書籍目録

『3つの旅行記と遍歴記、ならびに日本王国論』(日本滞在記)

ヴィルマンほか / (カロン)

『3つの旅行記と遍歴記、ならびに日本王国論』(日本滞在記)

(第2版) 1674年 ヴィーシングスボリ刊

Wilman, Olof Eriksson

Een kort Beskrffning uppå trenne Reesor och Peregrinationer / sampt Konungarijket Japan: ... II. Beskrifwes een reesa till Ost Indien / China och Japan: III. Med fortålliande om forbenembde stoora och måchta Konungarijketz Japan tillstånd...

Wiisindzborg (Visingsö), Johann Kankel, M DC LXXIV.(1674). <AB2023189>

Reserved

(Second edition)

4to (14.5 cm x 18.0 cm), Title., 1 leaf, pp.1-176, NO LACKING PAGE, pp.178(i.e.177)-304(i.e.303), Modern three quarter brown leather on marble boards.

Information

スウェーデン語で最初の旅行記・航海記に収録された独自の日本滞在記と日本論

 本書は1673年から74年にかけてスウェーデンのヴィーシンクスボリで刊行されたスウェーデン語で書かれた最初の「旅行記・航海記集成」と言われています。4つの旅行記・航海記を収録している本書は、そのうちの2つが日本に関する内容となっていて、スウェーデン語で書かれた最初の本格的な日本関係書としても大変重要な作品です。発行部数が非常にわずかであったと言われており、現在では非常に珍しい稀覯文献となっていることから、本書はその希少性の点から見ても極めて貴重な1冊といえます。
 
 本書の初版は、1667年にわずか500部限定で出版されたと言われていて、4つの航海記作品を収録したこの作品はスウェーデンで刊行された最初の本格的な航海記集成として大いに好評を博しました。これを受けて1674年に、内容はほぼ初版と同一のまま若干の改訂が施された第2版(タイトルは初版と同じ)が刊行され、本書はこの第2版にあたります。

 本書に収録されている4つの作品のうち、冒頭に収録されているのは1647年から1656年までオランダ東インド会社で働いていたチェーピング(Nils Matson Kiöping, 1621 - 1680)によるアジア・アフリカへの航海記(pp.1-162)で、最後に収録されているのは著者不明のロシア、中国方面への旅行記(pp.290-304)となっていて、これらに挟まれる形で、2つの日本に関する極めて重要な作品が収録されています。この2つの作品の著者のヴィルマン(Olof Eriksson Willman, 1620 -1673)は、スウェーデンの航海士で著述家として知られる人物で、本書はヴィルマンによる下記の2点の書作が収録されています(邦訳は、尾崎義(訳)/ 岩生成一(校訂)『ヴィルマン日本滞在期』雄松堂、1970年の解説による。)。

①「スウェーデン人にして海軍大尉ウーロフ・エーリックソン・ヴィルマンの東インド及び先に記述せる日本への旅行についての略記」(pp.163-233)

②「スウェーデン海軍大尉ウーロフ・エーリックソン・ヴィルマンによる強大なる日本王国及びその住民の生活習俗の紹介」(pp.234-289)

 このうち①は、ヴィルマンによる1648年から1653年にかけての日本への航海と滞在記として書かれています。ヴィルマンは日本滞在中の1651年から1652年にかけて行われたオランダ使節の江戸参府にも随行しており、東海道を中心とした道中で見聞した様々なことも本書に記録しています。ヴィルマンの記録は、17世紀半ばの日本を精緻に実見し得たスウェーデン人による信頼性の高い記述として高く評価されています。ヴィルマンの江戸参府を中心とした日本の記録は数多くの興味深いトピックに彩られていますが、参府途上で実見した富士山についての記述は(1667年に刊行された初版で言えば)モンタヌス『オランダ東インド会社遣日使節紀行』(1669年)の刊行に先立つ、オランダ東インド会社関係者による富士山についての最初の公刊された記述として非常に興味深いものです。1652年1月22日に富士川を渡った際に富士山を仰ぎ見たヴィルマンは次のように記しています。

「蒲原 Cambaro を過ぎ、海岸に沿って塩田を眺め、富士川 Fusikawa を船で渡り、富士の山 Fusinojamma という非常に高い山のそばを通った。この山は高さではピコ・デ・カナリア Pico de Canaria に負けない。われわれはもう4日前から、この山を遠くに眺めてきたのであるが、ここから山へ4マイルくらいあるだろうというと、日本人は10マイルくらいは十分あると答えた。頂上には雪を頂き、中腹には雲がたなびいている。毎年この山のため人間一人が犠牲になり帰ってこないとのことで、それについてはいろいろの話を聞いたが、ここにそれを書く必要はないと思う。」
(本書p.206 / 前掲訳書、33-34ページ)

 このヴィルマンの叙述に見られる、富士山とピコ・デ・カナリアとを比較して論じると言う富士山の叙述の仕方は、後年の多くの著者(例えばケンペル)にも引き継がれることになり、西洋人による富士山表象に一つの定型を提供することになりました。

 また、幕府におけるキリシタン弾圧の最高責任者であった井上筑後守の自宅に1652年2月11日に招かれた際に、天草で1595年に天正遣欧使節が持ち帰った活版印刷機を用いて出版された『ラテン語・ポルトガル語・日本語対訳辞典』(Dictionarium Latino Lusitanicum. Ac Japonicum,...Amacusa, 1595)を見せられたというエピソードは非常に興味深いものです。キリシタン弾圧のために、キリシタン自身によって印刷された「天草版」を井上筑後守が用いていたことを示唆するヴィルマンの証言は、当時のキリシタン弾圧の様相を理解する上で大変重要な記録ではないかと思われます。

「昼過ぎ、先日献上した地球儀と地図のことを教えるため、大目付役の家に招かれた。そのとき彼はラテン語、ポルトガル語、日本語の三カ国辞典を見せてくれたが、これは1595年にポルトガル人が学林(アカデミア)、つまりギムナジウムと印刷所を置いていた天草 Amacusa という、長崎から4マイルばかり離れた街で印刷せられたものであった。」
(本書p.213 / 前掲訳書、38ページ)

 また②は、カロン(François Caron, 1600 - 1673)の『日本大王国誌』(Rechte Beschryvinge Van het Machtigh Koninghrijck van IAPPAN...1661)を基本情報としつつ、ヴィルマン独自の視点と考察を組み合わせて書かれた総合的な日本論で、本書刊行時点で最新と言える日本情報をスウェーデン語圏の読者に初めて総合的な形で紹介した文献として、非常に重要な資料です。この作品は初版では章立が全くない構成でしたが、再版時に出版社によって新たに章立てがなされ、全32章の構成となっています(その経緯等についても上掲書解説を参照)。日本の地理、統治形態、秀吉以降の日本史、現在の皇帝(将軍)の財力や居城、日本各地の領主、切腹、日本の人々の気質、宗教、そして日本におけるキリスト教の需要と廃絶についてと幅広いトピックが論じられており、最後の2章では平戸におけるオランダ商館の破却命令とそれに対するカロンの対応が解説されています。

 この作品は、カロン『日本大王国志』を大いに参照していることから、同書のスウェーデン語訳とみなされることもありますが、基本的にはヴィルマン自身による独自構成がなされたテキストで、スウェーデン人の著者による初めての総合的な日本論と見なすことができます。確かに第26章までの記述は、その多くがカロン『日本大王国志』の記述をほとんどそのまま転用したような記事も少なくありませんが、日本の歴史に関する記述が同書よりもかなり厚くなっていることや、明らかにヴィルマン自身の体験や観察に基づいたと思われる内容が随所に盛り込まれており、単なるカロン『日本大王国志』の翻訳(盗用)とは言えないユニークな内容となっています。例えば、第18章では、日本社会では商人が蔑視されているということを述べたくだりでは次ように書いています。

「(前略)オランダ人たちは(彼ら日本人は、オランダ人が商人であることを知っているので)日本ではあまり尊敬されず、むしろ圧迫され、あらゆる嫌がらせをされている。私は、日本ほどオランダ人を侮辱する国は、全東方諸国にはないことを知っている。われわれが江戸への旅行中、市々を通りかかるたびに、子供たちが街中を(ことに江戸と大坂では)トーシン・バイ・バイ Toosin ba y bay (「唐人(外国人)売買(商売人)」の意味:引用者注)と叫びながら、後をつけて歩いた。それはスウェーデン語では、「この山師の詐欺師め、ごまかし物を売ってしまえ」ということである。こうしたことを、われわれは我慢しなければならなかったのである。」(本書p.257 / 前掲訳書、70ページより)

 このような記述はヴィルマン自身の体験なしには決して書き得ない内容で、ヴィルマンは、カロン『日本大王国志』を大いに参照しつつも、それを批判的に読み解き、独自の解釈や知見を織り交ぜながら本書を執筆したといえます。また、第27章(ポルトガル人の日本からの追放について)以下の記述は、1636年のポルトガル人の追放に始まり、1640年に再交渉を求めて来日して惨殺されたポルトガル人使節の顛末や、1647年の再々交渉を求めた来日に関する記述で、カロン『日本大王国志』には全く含まれていない記述となっていることから、ヴィルマン来日直前に起きた事件についての生々しいこれらの記述は、その情報源の解明と含めて大変興味深いものと言えるでしょう。さらに、日蘭交流の始まりとそれ以降の歴史、カロン自身の来歴について記した第30章は、オランダに対してかなり批判的な記述となっているほか、第31章では、オランダ商館の破却を命じられた際のカロンの対応とそれ以後のオランダ人の処遇について記されています。

 このように、本書はスウェーデン語で書かれた最初の本格的な日本に関する作品、日本論として極めて重要な作品であるといえますが、冒頭に述べた通りその印刷部数は極めて限られていたため、現在では非常に希少な書物となってしまっています。本書が印刷されたヴィーシングスボリは、17世紀半ばに非常に短期間ながらも印刷文化が花開いたことで著名な地で、同地で刊行されたチョセクはいずれも現在では極めて高く評価されていることが知られています。

「ヴィーシングスボルィ Visingsborg は1562年、初代ペール・ブラーへ Per Brahe に分封された伯爵領で、ヴェッテルン湖 Vättern のヴィーシング島を中心とする領地の名称であった。1500年代スウェーデン文化の一つの中心で、1636年、二代ペール・ブラーへはこの島に学校と図書館とを設立し、1666年にはユーハン・カンケルを印刷師とする印刷所を併置した。この印刷所は同年から1685年まで存在し、その間35種の出版物を刊行したが、それら刊行物はスウェーデンでは「ヴィーシングスボルィ版本」と称せられ、文化的価値高く、今日ではきわめて貴重な稀覯本として蒐集家の間では珍重されている。」
(前掲訳書、106-107ページより)

 なお、本書に収録されているヴィルマンの2つの著作は、上掲したように尾崎義による翻訳(1953年、岩生成一による新異国叢書での校訂版1970年)があり、近年では延岡繁による翻訳「オーロフ・E・ヴィルマンの日本紀行記」『中部大学人文学部研究論集』第4号、2000年所収)もありますが、あまりこれまで国内での研究が盛んだったとは言えないようです。海外では、2014年に注釈を付した現代英語訳がなされており(Blomberg, Catharina(ed.). The Journal of Olof Eriksson Willman. Leiden: Global Oriental, 2014)、近年になってヨーロッパにおいて改めて注目を浴びています。その限られた発行部数から、初版、再版ともに現在では極めて稀覯な書物として知られる作品だけに、日本と関わりの深いヴィルマンの2作品を収録している本書は、大変貴重な1冊であると言えるでしょう。


「ウーロフ・エーリックソン・ヴィルマン Olof Eriksson Willman なる人物とその生涯、その著述『東インド、シナ及び日本への旅行』と「日本王国、その皇帝及び政治についての略誌』については、彼の生国スウェーデンでも一般に余り注意されていないし、その他の西欧諸国では殆ど知られていないようである。例えばスウェーデンの第百科事典 Nordisk Familjbok, encyklopedi och Konversationslexikon 1934年版(改訂版)にも、僅かに次のような簡単な記述があるに過ぎない。
 
 ウーロフ・エーリックソン・ヴィルマン
 東インド旅行者、旅行記著者(1600年代)1647年オランダに赴き、東インド会社に奉職、1651年7月バタヴィヤから日本へ派遣されたオランダ使節に従僕長として随行し、使節が江戸の将軍居城へ帯同することを許されたヨーロッパ人3人のうちの1人であった。1652年12月日本からジャヴァへ帰還、1653年1月会社を辞職、1654年ストックホルムに帰還、海軍士官となった。その旅行記「東インド、シナ及び日本への旅行』Een Reesa till Ost Indien, China och Japan及び『日本王国、その皇帝及び政治についての略誌』 Een kort berättelse om Kongarijket Japan, thess Keysare och Regimente (1677年刊行、再版1673−74年)は、当時日本がオランダ人以外のヨーロッパ人に対して閉ざされていたため、日本に関する記録がないという理由からとくに興味がある。参考文献ーイェーネ教授著『二人のスウェーデン人の日本旅行者』(Proj, H. Hjärne; Tvågvenska Japanfarare. 1923)
(中略)
 エンサイクロペーディヤ・ブリターニカ、マイヤー、ブロックハウス、ラルース等の百科事典には、ヴィルマンの項は見当たらない。だからと言う訳でもないが、とにかく西欧諸国では、ヴィルマンは、学者たちの研究の対象となっていなかったと思われる。」

「(前略)チューンベルィ(ツンベルク、Carl Peter Thunberg, 1743 - 1828のこと;引用者)よりも100年も前に日本に来て、『日本旅行記』と『日本王国略誌』とを書いたヴィルマンがあまりにも知られていないことは、ちょっと意外にも思えるが、そこにはいろいろと明白な理由があったものと考えていい。何といっても、彼が東インド会社に雇われていた一介の下士官にすぎず、したがって、その著述も著者ヴィルマンのこのような地位との関連においてしか評価されなかった、あるいは認められる機会が与えられなかったからかもしれない。それはどういうことかといえば、この2つの著述はスウェーデンでも1667年に初版、1673年に再版が出ただけで、後年の版がないこと、それがスウェーデン語で書かれていたため西欧諸国で読まれなかったこと、その外国語訳本がなかったこと–外国語訳本がなかったことは、反面には原著にそれだけの価値が認められていなかったことを意味するかもしれないが、一つにはある点で決してオランダ人にとって有利と思えないような記述や、当時のオランダの極東政策の批判などを含むヴィルマンの著述が、時代に合わず、したがってこの時代がそのような翻訳に無関心であったからだとも思われる−などである。(中略)また、彼の『日本旅行記』と『日本王国略誌』が少なくとも当時のスウェーデンの読書人の間に「異国物」としてかなり歓迎せられたにもかかわらず、イェーネ教授も指摘しているように、自分の「異国風物への憧れ」が冒険的企図によって満足させられただけでたれりとする軍人らしい気質からか、彼はことさらに「日本を見てきた」ことを売物にして名声を博そうとはせず、のちはふつうの海軍人として、また貨物船の船長として平凡な一生を終えたということなども、彼が知られないでいた理由の一つになると思われる。」
(前掲訳書97-98ページ、103-104ページより)

タイトルページ。収録されている4作品の概要が列挙されている。
序文冒頭箇所
序文末尾。1674年とあることから本書である第2版のために書かれた序文であることがわかる。
本文冒頭箇所。最初に収録されているのは、647年から1656年までオランダ東インド会社で働いていたチェーピング(Nils Matson Kiöping, 1621 - 1680)によるアジア・アフリカへの航海記(pp.1-162)。
この作品には直接日本に関する記述はないが、アジア各地に関する興味深い記述が多数見受けられる。
シャムについての記述
フォルモサ(台湾)についての記述
アンボイナについての記述
チェーピングの航海記末尾と、ヴィルマンの航海記冒頭箇所
「スウェーデン人にして海軍大尉ウーロフ・エーリックソン・ヴィルマンの東インド及び先に記述せる日本への旅行についての略記」(pp.163-233)というこの作品は、ヴィルマンがオランダを出発してアジアへと向かい帰国するまでの出来事が日記の形式で綴られている。
時系列に沿って記述されており、1651年10月頃から日本についての記述が始まっている。
「蒲原 Cambaro を過ぎ、海岸に沿って塩田を眺め、富士川 Fusikawa を船で渡り、富士の山 Fusinojamma という非常に高い山のそばを通った。この山は高さではピコ・デ・カナリア Pico de Canaria に負けない。われわれはもう4日前から、この山を遠くに眺めてきたのであるが、ここから山へ4マイルくらいあるだろうというと、日本人は10マイルくらいは十分あると答えた。頂上には雪を頂き、中腹には雲がたなびいている。毎年この山のため人間一人が犠牲になり帰ってこないとのことで、それについてはいろいろの話を聞いたが、ここにそれを書く必要はないと思う。」 (本書p.206 / 前掲訳書、33-34ページ)
「昼過ぎ、先日献上した地球儀と地図のことを教えるため、大目付役の家に招かれた。そのとき彼はラテン語、ポルトガル語、日本語の三カ国辞典を見せてくれたが、これは1595年にポルトガル人が学林(アカデミア)、つまりギムナジウムと印刷所を置いていた天草 Amacusa という、長崎から4マイルばかり離れた街で印刷せられたものであった。」 (本書p.213 / 前掲訳書、38ページ)
ヴィルマンの航海記末尾と、ヴィルマンによる「日本王国論」冒頭箇所。
「スウェーデン海軍大尉ウーロフ・エーリックソン・ヴィルマンによる強大なる日本王国及びその住民の生活習俗の紹介」(pp.234-289)と題されたこの作品は、カロン『日本大王国志』を大いに参照しつつも、ヴィルマン自身の知見や体験に基づいて書かれた独自の「日本論」となっている。
日本の歴史や地理、統治形態、宗教など幅広いテーマが(誤りが多く見られるものの)紹介されている。
「(前略)オランダ人たちは(彼ら日本人は、オランダ人が商人であることを知っているので)日本ではあまり尊敬されず、むしろ圧迫され、あらゆる嫌がらせをされている。私は、日本ほどオランダ人を侮辱する国は、全東方諸国にはないことを知っている。われわれが江戸への旅行中、市々を通りかかるたびに、子供たちが街中を(ことに江戸と大坂では)トーシン・バイ・バイ Toosin ba y bay (「唐人(外国人)売買(商売人)」の意味:引用者注)と叫びながら、後をつけて歩いた。それはスウェーデン語では、「この山師の詐欺師め、ごまかし物を売ってしまえ」ということである。こうしたことを、われわれは我慢しなければならなかったのである。」(本書p.257 / 前掲訳書、70ページより)
第27章(ポルトガル人の日本からの追放について)以下の記述は、1636年のポルトガル人の追放に始まり、1640年に再交渉を求めて来日して惨殺されたポルトガル人使節の顛末や、1647年の再々交渉を求めた来日に関する記述は、カロン『日本大王国志』には全く含まれていない記述となっており、ヴィルマン来日直前に起きた事件についての生々しいこれらの記述は、その情報源の解明と含めて大変興味深い。
日蘭交流の始まりとそれ以降の歴史、カロン自身の来歴について記した第30章は、オランダに対してかなり批判的な記述となっている。また、第31章では、オランダ商館の破却を命じられた際のカロンの対応とそれ以後のオランダ人の処遇について記されている。
ヴィルマン「日本王国論」末尾と、ロシア、中国方面への旅行記となっている匿名記事冒頭箇所。
本文末尾。