書籍目録

『1904年ルイジアナ商業博覧会のために編纂された日本帝国における有名生糸生産者とその商標』

大日本蚕糸会 / (岡村政子) / (岡村竹四郎)

『1904年ルイジアナ商業博覧会のために編纂された日本帝国における有名生糸生産者とその商標』

1904(明治37)年  東京刊(信陽堂による印刷)

The Japan Sericultural Association.

WELL-KNOWN RAW SILK PRODUCERS AND THEIR TRADE MARKS = EMPIRE OF JAPAN = COMPILED FOR LOUISIANA PURCHASE EXPOSITION - 1904 - .

Tokyo, The Japan Sericultural Association, 1904. <AB2023183>

Reserved

20.5 cm x 30.0 cm, Title., pp.1-22, numbered trade leaves(pp.23-166), pp.1-7, 1 leaf(colophon), Disbound, stored in a special box using original cover.
経年の汚れや、一部の商標に破れなどが見られるが、概ね良好な状態。特製のボックスに収蔵。

Information

セントルイス万博への出展に際して、信陽堂による当時最高峰の多色石版印刷を駆使して製作された140以上の生糸生産者の個性的な商標を収録

 この画集のような咲く美しい作品は、日本を代表する140あまりの生糸生産者の紹介と商標を編纂したもので、1904年のセントルイス万国博覧会への出展のために特別に製作されたものです。セントルイス万国博覧会はそれまでの万国博覧会よりも極めて大規模に開催された博覧会で、日本も総力を上げて数多くの出品や展示を行ったことが知られていますが、そのなかでも生糸については、当時の日本を代表する輸出品として最重視されており、こうした位置付けを反映して、この作品は極めて高品質な用紙や印刷技術を用いて製作されています。奥付けに「非売品」とあることから、関係者への配布用としてごく限られた部数のみが製作されたものと思われますが、この極めて精巧なポートフォリオを手掛けたのは、当時日本の石版印刷において屈指の技術力を誇っていた信陽堂で、明治期の日本における印刷史の観点においても非常に重要な作品と思われます。

 よく知られているように、生糸は幕末から明治期にかけての日本において最も重要な輸出品でした。明治政府は生糸輸出の振興と技術向上を強力に推進し、近代製糸場である富岡製糸場が設立されるなど、生糸は当時の花形とも言える貿易品でした。その一方で、粗悪な生糸や高品質な生糸を模した模造品なども製造、輸出されることがあり、こうした粗悪品が日本産生糸の評判を少なからず貶めることになっていたため、生糸業者は自社の製品が本物であることや高品質であることを保証、宣伝するための「商標」(ラベル)を商品に貼り付けることが慣習化していきました。このような商標の活用は、現在でいうところのブランド・マネジメントの手法を駆使した先駆的事例とも言えるものですが、自社の「顔」となるものであるだけに、各社はその意匠に工夫を凝らし、また高品質な印刷を用いて、それ自身が魅力ある「作品」となるように、独自の商標を制作することに注力しました。

「商標とは、商品の標識(symbol)であり、商品の顔といわれる。ここで紹介する商標とは、商品生産者ないしは販売者が自己の製品を識別させるために、商品に添付ないし貼付する固有の意匠をもつラベル(private chop)をさす。
 日本において商標が法制化されたのは、1884(明治17)年の「商標条例」であるが、当館が多数所蔵する生糸商標を例にとれば、その始まりは1875年の福島県佐野組折返糸の「娘印」とされ(『日本蚕糸業史』第1巻)、法制化に先行して使用されていたことがわかる。
 もともと、商号・屋号を特定の図案とともに認識させることは古来から盛んに行われてきたことである。手札型の商標は、幕末期には外国商館によって輸入織物につかわれていた。生糸についていえば、とくに高値で取引されていた明治初期は、粗製濫造が問題化した時期であって、市場での信用を回復する意味から、出荷生糸にプライベート・チョップを付すことが、生産者側からおこることとなったのである。(中略)
 近代横浜のもっとも重要な貿易品が生糸であったことはよく知られている。当館は生糸商標を約5,000枚所蔵し、それらは重複があるものの、その数量と種類において他を圧している。
 生糸商標は、明治中期は「捻造」と呼ばれる生糸の束を巻く帯紙に貼付されたもので、写真のキャビネ版大の大版であった。その後しだいに帯紙が使われなくなり、生糸の束ねに紐しばりが一般となると、きつく結んだ紐と生糸の間に挟み込むタバコ箱大の小版かつ厚手のものに替わっていった。特定の商標名は横浜市場における個別工場の生糸の品位(格付)を表し、製糸家は信用維持のため商標管理に注意を払うばかりでなく、その制作も明治中期は石版印刷・銅版印刷などの美麗で高価な印刷法をもちいる場合が少なくなく、稀ではあるが大蔵省印刷局のものまでみられる。」
(横浜開港資料館HP「閲覧室でご覧になれる資料〈5〉画像資料「商標」」より http://www.kaikou.city.yokohama.jp/document/gazou/shohyo.html)

 こうした動きは、結果的に明治期の印刷技術やデザインセンスの向上にも大きく貢献することとなり、特に当時最新の印刷技術であった多色石版印刷を駆使した美しい商標が、各社によって競って製作、印刷されたことは、商業美術の発展を大いに促しました。この作品に収録されている商標は、当時の政府が最重要視した生糸輸出の担い手として認められた全国から選りすぐられた生産者が工夫を凝らして製作した商標であることから、当時製作された膨大な数の商標の中でも、そのデザイン、印刷技術の高さの点において、最高峰のものであると考えられます。先に述べたように「非売品」とされたこの作品は現存するものが極めて少ないですが、その中の貴重な1部を収集された、クリスチャン・ポラック氏は次のように解説しています。

「1904(明治37)年、米国ルイジアナで開催された日本生産者の販促・販売見本市用の生糸商標カタログで、極めて稀少性が高い。400点以上の商標が掲載され、そのうち、三井グループに払い下げられた後、横浜の生糸輸出業者で三渓の号で知られる原富太郎(1868-1939)が経営する原合名会社によって買収された富岡製糸場が1ページ全面を割いて紹介されている。」
「神奈川県立歴史博物館・明治大学図書館『明治大学 クリスチャン・ポラック コレクション:繭と鋼−神奈川とフランスの交流史』2014年、22ページより)

 ただ、今回見つかったこの作品は、日本の生糸製造と輸出の歴史、現状、展望をまとめたレポートような英文テキスト(pp.1-22)と、140枚以上の商標(pp.23-166)、発行主体である「大日本蚕糸会」の英文紹介文(pp.1-7)で構成されており、上記で述べられているような「400点以上の商標」とは収録数が付合せず、また「富岡製糸場」の紹介などは見当たりません。横浜市立図書館で所蔵されている同書は、本書と同じ枚数、内容の商標が収録されている一方で、「富岡製糸場」をはじめとした広告も収録した内容となっており、あるいは諸本によって、1点ずつ微妙にその収録内容が異なっている可能性も考えられます。また、この作品は元来は書物仕立てとなっていたようですが、書物というよりも画集やポートフォリオのような作品であることを意識してか、本書では(おそらく当時の所有者によって)綴じ紐が解かれて、商標を1枚ずつ個別に見ることができるような状態にされて、オリジナルの表紙デザインを意匠に用いた専用ケースに収蔵されています。いうまでもなく、この作品の当初の目的は商業的なもので、日本の生糸輸出をより推進するためのツール(商用ディレクトリ)であったことは間違いありませんが(そのことを証明するかのように、本書の小口にあたる箇所には何度も手でめくった際についたであろう痕跡が確認できます)、それがいつしか、それ自体が鑑賞の対象となるような美術作品として愛用されるようになり、このような仕立てとなったのではないかと思われます。

 この作品を手掛けたのは、当時の日本における石版印刷の分野で屈指の技術力と高い評価を得ていた信陽堂で、奥付けには同社の名前が明記されています。信陽堂は、明治期に活躍した最初期の女性銅版画として著名な岡村政子とその夫である竹四郎とによって運営されていた印刷会社で、岡村政子自身の原画の印刷をはじめとしてた方面において活躍したことが知られています。

「岡村政子(1858-1936)
 信州岩村村田藩士山室直高とさだの四女として安政5年(1858)江戸に生まれ、長野県佐久市で育つ。明治7年(1874)上京し、神田駿河台にこの年に竣工した日本ハリストス正教会伝導学校の生徒宿舎に入り、翌年受洗し聖名「ワルワラ」を受ける。この頃ニコライ司祭からイコン、石版画の技術を学ぶ。明治9年(1876)に開校した工部省美術学校が、翌年に女子生徒を募集、政子は女子生徒第一期として入学。同級に大鳥雛子、須川蝶、秋保園、川路花子、山下りんがいる。明治11年(1878)までフォンタネージに学ぶが、フォンタネージ帰国の翌年頃に政子は退校し、この頃同郷の岡村竹四郎と石板印刷業「信陽堂」を開く。明治13年(1890)に岡村と結婚。明治15年(1882)から『時事新報』付録画の印刷を行ったり、またニコライからは石版によるイコンの制作依頼があり、明治18年(1885)7月にはハリストス正教会『聖詠教』扉絵を制作したとされる。さらに『普通小学画学階梯』(明治18年)、『新撰画学入門』(明治21年)などを信陽堂から刊行。明治19年(1886)スコット著『梅蕾餘薫』の挿絵を政子が担当、春陽堂から刊行。明治20年代には美人画、歴史画などの一枚刷りの額絵も数多く制作し、原画は政子が担当していた。信陽堂として明治24年(1891)には天皇、皇后の肖像の最初の頒布許可を得、政子が原画を担当した。(中略)
 信陽堂は明治39年(1906)、東洋印刷株式会社となり、大正12年(1923)関東大震災で会社と政子の自宅は消失、その後、東洋印刷も廃業する。(後略)」
杉田真珠「岡村政子」、河野実ほか(編)『描かれた明治ニッポン:石版画[リトグラフ]の時代展図録』2002年、251ページより)