書籍目録

「旅行者のための日本地図と主要都市図」

喜賓会

「旅行者のための日本地図と主要都市図」

第2版 1899(明治32)年 東京刊

The Welcome Society

WELCOME FOLIO CONTAINING MAP OF JAPAN FOR TOURISTS & IMPORTANT CITIES.

東京市, 東京印刷株式会社深川分社, 明治三十年十一月六日印刷 十一日発行 明治三十二年五月十日増訂印刷 五月十五日発行. <AB201854>

Sold

2nd ed.

58.0 cm x 87.2 cm(Folded: 10.5 cm x 19.8 cm), 1 sheet, Original folding map

Information

喜賓会が作成した外国人向けガイドマップ第2版

 この地図を発行していた喜賓会(Welcome Society of Japan)とは、1893(明治26)年に、東京商業会議所の初代会頭であった渋沢栄一、三井物産の設立と三井財閥の近代化に大きく貢献した益田孝、貴族院議長であった蜂須賀茂韶らによって設立された非営利組織で、主に来日外国人に対する様々な便宜を図ることをその主たる目的としていました。明治日本における最初の来日観光客を対象とした組織であり、今で言うところの「インバウンド」について初めて対応した日本における、観光組織の原点とも言える存在です。現代の日本交通公社の前身であるジャパン・ツーリスト・ビューロー(1912年設立)が設立されるまで、増加する来日外国人観光客の対応を手探りながら一手に担っていました。喜賓会設立当初は、まだ来日外国人は明治政府によって定められた居留地を中心とした特定の範囲外の訪問は一般に許されておらず、特別の許可を得ることなしに「内地」を訪問することはできませんでした。これが許可されるようになるのは、1894年に締結された日英通商航海条約が発効された1899年のことですから、喜賓会設立当初は、来日外国人のいわゆる「内地」訪問の便を図ることも大きな仕事の一つであったと考えられます。

 喜賓会は、その目的として、
①外国人来日観光客を対象とした旅館(ホテル)の設備改善の勧告、
②外国人来日観光客を対象とした案内業者(開誘社、東洋通弁協会などの通訳団体など)の質的管理、斡旋、
③観光施設(ここには公共建築物や各種学校、工場なども含まれています)観覧に際しての便宜提供、
④外国人来日観光客と日本各界における重要人物との交流促進、紹介、
⑤ガイドブックとガイドマップの刊行、
を掲げて活動を行なっていました。

 この地図は、言うまでもなく上記の⑤にあたるものとして作成されたものです。1897(明治30)年に初版を発行してから、喜賓会が解散するまでの間に11もの版を重ねていることから、目まぐるしく変化する社会情勢に合わせて細かくアップデートを行いながら、常に「最新の日本ガイド地図」であることを目指していたことがわかります。この地図は、1899(明治32)年に刊行された第2版にあたるもので、喜賓会が刊行していたガイド地図の最初期の変遷過程を伝えるものとして非常に貴重なものです。

 地図全体は、概ね初版を踏襲していますが、地図の相違点として目につくことは、①東京、京都、大阪の都市図、②統計情報が新たに加えられたことです。①は、以降の喜賓会のガイド地図に盛り込まれるようになり、②は第3版で一旦消えるものの、後年の版では継続して採用されるようになります。地図全体は次の第3版で大きく形状を変えますので、初版の流れを直接組む地図としては、この第2版までであることがわかります。

 折り畳んだ際に表紙となる部分には、初版と同じく美しい多色刷りの図版が採用されていますが、デザインが変更されている点に加えて、初版では木版刷であったのがこの第2版ではリトクグラフ印刷に変更されていることが、大きな特徴です。第3版では、それまでの日本画風の意匠を変更して、リトグラフ印刷を採用したデザイン表紙としていることから、初版に近いデザインでリトグラフ印刷としたこの第2版は、ちょうど初版と第3版との過渡期的な意匠ということができます。喜賓会の趣旨と業務内容を解説する文章は、初版に比べてかなり短いものになっており、それによって確保できたスペースに都市図が組み入れられています。テキスト内容は、第3版の内容に近いものですが、細かな点で文章が異なっています。文章末尾が1冊毎に記入されたシリアルナンバー(本図は2273番)と署名欄(本図には署名跡なし)になっていて、その部分が喜賓会会員証となる点は、初版から第3版までの変わらない特徴です。また第2版が、1万部印刷されたことも記されています。

 このように見てみると、喜賓会が作成したガイドマップは初版から第3版にかけて細かなアップデートを繰り返し、利用者の弁を模索しながら様々な改訂を施していたことがよく分かります。

 裏面が喜賓会の業務に関連する会社の広告となっている点は、初版から最終版までの変わらない特徴ですが、広告を掲載している企業や広告デザインは版ごとに異動があり、それらの変遷をたどるということも非常に興味深い研究テーマと言えそうです。この第2版で特に目につくのは、外国人旅行者のための通訳ガイド会社としての業務を行なっていた開誘社の広告で、当時のガイド料金やサービス内容、横浜、神戸のそれぞれのスタッフ名が記されているほか、喜賓会から公認されている通訳ガイド会社であることが記されています。それ以外にも、主要な外国人向けホテルや金融機関、汽船会社の広告を見ることができ、例えば、馬の代わりに人が車を引く「人車会社」として著名だった豆相人車鉄道株式会社の広告などは、当時の交通状況を知ることができる大変興味深いものと言えるでしょう。

 喜賓会については、これまでも一定の研究の蓄積がある反面、実際の刊行物や活動がいかなるものであったのかについては、資料の不足もあり、あまり知られているとは言い難い状況にあります。近年とみに叫ばれるようになった「インバウンド」について、明治日本が手探りながらどのような活動を行なっていたのかを知ることは、現代の観光研究を行う上でも重要な示唆を与えることになるのではないかと思われます。その意味では、この地図は、確かに当時来日した外国人観光客が実際に用いた喜賓会発行ガイド地図という点で、重要な研究素材になりうるものと言えるでしょう。 

「案内書及案内地図に関すること
本会は携帯に簡便にして且つ正確なる英文日本案内地図の欠乏せるを遺憾とし、明治三十年全国各地に照会して材料を蒐集し、多大の労力と注意とを払ひ一冊を編成し、之を刊行して汎く内外各地に頒布せり当時此種の地図皆無なりしを以て、本邦に於ける各英字新聞紙は我邦旅行上の好侶伴なりとし、何れも筆を揃へて此挙を激賞せり。本会は此地図を特製帙入となし、別に邦文を以て本会の組織・目的及本図刊行主意書を添へ、宮内大臣に執奏を願出で聖上皇后両陛下並に皇太子同妃両殿下に献納の光栄を得たり、此地図は時に或は仏文を以て発刊したることあるも重もに英文を以てし、断へず改訂増補に意を用ゐ版を重ぬること既に十一版の多きに達せり。本会は英文を以て第五回内国勧業博覧会及全国勝地案内書を編纂し、美麗なる風景画を挿入し、装釘亦意匠を凝らせしが、農商務省博覧会事務局は特に此案内書を買上げ、同省の招待せる来遊貴賓に進呈し、又別に清文を以て同一体裁の案内書を刊行し、清国より来賓に進呈したり。博覧会の終了するや、本会は多年の希望に係る簡便正確の英文日本案内書の刊行を必要とし、明治三十七年鋭意之が編纂に着手し、記事の体裁は彼の「ベデカー」著欧米諸国の案内書に準拠し、距離・時間より船車・宿泊等の賃金費用等に至るまで悉く網羅して、内地各方面に亘る旅行の方法を列挙し、経費の多少を比較し、沿岸航路の便否を示し、美麗なる風景図を挿入して汎く之を頒布せしが、大に内外の賞讚を博し、会務発展上多大の便宜を得たり。」
(喜賓会本部編「喜賓会解散報告書」渋沢青淵記念財団竜門社編『渋沢栄一伝記資料第25巻』所収より)

全体図。
折り畳んだ際に表紙となる部分に日本画風の意匠が与えられているのは初版と同じだが、デザインが変更されており、また木版刷からリトグラフに変更されていることが特徴。
喜賓会の趣旨と業務内容を解説した文章は初版に比べて短くなっており、第3班に近い内容と分量になっている。末尾がシリアルナンバーと署名欄があり会員証となる点は初版から第3版まで同じ。
地図の形状は概ね初版を踏襲しているが、細かに改定されている。
初版にはなかった主要都市市街図はこの第2版で初めて登場し、以後継続して採用されている。
当時の主要航路、陸路を示した世界地図が掲載されるのは、初版と第2版のみ。
第2版で新たに加わった統計情報は、一旦第3版ではなくなるが、後年の版では継続して採用されることになる。印刷会社は東京印刷、発行人は南貞助。
裏面が広告となっているのは初版から最終版まで変わらぬ点。
外国人旅行者向けの通訳ガイド会社であった開誘社の広告。
馬ならぬ人が車を鉄道上で曳く人車鉄道の代表格であった豆相人車鉄道株式会社の広告。