書籍目録

『日本中部・北部旅行案内』

サトウ / ホーズ

『日本中部・北部旅行案内』

第2版 1884年 ロンドン刊

Satow, Ernest Mason / Hawes, Lieutenant

A HANDBOOK FOR TRAVELLERS IN CENTRAL & NORTHERN JAPAN...

London, John Murray, 1884. <AB201826>

Sold

Second edition.

12. 5 cm x 18.8 cm, pp.[(1(Half Title()-(3(Title))-(5)], (6-119), [1] , 2-586, [(1)], (2-14), Folding maps: [6], Maps: [1], with 2 folding maps in slip case pasted on back endpaper, Original publishers cloth.
表紙に水染みの跡あり。

Information

サトウとボーズによる英文『日本旅行ハンドブック』マレー社版初版(通算第2版)

「マレー社の日本旅行ハンドブック
 
 ここでマレーと略称しているのは、1881年(明治14)から1913年(大正2)まで、9版にわたって出版されたマレー社の日本旅行ハンドブックのことである。
 ロンドンのマレー社の旅行ハンドブックは、1836年から1913年まで70年以上続いた赤い表紙のシリーズで、世界各地の旅行ガイドブックとして英語圏を席巻し、マレーといえばベデカーとともに広く旅行案内所を意味した。日本旅行ハンドブックもこのシリーズの一部であった。トマス・クックが団体旅行を組織しはじめるのが1840年代であったが、多くの旅行者は自分で汽車や汽船やホテルを手配する必要があり、ガイドブックを必要としていたのである。
 1881年(明治14)、サトウとホーズによる『日本中部・北部旅行案内』が横浜のケリー社から出版された。第2版以降がマレーのシリーズとして出版されたので、これがのちにマレーの第1版として扱われることになった。ほかで出版されたものが途中からマレーのシリーズに入るのは稀なことであり、他に1例をみるのみである。サトウは著名なイギリス人外交官・日本研究家であり、ホーズはもとイギリス海兵隊士官で、横浜周辺遊歩区域図の作成者でもある。この本は最初の本格的な日本旅行ガイドブックであったが、精力的な現地調査の成果であり、また学究肌のサトウの性格も反映して、マレーのシリーズのなかでも学術的色彩の濃いものとなっているのが特徴である。
 序文にあるとおり、このガイドブックはそもそもマレーのハンドブックをモデルとして編まれたものである。赤字に金色文字の装丁もそっくりである。最初に、遊歩区域や旅行免状、通貨、参考書(歴史書や旅行記)、天候、荷物、旅装などについて詳細な序章があり、そのあとに54のルートにわけて旅程や宿、名所などが案内されている。ここで注目されるのは、ルート1が東京都その近郊、ルート2が横浜とその近郊となっており、全体的にルートの起点が東京になっていることである。海外航路の汽船の発着地である横浜はほとんどの旅行者が立ち寄る開港場出会ったが、東京–横浜間にはすでに鉄道が通り、さまざまな機能の中心がすでに東京へ移っていた。東京の公使館に勤務するサトウにとって、首都東京を旅行の起点とすることは自然な発想であったのかもしれない。
 この第1版はすぐに売り切れ、第2版が3年後の1884年にロンドンのマレー社から出版された。サトウは前年に賜暇を得てイギリスにもどっており、第2版をマレー社から出版するために同社と連絡をとっている。日本から届いた広告頁を印刷所にまわすことなどの連絡で、印刷も最終段階に入っていることがわかる。こうして第2版は印刷もロンドンで行われ、表紙も特徴あるマレーのハンドブックそのものの装丁となった。約1,000部が印刷されたが、マレーの日本ハンドブック全9版のうちロンドンで印刷されたのはこの版だけである。マレー社のジョン・マレーからサトウにあてた書簡をみると、この第2版をめぐってマレー社と著者たちとの間にトラブルが生じていたことがうかがわれる。出版がおくれたこと、印刷部数のうち何部日本へ送るか不明だったが、600部を送ったこと、印刷費が予想外にかさんだことなどが記されている。費用の負担問題は第3版の準備にもからんでいた。(中略)
 こうして第3版は最初の二人の著者の手を離れ、チェンバレンとメイソンが引き継ぐことになった。第2版から7年を経た1891年、大幅に改定された第3版がようやく出版されることになったのである。(後略)」
(横浜開港資料館編『世界漫遊家たちのニッポン』横浜開港資料館、1996年より)

「英文による日本旅行案内書を最初に書いたと判断される人物は、アーネスト・メーソン・サトウ(Ernest Mason Satow, 1843-1929)である。スウェーデンの貿易商人を父とし、イギリス夫人との間に生まれた子どもであるアーネストは、18歳のときにイギリス外務省の通訳生試験に合格し、1861年にイギリスをはなれ、翌年9月に横浜に到着した。彼の来日の動機となったのは、ローレンス・オリファントが記した『エルギン卿のシナ、日本への使節記』によってかきたてられた、東洋の国への幻想とされている。
 明治維新の影の舞台で活躍し、根まわし役をつとめたアーネスト・サトウは、公務執行のためにも、また余暇の活用の方途としても、日本の各地をたびたび旅行した。1868年(慶応4)年には、富士登山を行なっている。
 1875(明治8)年に、彼は『日光旅行案内』A Guide-book to Nikko を出版した。刊行地は横浜とされているから、版元はケリー・アンド・ウォルシュ商会ではなかろうか。それから6年をへて、彼は退役海軍士官A・G・S・ハウスと共編して『中央・北日本案内』A Handbook for Traveller's in Central and Northern Japan を、ケリー・アンド・ウォルシュ商会から刊行することになる。
 この書物の刊行については、全般的な資料をチェンバレン(Basil Hall Chamberlain, 1850-1935)、アストン(William George Aston, 1841-1889)から求め、大和吉野地方、信濃・飛騨の山地をガウランド(William Gowland, 1850-1913)、岩鷲山・岩木山・碧梯山の登山記を中心とした北部日本の山岳についてはミルン(John Milne, 1849-1922)、八ヶ岳・白山・立山についてはアトキンソン(Robert William Atkinson, ?-?)から、材料を得たとされている。その際にガウランドは、信濃と飛騨の高山を"ジャパニーズ・アルプス”と記して、日本アルプスという用語の創始者となったのである。
 『中央・北日本旅行案内』は、1884(明治17)年に第2版を刊行したが、編者の一人であるサトウは、1884年にシャム総領事としてバンコクにおもむき、ハウスも日本を去っている。このような事情によるために、第3版は版権をチェンバレンとメーソンにゆずり渡し、大改訂を加えたうえで、日本全域をカバーする案内書となって登場するのであろう。」
(中川浩一『旅の文化誌』現代ジャーナリズム出版界、1979年より)

特徴的なマレー社のハンドブックの赤に金文字の装丁、染みが見られるが状態は概ね良好。
見返し部分。ケリー社の日本関係の英文出版物カタログ。錚々たるタイトルが並んでいる。
タイトルページ。
第2版のための序文。
非常に長い序章に続いて、東京から解説が始まる。市街の折り込み地図も収録している。
当時の外国人の旅行先の定番であった富士周辺。
日光近辺。
大阪市街図。
京都市街図。
北海道全図。
九州全図。
巻末には広告ページが設けられており、ホテルや汽船会社の広告が並ぶ。
後ろの見返しはマレー社の旅行ハンドブックシリーズの広告になっている。右頁(背表紙裏)はスリップケースになっており、2枚の折り込み地図を収録している。
見返し部分に収録されている折り込み地図① 日本中部全図。
見返し部分に収録されている折り込み地図② 北部日本全図。