書籍目録

『国際法原理』第6版 / 『萬國公法』全6冊(漢訳翻刻版)/ 「公法問答」(写本)

ホイートン / ローレンス / マーティン / (万国公法)(西周?)

『国際法原理』第6版 / 『萬國公法』全6冊(漢訳翻刻版)/ 「公法問答」(写本)

英文原著(1冊)と漢訳翻刻版(全6冊)と旧所蔵者による「公法問答」と題した写本のセット 1857年 / 1868年? ボストン、ロンドン刊 / 大坂、東京刊

Wheaton, Henry / Laurence, William Beach / Martin, William Alexander Parsons / 西周?

ELEMENTS OF INTERNATIONAL LAW....WITH THE LAST CORRECTIONS OF THE AUTHOR, ADDITIONAL NOTES, AND INTRODUCTORY REMARKS,...BY WILLIAM BEACH LAWRENCE,...

Boston, London / 大坂、東京, Little, Brown, and Company (Boston), Sampson Low, Son, & Co. (London) / 敦賀屋九兵衛ほか(大坂)、須原屋茂兵衛ほか(東京), 1857年 / 慶応元年?. <AB201871>

Sold

6th edition / 漢訳翻刻版

15.0 cm x 24.3 cm / 17.0 cm x 25.2 cm, pp.[i(Title)-iii], iv-cxcvi, 2 leaves, pp.[1], 2-227[i.e.427], 428-728, 以下は第7版の内容の一部が混乱して後年誤って合冊されたもので本来本書に含まれないないもの ([1]-47, lxxv, ;xxvi, [891], 892, 613, 614, 623, 624, 897, 898, ixxvii, lxxviii, 1093, 1094, 1081, 1082, 63, 64, 69, 70, 1091, 1092, 1095), / 4 volumes in 6 vols. Vol.1: ff.(2), 1-7, 1,2, 1-16, 1, 1-15, Vol.2: ff.16-37, 1-16, Vol.3: ff.17-60, Vol.4: ff.61-71, 1-26, Vol.5: ff.1-37, Vol.6: ff.38-75. Contemporary three quarter calf on marble boards / オリジナルと思われる和装本

Information

明治日本の原点となった「万国公法」原著とその漢訳翻刻版

「ホイートンの「国際法原理」日本版は幕末・明治初期の頃、経典の如き権威をもって広く読まれ、「万国公法」は恰も文化・文明の代名詞の如くもてはやされた。明治新政府は政権の座につくが否や忽ち攘夷排外思想をかなぐり捨て、盛んに「天地の公道」「宇内の公義」を宣伝するようになり、これを開国の正当化に奉仕する論拠とした。それはホイートンの原典漢訳「丁韙良・万国公法」がこれを法理論的に支えていたからである。(中略)このように幕末・明治のわが国の対外政策と国際法の導入過程をみてみるとき、ホイートンの「国際法原理」が日本の近代化に与えた影響の量り知れないものであったことに気付くのであり、その貢献はいかに高く評価しても評価しすぎることはないと思われる。」
(松隈清『国際法史の群像』酒井書店、1992年より)


 このコレクションは、明治期の日本が諸外国との近代的外交関係を進める上で、最も影響を与えた書物の一つとして知られるものです。当時、「万国公法」と訳された、国際法(International Law)に基づく近代日本国家の対外交渉の原点となった非常に重要な文献で、原著である英語第6版(1857年)と、それを底本とした漢訳版の翻刻本(1865(慶応元)年)を合わせたものです。

 幕末以降、ペリーをはじめとする諸外国使節との外交機会が激増する中で、江戸幕府、明治政府の要人達は、諸外国が国際法(当時はまだこの訳語は用いられていませんでしたが)と呼ばれる、国家間を規定する法理に従って外交関係を結んでいることを知るようになります。そして、国際法の理解なくして、諸外国との対等な交渉が困難であることを理解し、国際法の受容と正確な理解が急務であるとされました。ただし、欧米諸国が用いている国際法という概念は、その理解のためには、それまでの日本にない西洋独特の思考法を必要とするもので、急を要する当時の日本にとって、不慣れな欧米語原典からの理解は非常に困難が伴うものと思われました。

 そこで、日本よりも一足早くその翻訳が進んでいた中国(清)の漢訳書『万国公法』を日本に導入することで、漢学の素養に基づく急速な需要と理解を図ることになりますが、この漢訳書『万国公法』の翻刻版と、その底本となった英文原著が、ここでご案内するものに他なりません。漢訳書『万国公法』は、清で活動していたアメリカ人宣教師マーティン(William Alexander Parsons Martin, 中国名、丁韙良, 1827 - 1916)が、翻訳したもので、その原著は、ホイートン(Henry Wheaton, 1785 - 1848)が著したElements of International Lawと題された大部の著作で、当時のアメリカのみならずヨーロッパ諸国でも名著とされていた書物です。マーティンによる漢訳は、アロー戦争によってもたらされた不平等条約に苦しむ清朝に、当時の欧米におけるスタンダードな外交概念を導入するためになされたもので、逐語訳とは言えないものの、欧米国際法のアジアにおける最初の翻訳本となり、その訳語の多くがそのまま日本にももたらされることになりました。

 原著者であるホイートンは、ヨーロッパも含めて当時を代表する国際法学者で、外交官をはじめとする公職、法実務においても多彩に活躍した人物です。Elements of International Lawは、彼のベルリン赴任時代に著されたもので、1836年にその初版が刊行されています。初版刊行後も改訂が重ねられ、ホイートンの死後も版を重ね、現在でも国際法の古典的文献としての地位を得ており、「カーネギー国際法古典叢書(The Classics of International Law)」の第19巻には初版が収録されています。

 漢訳本の底本となったのは、著者の死後に刊行された第6版(1855年、1857年)とされており、日本への影響力の大きさという点においては、この第6版が最も重要ということになります。ただし、本書の版の変遷は、改訂されるごとに大幅な増補と変更が行われたことに加え、著者の死後、編者と遺族間に生じた紛争問題もあって、極めて複雑、かつ版ごとの相違が大きくなっていますので、以下それらの事情を簡単にまとめてみます。

①②初版と第2版(1836年)
ロンドン刊(2巻本)/ フィラデルフィア刊(1巻本)
巻構成の違いだけで内容は同一(初版、第2版とはいうものの、同一内容のアメリカ版とロンドン版と言ってよい)

③第3版(1846年)
フィラデルフィア刊
ホイートンのベルリン駐在時代末期に改訂作業が行われたもの。注釈の増補だけでなく内容上も全編にわたって細かく改訂されており、構成の変化に加えページ数も大幅に増加。

④第4版(1848年)
パリとライプチッヒそれぞれにおいてフランス語で刊行。
著者生前最後の増補改訂版で生前決定版とされる。

⑤第5版(1852年)
パリとライプチッヒそれぞれにおいてフランス語で刊行。
内容は第4版と同一。

⑥第6版(1855年)(1857年、本書)
ボストン刊
遺族の依頼を受けて生前からの友人であったローレンス(William Beach Lawrence, 1800 - 1881)が、生前決定版の第4版(フランス語)を底本として英訳し、ローレンスによる注釈、ホイートンの伝記、序文を追加してボストンのリトルブラウン社から刊行した、いわゆるローレンス版。完訳版が底本としたのが、この第6版で日本への影響という観点では最も重要な版。

⑦第7版(1863年)
ボストン刊、ロンドン(Sampson Low)刊
遺族の依頼を受けて再度ローレンスが改訂したもので、ローレンス自身による注釈が大幅に増補されているほか、公文書や各種文献からの引用文が加えられている。
この出版を巡って、出版社とローレンスとの間にタイトルをめぐる紛争が発生、ローレンスによる注釈とホイートンの原文の著作権を巡って、ホイートンの遺族とローレンスとの間にも紛争が発生し、一応の結論を得るも不和が生じた状態に。

⑦' 第7版’(1864年)
ロンドン(Sampson Low)刊
Lawrence(s Wheaton: Elements of international law.と改題したもので、先の紛争の結果、ローレンスが独自に出版したものと思われる。

⑧第8版(1866年)
ボストン刊、ミシガン刊
第4版を底本として、ローレンスによる注釈を一切排除し、ホイートン家と親しかったダナ(Richard Henry Dana Jr., 1815 - 1882)による注釈を新たに加えたもので、南北戦争期に生じた問題や判例、制定法、法解釈などについてなどの膨大な分量に渡る編者の注釈が特徴。これに対して、第6, 7版の編者であったローレンスが著作権侵害との訴えを起こし、以後1893年まで続く泥沼の裁判闘争が展開することに。この間、アメリカにおける本書の出版が停止することになるが、最終的にダナによる第8版の正当性が認められ、国際法の古典的文献としての地位を確かなものになる。

*上記のほか、フランス語訳、イタリア語訳、第8版をめぐる紛争中にも独自に版を重ねたロンドン版など多数の版が存在。


 版によって細かな構成や力点が様々であることが特徴ですが、基本的な構成自体には変わりはありません。本文は、全4部構成をとっており、

第1部「国際法の定義、法源、主体」、
第2部「諸国家の絶対的な国際的権利」、
第3部「平和状態における諸国家の国際的な権利」、
第4部「敵対的(戦争)状態にある諸国家の国際的な権利」

と題して、国際法の基本的な考え方、基本的権利、特定の状況における権利といった国際法に関する議論を包括的にカバーしています。自然法と実定法の双方に配慮し、国際法の歴史的発展にも目を配りながら、自身の外国実務経験を的確に交えて著されており、当時の国際法文献として名著と謳われた理由がよく分かります。また、単なる実務上の最新条約関係をカバーしつつも、単なるそれら羅列に終始することなく基本的な思考法と原則を平易に説いていることから、本書がアジアへの導入書として選ばれたことも納得できるもので、現在の視点から見ても示唆に富む書物ということができます。

 漢訳版は、1864年から65年ごろにかけて北京の崇実館から刊行されており、上述のように原著第6版を底本としているといわれています。原著と同じく4部(巻)構成をとっており、

第1巻「釋公法之義明基本源題其大旨」、
第2巻「論諸国自然之権」、
第3巻「論諸国平時往来之権」、
第4巻「論交戦條規」

と題していて、上記の原著とほぼ同じ構成であることがわかります。細かな注釈や事例について省略しているほか、逐語訳ではなく大意を要約した意訳と言えるものですが、基本的な点はしっかりと踏まえており、当時の日本の多くの知識階級にとって馴染みやすかった漢訳本(の翻刻版)として好評を博した理由がわかります。また、この漢訳版には現在の日本でも用いられている訳語(主権、自然権など)も見ることができ、本書の影響力の大きさが伺えます。また、原著にない独自の内容として、世界地理の概略と東半球、西半球の地図が本文冒頭に掲載されており、当時必要とされた基本的な知識と世界観がいかなるものであったかをここから知ることもできます。

 漢訳本を底本として日本で刊行された翻刻版は、(西周によるものと通説ではされていますが、その真偽は疑わしい)訓点が追記された開成所版(1865年)を基礎として、各種の民間版が繰り返し刊行されたことがわかっています。今回ご案内しているものは、標題に慶応元年(1865年)の表記を持つものですが、おそらく1868(慶応4、明治元)年出版の民間版ではないかと思われます。京都崇実館存版とあるのは、日本の京都での刊行を表すものではなく、清朝北京で刊行された原著の表記を翻刻したもので、巻末の奥付には大坂、東京の刊記があります。

 今回ご案内している本書が大変ユニークなのは、元々の訓点に加えて、当時の読者による朱書きの注釈や強調点が全文にわたって書き込まれている点で、当時本書が日本においてどのように受容されたかの一例を知る大変貴重な資料となっています。また、本書には、朱書きの書き込みと同じ筆者によるものと思われる「公法問答」と題した写本が挟み込まれていることも大変興味深い点です。この写本は、本文に対応してその内容の理解度を測るために作成されたと思われる問答集で、例えば、「問 第一章エートニ氏公法ノ大意如何」といった問いの後にそれに対する答えが記されているものです。第1章を対象としたわずか7葉ばかりの小さなものですが、明治期の国際法受容の一つのあり方を示す資料としては、非常に面白いものと言えそうです。

 ところで、上記のように基本的な構成は同じくするものの、ホイートンによる原著と漢訳版との間には、特に国際法における自然法の重要性の解釈に関する点で少なからぬ相違点があると言われています。漢訳版は、アメリカ人宣教師マーティンによるものだったことから、ことに自然法を強調する意訳となっており、19世紀後半以降の自然法に基礎を置きつつも、実際の外交上における慣例、条約をより重視した実定法的立場にも重きを置いていたホイートン自身の記述と比べると、自然法の解釈を巡る力点の相違は大きいとされています。日本においては、ホイートン原著の記述以上に自然法の重要性を強調した感のある漢訳版が、儒学の性法の概念に近いものとして理解しやすかったこともあって最初に流布したため、後者に立脚した国際法理解が広がる傾向にあったと言われています。その意味では、原著の記述と漢訳翻刻版とを比較して読解することは、非常に重要な作業と言えますが、より具体的に当時の日本における国際法の受容の内実を理解する上で、当時の読者による詳細な注釈や強調点の書き込みと写本の存在は非常に有力な研究素材となるものと思われます。

 また、幕末から明治初期にかけて「万国公法」の名でもって知られたもう一つの重要な書物として、同じ西周による『畢洒林氏萬国公法』(全4巻、1868年)があります。これは、西周と津田真道とが、1862(文久2)年、徳川幕府によってオランダに留学生として送られ、当地にてシーボルトの助手でライデン大学初代日本語学教のホフマン(Johann Joseph Hoffmann, 1805 - 1878)の紹介を受けて学んだ、ライデン大学法学部教授フィッセリング(Simon Vissering, 1818 - 1888)の私的講義を訳述した講義録とも言えるものです。フィッセリングから西と津田が直接受けた私的講義に基づく『萬國公法』と、ホイートンの著作に基づく『萬國公法』は、明治初期の万国公法観の形成において、絶大な影響力を有したという点では同じですが、同じ『萬國公法』というタイトルを持つとはいえ、両書の典拠となったものは全く異なっていて、それは単なる典拠の相違にとどまらず、明治期の日本における国際法理解における重要な相違をもたらすことになります。西周自身は、ホイートンの原著と漢訳版との相違点にも気付いており、その上で自身が学んだフィッセリングの「万国公法」にもとづく持論を展開したと言われています。この幕末明治期の「二つの万国公法」については、大久保建晴氏による浩瀚な調査・研究成果である『近代日本の政治構想とオランダ』(2010年、東京大学出版会)の第3章「「万国公法」需要と文明化構想」において、詳しく論じられています。以下、少し長文ですが、非常に興味深い内容ですので、同書からの引用文を掲載します。

「(前略)1860年代に入りオランダの地に赴いた西と津田にとって、フィッセリングから学んだ「泰西公法」論は、この間(17世紀から19世紀の間のこと、引用者註)の近代ヨーロッパの歴史的な歩みと法学・政治学・経済学の成果を凝縮した、最も先鋭的な学術であったと言っても過言ではない。彼らは、こうした世界史の大きな流れを背負いながら、まさしく「オランダ」の地で「万国公法」を学び、ヨーロッパとは何か、という思想的課題と向き合っていく。
 その一方、徳川末期日本では、西達の留学中、その帰国より一足早く、マーティン漢訳によるホイートン『万国公法』が中国経由で伝播された。この書の受容を通じて、儒学の「性法」に引き付けた万国公法観が形作られ、普及する。それはまたペリー来航以来の、「開国」には「道理」があるのかという主題と結びつくものであり、東アジアの思想的伝統と西洋の学術・道徳・世界認識との間に通底する普遍的規範を析出しようという試みの一つでもあった。中村正直らの思想的営為は、まさにそれを体現したものである。しかし西達から見れば、そうした解釈は自らが学んだ同時代ヨーロッパ国際法の様態と大きくかけ離れたものであった。こうして『惠頓撰・丁韙良訳 万国公法』公刊以前に体系的な形でヨーロッパ国際法に触れていた、西と津田のオランダ留学経験を起点として定めることによって、逆に漢訳ホイートン『万国公法』が広範な影響力を持ったことの意義、ひいては近代日本における国際法受容の特徴的性格を、より鮮明に理解できるようになる。
 そして何よりも、『畢洒林氏萬国公法』を中軸に据えることにより、「万国公法は普遍的規範か」それとも「強国が弱小国を支配するための道具か」という二項対立のみに改称されない、その背後に存在する、非西洋圏における文明化と独立をめぐる思想的格闘と論争の軌跡が浮かび上がってくる。「万国公法」のうちに、「万国」が従うべき「性法」に基づく普遍的な秩序規範を求め、そうした国際社会における「自然」に合致したものとして自由貿易の積極的意義を唱えた、中村正直。「万国公法」とは結局は西洋諸国を中心とする「泰西公法」であることを認め、しかしなおそこに胚胎する「相生養の道」に根差した自由主義経済論や立憲主義論のうちに文明的価値を見出し、「泰西公法」のもとで非対称な条約を甘受しながらも、対外関係を拡充することによってのみ、「独立不羈の自主帝国」としての文明化が可能になると説いた、西周と津田真道。日本もアフリカも西洋諸国も、同じ「天理人道」のもとにあるとして、日本国民の「独立心」を喚起する一方、現実の国際関係にはその様な「天理人道」「正理」は存在せず、「外国交際」は西洋列強による「パワ、イス、ライト」の論理によって貫かれていると喝破し、西洋諸国の進出に対抗して、国家としての独立を保つためにも、「外国交際」の範囲を極力限定しながら、「内を修め」「報国心」を涵養することを危急の課題であるとした福沢諭吉。彼らの相互に共通性と反撥を孕んだ取り組みは、ヨーロッパ国際体系の周縁から、近代ヨーロッパが体現する政治的・経済的・道徳的諸価値をいかに対象化し判断するか、という課題と深く結びつきながら、明治初年の言論空間を構築していったのである。
 以上のように19世紀後期日本では、万国公法が多義性を孕みながら受容され、普及するなかで、国際認識の転換が図られていく。そしてそれはまた、半ば当然のことながら、旧来の東アジア国際秩序の捉え直しを伴うものであった。(後略)」
(前掲書、230頁〜232頁)


 「万国公法」は、幕末明治期の日本の外交交渉において、極めて重要な役割を果たしただけでなく、明治政府の国内統治のための権威としても用いられており、特に当初は攘夷を掲げていた明治政府側の要人が、諸外国との交際を積極的に進めるための理論的武器として、繰り返し持ち出されました。明治政府が最初に担うことになった外交事件である神戸事件の処理に際しても、日本側責任者の処刑を正当化するための理論として万国公法が用いられたことが知られています。このように、近代国家としての日本が確立される過程において、極めて重要な役割を果たした「万国公法」とその原著とを、現在の視点から改めて考察することは、国際法史研究上の意義はもちろん、現代のグローバル社会の原点を多面的に理解するという点においても非常に意義深いことではないかと思われます。


*翻刻版『萬国公法』の訓点者については、通説では西周によるとも言われており、また早稲田大学図書館の書誌においてもそのように記載されていますが、西の帰国時期や前後関係に鑑みますと、西自身が訓点を付したとは考えにくいものと思われます。カタログ作成当初には西周とさせていただいておりましたが、上記のようなご指摘をお客様より頂戴いただきましたため、(西周?)という表記に訂正し、解題文中の表記も訂正させていただきました。ご指摘に御礼申し上げますと共に、不確かな情報に基づいて当初の記載を行ってしまっておりましたことに深くお詫び申し上げます。

原著は720ページを超える大著。
原著第6版タイトルページ、旧蔵機関の蔵書印と除籍印が押されている。
原著目次冒頭。全4部構成からなり、さらに細かな章題が設けられている。
原著目次②
原著目次③
原著目次④
原著目次⑤
第6版の編者ローレンスによる長文の序文冒頭。
著者生前最後の版となった第4版(上記④に該当、フランス語で刊行)のホイートン序文。
第3版(上記③に該当)のホイートン序文。
初版(上記①に該当)のホイートン序文。
本文冒頭箇所。当時の読者によるものと思われる複数の書き込みが多数見られる。
当時の読者の読み方、注意点、解釈などを書き込みから読み取ることもできる興味深いもの
天部分には旧蔵機関による蔵書印と除籍印が押されている。
漢訳本翻刻版は全6冊からなる。題箋も全て残存しており状態も非常に良い。
標題に京都とあるのは、日本の京都ではなく、中国(清)の首都である北京のことを指す。枠外に慶応元年(1865年)の記載があるが、本書の実際の刊行時期は1868年ごろと思われる。「官版」をはじめとして様々な民間版も発行されたが、本書は後者の一つにあたる。用いられている木活字は官版と同じように見受けられる。官版では、表題紙上部の「慶應元年」に続いて、「開成所繙刻」とあったが、本書ではそれが抹消されている。
漢訳翻刻本の目次冒頭。上掲の原著目次との比較をしてみるだけでも面白い。
漢訳翻刻本の目次②
漢訳翻刻本の目次③
漢訳翻刻本の目次④
漢訳翻刻本の目次⑤
漢訳翻刻本の目次⑥
漢訳翻刻本の目次⑦
漢訳翻刻本の目次⑧
漢訳翻刻本の目次⑨
漢訳翻刻本の目次⑩
漢訳翻刻本の目次11
漢訳翻刻本の目次12
漢訳翻刻本の目次13
漢訳翻刻本の目次14
漢訳翻刻本の目次15
漢訳翻刻本の目次16
漢訳翻刻本の目次17と、原著にはない世界地理の概略と地図(東半球)
原著にはない世界地理の概略と地図(西半球)枠外に朱書きされた当時の読者による注釈は、当時の解釈の仕方、力点などが垣間見える内容で大変興味深い。
書き込みは全文に渡ってなされている。
最終巻末にある奥付。
漢訳翻刻本に挟み込まれている「公法問答」と題した写本。本文第1章の内容に即して要点をまとめた問答集のようで、本文の書き込みを行ったものと同一人物によるものと思われる。
写本に記された内容が本文に書き込まれている箇所も確認できる。
わずか7葉の小さなものだが、きちんと綴じられたうえで挟み込まれている。
幕末から明治期にかけて広く流布した漢訳翻刻本とその底本となった原著第6版を改めて精査することは、現代国際社会の再考察においても非常に意義のあることと思われる。