書籍目録

『東亜英文旅行案内 第5巻:フィリピン諸島、仏領インドシナ、シャム、マレー半島、蘭領東インドを含む東インド』

鉄道院編

『東亜英文旅行案内 第5巻:フィリピン諸島、仏領インドシナ、シャム、マレー半島、蘭領東インドを含む東インド』

初版 1917年 東京刊

The Imperial Government Railways of Japan (鐵道院)

AN OFFICIAL GUIDE TO EASTERN ASIA: TRANS-CONTINENTAL CONNECTIONS BETWEEN EUROPE &ASIA. Vol. V: EAST INDIES INCLUDING Philippine Islands, French Indo-China, Siam, Malay Penisula, and Dutch East Indies.

Tokyo, Tokyo Tsukiji Type Foundry (株式会社東京築地活版製造所), 1917 (大正六年三月廿九日印刷 大正六年四月一日発行). <AB201829>

Sold

First edition.

11.4 cm x 16.1 cm, pp.[i(Title)-iii], iv-xxx, [1], 2-519, Folding colored maps: [14], Maps & Plates: [12], with 1 folding colored map in slip case pasted on back endpaper, Original publishers cloth.

Information

鉄道院による渾身の力作、英文ガイドブックの最終巻

「鉄道院による旅行案内書のなかでも特筆されるべきものは、大正2 (1913)年から全5巻で出版された『東亜英文旅行案内』(An Official Guide to Eastern Asia)である。鉄道院による日本国内の鉄道旅行案内所の出版がはじまってまもない時期にもかかわらず、英文による全5巻の案内書では、日本全域はもとより、満州、朝鮮、中国、東インド、フィリピン、仏領インドシナ、蘭領インド品、海峡植民地、そして改訂版ではシベリアにまでその記述は及んでいるのである。」
(荒山正彦『近代日本の旅行案内所図録』創元社、2018年より)

「マレーの日本ハンドブックの最終の第9版が出たのが1913年であったが、それと踵を接するように出版されたのが、鉄道院のオフィシャル・ガイドブックであった。茶色の表紙に金文字を刻んだ装丁はマレーによく似ている。同書は1913年から1917年まで5巻にわけて出された大部なガイドブックで、日本だけでなく広く東アジア全体をカバーしている。そもそもこのガイドブックの編纂がシベリア鉄道の開通を契機としていたからである。シベリア鉄道の開通は輸送と旅行の急増をもたらし、これまでの海路による世界一周だけでなく、おもに陸路による世界一周旅行も可能になった。このガイドブックは、西欧からシベリア鉄道を経由してアジアを旅する旅行者のための案内書として編まれたものであった。」
(横浜開港資料館編『世界漫遊家たちのニッポン』横浜開港資料館、1996年より)

「『東アジア旅行案内』の企画が実行に移されたのは、明治41(1908)年秋と伝えられている。立案者は逓信省に属する帝国鉄道庁運輸部で旅客課長の地位にある木下淑夫(1873-1923)であった。これに対して、南満州鉄道総裁を経て、第二次桂内閣における逓信大臣の地位に後藤新平(1857-1929)が就任したのは、明治41(1908)年12月5日であった。木下淑夫は、明治40年11月16日以来、旅客課長の地位を占めてきた。
 開明的な鉄道官僚としての木下は、明治32(1899)年に鉄道作業局に入り、翌7月にはパリで開かれた万国鉄道会議に、鉄道作業局長松本荘一郎に随行して参加した。その後、明治37年8月、合衆国に自費留学し、38年5月以降は官費留学の扱いで、合衆国から西ヨーロッパへと渡っている。
 ヨーロッパにおいては、観光施設の視察、外客誘致の方策について、詳細な調査を行なったという。こうした経験をもとにして、彼が英文旅行案内の刊行を思いたったのは、当然の帰結と思われる。すでに、ポーツマス条約にもとづく、満州での日露両国鉄道の接続が実施され、シベリア鉄道を介してヨーロッパの鉄道とも結ばれる事態を考えれば、日本に限定することなく、満州、中国本土をも含めた英文旅行案内を刊行することが、国力の進展に寄与すると判断したのであろう。(中略)
 総裁のめまぐるしい交代にもかかわらず、『東アジア旅行案内』の編纂事業が着々と進行したのは、国際観光客の誘致が国策とされ、そのためのてだてが至上の命題とされていたからであろう。またその事業が、特定の総裁の思いつきにおわることなく、鉄道院の幹部の間で、ぜひともなしとげる必要のあるものと意識されたため、とも考えられる。(中略)
 明治42(1909)年の当初から、具体的な編纂に着手した『東アジア旅行案内』刊行事業は、国内各地に旅客課員を派遣して、資料収集、現地調査にあたらせたほか、同様の作業を目的として、外国へも係員を出張させるほどの意気込で実施された。(中略)
 具体的な執筆作業では、まず和文原稿を完成させ、ついでこれの英訳に着手した。日本国内については、鉄道作業局、帝国鉄道庁、鉄道院が、いずれも和文の『鐵道旅行案内』を刊行してきたが、そのいずれにもよらず、文案をねったという。内容的にみても、確かに『東アジア旅行案内』のほうが豊富であり、かつ洗練された筆致であることが、相互に読み比べてみると、明らかになる。全5巻のどの場合にも地図を数多く配し、また写真を多く掲載した。
 さて、『東アジア旅行案内』の第1巻を構成する「満州朝鮮案内」は大正2年10月に刊行、第2巻「西南日本案内」と第3巻「東北日本案内」は大正3年7月の同時刊行、第4巻「支那案内」は大正4年4月刊行、第5巻の「東インド諸島案内」は、ややおくれて大正6年4月に刊行の順を追い、全巻は無事に完結した。 
 これらのガイドブックは、ジャパン・ツーリスト・ビューローが販売を請負い、また先に述べた「マレー案内」(Murray's Handbook, Japan 販売の日本総代理店をつとめたケリー・ウォルシュ商会にも委託している。
 初年度の売りあげは、738部であったが、このうち600部がケリー・ウォルシュ商会の手によるものであったという。
 この程度の成績では、その作成に費やした年数と費用を考えれば、採算などのあうはずはない。にもかかわらず、大正6年刊行の『東インド諸島案内所』に至るまで、その事業を完遂したのは、異常ともいうべき執念がかけられていたからであろう。」
(中川浩一『旅の文化誌』現代ジャーナリズム出版界、1979年より)

見開きが本書で扱う地域全体の地図を兼ねている。
タイトルページ。右側にこれまで刊行された巻の価格も記載されている。
序文冒頭部分。本書にかける並々ならぬ思いが伝わってくる。
多数の折り込み地カラー地図を収録しているのも特徴の一つ。
バンコク市街図。
写真も多用しており、視覚的にも楽しめる内容となっている。
シンガポール市街図。
奥付部分。明治の活版印刷所の名門として名高い東京築地活版製造所は、鉄道院がその出版物の印刷に好んで用いた印刷所の一つ。
奥の見返しは日本も含めた東アジア全体の地図で、全5巻のそれぞれがどの地域を対象としているかを示している。右側(裏表紙の裏面)はスリップケースになっていて、本文綴じ込みのものとは別の折り込みの地図が収録している。
スリップケースに入っている折り込み地図。本書が扱う地域全体の広域地図。
千切れてしまってはいるが、緑色の栞紐と、購入時に挟み込まれていたと思われる紙の栞の様なものが残っている。