1654 - 1620)の紹介があったことも伺えます。
 日本の部の最後に、日本がこれまで参加した国際博覧会の一覧が掲載されており、明治以降積極的に国際博覧会に日本が出展を続けてきたことを紹介しながら、日英博覧会ほどの熱意を持って取り組まれた博覧会はかつてなかったことを記して本文を終えています。

 日本の部に続いて、「英国の部(British Section)」が設けられており、ここでは特に絵画、彫像の出展が多かったことが目につきます。歴史的な名作から現代作品まで数多くの絵画、彫像作品が出展されたようで会場の様子と、展示された個別の作品を紹介した写真が数多く収録されています。ターナー(Joseph Mallord William Turner, 1775 - 1851)やバーンジョーンズ(Edward Coley Brune-Jones, 1833 - 1898)などイギリスを代表するような古今の名手による作品が展示されたようで、こと芸術作品の出品に関しては、全体的に日英博覧会の出展に消極的であったと評価されるイギリスの中でも、相対的な量的側面では日本に劣るものの、質的側面にはかなりの熱意をもって展示に臨んでいたことが伺えます。他には、陸海軍による展示、科学部門展示、輸送部門展示、鉄道部門展示、化学産業部門展示、写真部門展示、園芸部門展示、機械工業部門展示、紡績工業部門展示、電気工業部門展示などがあったようで、本書の記述を見る限りでは、それらが来場者にどのように映ったのかは別にすると、この博覧会にあたってイギリス側も相当の準備をもって展示を行っていたように思われます。また、ユニークなところでは、日本と特に関係の深いロンドン日英協会(The Japan Society of London)が展示を行っていたようで、その展示内容は、先のアダムズに始まる日英交流の歴史紹介と今後のますますの発展を祈念するようなものであったようです。

 最後の「補遺の部(Appendix)」では、博覧会期間中に開催された様々なレセプション・パーティの様子が写真とともに紹介されており、こうした晩餐会が数多く開催されていたことやその主要な参加者を知ることができます。

 日英博覧会は、概して民間の興行主キラルフィーの商業的動機に起因する、オリエンタリズムに満ちたロンドンにおける「日本の見世物市」であったというネガティブな評価が開催当時から与えられることが多いですが、少なくとも本書を見る限りでは(最も批判を浴びた相撲などの余興区画が非公式のため本書の対象外となっているということもありますが)、そのような印象はなく、本書を読み解くことで、従来の定説とはまた違った側面の当事者の意図(実際にそれが実現したかどうかは別として)を読み取ることができるのではないでしょうか。

 本書を含む日英博覧会資料の多くは、近年の復刻版でも手にすることができますが、非常に上質な紙と高い印刷技術、上品で丁寧な装丁によって生み出された原著ならではの資料的価値は、この博覧会の性質に鑑みると決して過小に評価できないものと思われます。明治期末期の日本が自身の近代化の一つの到達点を世界に知らしめる目的で参加したこの博覧会の意義を再評価する上でも、本書は貴重な研究資料として役立てることができるでしょう。

 

タイトルページ
口絵は会場の鳥瞰図。ロンドン市街西部のシェパーズブッシュに設けられた広大な会場の全貌を示す。ちなみに右下のスタジアムは、1908年ロンドンオリンピックのマラソン競技での「ドランドの悲劇」が起きた会場としても有名(ただし現存しない)。
巻末には折り込みの地図が収録されており、本文を参照しながら会場の配置を理解することができる。
目次①
目次②
目次③
名誉総裁のコンノート殿下(日本通称)と伏見宮貞愛親王
総裁の第15代ノーフォーク公と大浦兼武、副総裁の松平正直
開催に尽力した陸奥廣吉、事務官長和田彦次郎ほか、日本側の要人
左は興行主であるキラルフィー。一枚大の写真が掲載されているのは上掲の名誉総裁の二人を除いてキラルフィーのみである。
博覧会において授与されたメダルなど
会場の様子を撮影した写真も数多く掲載されている。
日本の芸術については特に念入りに紹介されている感がある。
国宝を含む絵画だけでなく武具や歴史的建築物のミニチュア、立体芸術も多数展示された。
歴史館の展示では、古代からの日本の歴史を象徴する場面の模型展示とともに、現代の日本社会の様子を示す展示が行われたようで、伝統と近代性の双方を兼ね備えた国家像をアピールしようとしていたことがわかる。
天然資源(農産、海産物含む)の展示では、米などの具体的産品だけでなく、関連する技術展示もなされたようである。
会場の目玉の一つでもあった日本庭園。
当時の日本植民地を紹介する東洋館は、外交政策の一環としての目的も担っていたものと思われる。
イギリスの展示では芸術作品に非常に力を入れていたことがわかる。
年代ごとにイギリスを代表する絵画、彫刻作品が展示されたようである。
一方で当時世界最先端であった数々の産業技術を紹介する点にも余念がなかったようで、美的なものと科学的なものとを併せ持つ理想的国家としてのイギリスを演出している。
最後の補遺では、会期中に開催された様々な晩餐会の様子を写真とともに紹介している。
丁寧な装丁と上質な用紙を用いた印刷は、書物としての完成度の高さを感じさせるもの。
多くの厚紙写真頁を収録しているため、前後見開きのノド部分には補強の布が当てられている。前の見開き部分には当時の所蔵者と思われるK. Kurodaとの書き込みがあるが、これが誰であるのか店主は特定できず。
天部分には箔押しが施されている。