書籍目録

『ウィリアム・アダムズからの二つの手紙』

アダムズ / アア

『ウィリアム・アダムズからの二つの手紙』

1706年 ライデン刊

Adams, William. / Aa, Pieter Vander.

TWEE BRIEVEN VAN WILLIAM ADAMS; Wegens sijn REYS Uyt Holland na OOST - INDIEN, Met vijf Schepen, Anno 1598 en vervolgens. En wat ontmoetingen hem in Japan overgekomen zijn. Nu aldereerst uyt het Engelsch vertaald. Met Konst-Print en Register verrijkt.

Leiden, Pieter van der Aa, 1706. <AB201852>

¥253,800

First edition in Dutch.

8vo (11.5 cm x 17.2 cm), Title, pp.1-24, 2 leaves, Folding plate: [1], with a hand colored map, Modern marble paper wrappers.

Information

日本に最初に漂着した平戸に眠るイギリス人、三浦按針を描いた唯一の地図を収録

 本書が取り扱うアダムズ(William Adams, 1654 - 1620)は、1600年に豊後に漂着した最初のイギリス人で、家康の外交顧問として日本に残り「三浦按針」という日本名と所領を与えられるという異例の待遇を受けた外国人として大変有名です。本書は、アダムズについて言及する際、必ずと言ってよいほど言及されることが多い、アダムズが日本からイギリスに宛てて認めた2通の書簡をオランダに翻訳して収録したものです。

 オランダは、1602年のオランダ東インド設立前の1600年前後から東インド地域への航海を精力的に開始します。アダムズはイギリス人でしたが、軍船や商船での航海経験を買われて、初期のオランダ東インド航海に参加することになり、1598年にオランダのロッテルダムを出港しました。しかし、この船団の航海は敵対するスペイン、ポルトガルによる拿捕や航海中の難破、漂着先の住民による殺害などに会い、ほとんどの船と乗組員が失われるという悲劇に見舞われてしまいます。数少ない生存者であったアダムズが乗るリーフデ号は、悲惨な航海の末に関ヶ原の戦いの約半年前の1600(慶長5)年4月に豊後にかろうじて漂着しました。徳川家康は、リーフデ号と乗組員の素性と目的を取り調べるために、大坂に彼らを召喚、尋問しますが、その際にアダムズのやりとりにいたく感心した家康は、その後も度々彼らとの面会の場を設けています。その結果、国際情勢についてポルトガル・スペインといったカソリック諸国以外からの情報とコネクションを渇望していた家康は、アダムズを外交顧問として自らの側に置くことを決め、西洋帆船の建造や航海術、貿易顧問といった様々な役割をアダムズに与えて重用しました。アダムズは家康から高く評価され、三浦按針という日本名の付与と帯刀許可、所領を与えられるという異色の外国人顧問となりました。

 アダムズは、日本に最初に漂着したイギリス人ですが、オランダ船の乗組員として漂着したこともあり、彼の尽力よって1609年にオランダとの国交樹立と平戸でのオランダ商館設立が実現し、また、1613年にイギリスの公式使節として初めて来日したセーリス(John Saris, 1579? - 1643)の国交樹立と商館設立の交渉にも協力し、イギリスはオランダと同じく平戸に商館を設置することができました。したがって、アダムズは、イギリス、オランダ両国と日本、とりわけ平戸との関係において欠くべからざる重要な役割を果たした人物と言うことができます。

 アダムズはイギリスへの帰国を願ったこともありましたが、家康に認められることはなく、また自身も次第に日本に残る決意を固め、1620年に平戸で亡くなりました。本書に収められている書簡は、1611年10月22日付に認めたものと、アダムズがまだ帰国を希望していたと思われる頃に認めた本国の妻に宛てたものの2通からなります。前者は、イギリスの読者に対して、自身の漂着の経緯と日本での待遇、現在の状況などを紹介したもので、この書簡によって日本にイギリス人が外交顧問として重用されているという情報が当時のヨーロッパにもたらされることになりました。後者の妻に宛てた書簡は、前者の書簡よりも前に書かれたもののようで、同じく漂着して日本に来ることになった数奇な運命を説明するとともに、いずれイギリスに帰りたい旨が吐露されています。

 アダムズの書簡は、刊本での紹介としては、1617年に刊行されたパーチャス(Samuel Purchas, 1577? - 1626)の『航海記(Purchas his Pilgrimage. 2nd ed.)』において紹介されたものが初出と思われ、以後様々な航海記に繰り返し掲載されたことで、17世紀中からヨーロッパでも開く知られることになりました。本書は、17世紀後半から18世紀初めにかけて活躍した当時のオランダを代表する出版社、編集人の一人であったアア(Pieter van der Aa, 1659 - 1733)がオランダ語に翻訳して出版したものです。アアは、17世紀までの世界の主要な航海、旅行記を網羅的に収録し、豊富な図版や地図とともにオランダ語で出版するという壮大な『ポルトガル、スペイン、イングランド、 その他の国々による航海、旅行記集成(De Aanmerkenswaardigste en Alomberoemde ZEE - EN LANDEREIZEN DER PORTUEEZEN, SPANJAARDEN, ENGELSEN EN ALLERHANDE NATIËN: ZOO VAN FRANSEN, ITALIAANEN, DEENEN, HOOGH-EN NEDERDUITSEN Als van beetle Andrew Volkeren. 8 vols.1706-1707)』を着想し、その一環としてアダムズの書簡も『航海記』に収録されることになりました。また、アアは航海記のために収集した個別の資料を、独立した単独の出版物としても刊行しており、本書はこれにあたるものです。このアアによる『航海記』は、図版や地図をふんだんに用いた点に際立った特徴があり、本書にも日本地図とともに、アダムズが大坂で家康に接見する場面を描いたと思われる図版を採用しています。アダムズが図版で登場するのは、それまでの英語版にはなかったことで、その結果、このオランダ語版が最も印象的な「アダムズの書簡」として記憶されることになり、現在の日本でも「アダムズの書簡」といえば、このアアによるオランダ語版が言及されることが多くなっています。

 本書付随の日本地図は、ダッドレー・ヤンソン型と呼ばれる類型に属するもので、直接的には、1652年にフランスのサンソン(Nicolas Sanson, 1600 - 1667)が刊行したアジア地図帳(L'Asie En Plusieur Cartes Nouvelles et Exactes.Paris, 1652)に収録された「日本図(Les Isles du Iapon)」を参照したと思われるものです。その輪郭はそれほど正確ではありませんが、本州、四国、九州のおおよその形は捉えているといえます。また、地図中には地名と地形や都市を示す図が記されており、アダムズが漂着した豊後(Bungo)や、平戸(Tirando, サンソンの地図にあったFirandoという文字を誤植したものと思われる)の地名が確認できる一方で、九州に四国(CIKOKO)と表記しているなど不正確な点も見えます。北海道は、「蝦夷大陸」として広大に描かれていますが、これは当時この海域についての情報が極めて不十分であったことに由来しています。右下の図では、玉座にいる将軍家康に対してアダムズが跪いて謁見する場面が(想像で)描かれています。

 アアによる『航海記』の全巻揃いは言うまでもありませんが、独立した小冊子として刊行された「アダムズの書簡」も現在では入手することが難しくなっており、特に状態のよい地図を備えたものは大変貴重です。
 

タイトルページ。アアの特徴的なデバイス(出版社マーク)
テキスト冒頭部分。
漂着先(日本ではない)で襲われる場面を描いた図
本文末と索引
地図は折り込みではなく、付属する形。
右下にアダムズが家康に接見する場面が描かれている。平戸はTirandoと記されている。
後年のマーブル紙による簡易装丁。