書籍目録

『6つの旅行記』(他2作品合冊)

タヴェルニエ / ヴィデルホルト(訳)/ ジャン・シャルダンほか

『6つの旅行記』(他2作品合冊)

ドイツ語訳(ジュネーブ)版 1681年 ジュネーブ刊

Tavernier, Johan Baptista / Widerhold, Johann Herman (tr.) / Chardin, Jean.

Beschreibung der Sechs Reise. In Türkey, Persien und Indien…

Genff(Geneve), Johann Herman Widerhold, M. DC. LXXXO.(1681). <AB2023148>

Sold

Geneve ed. in Germany. 2 other works bound together.

Folio(21.0 cm x 33.0 cm), Front., Portrait., Title.(for part 1)., 12 leaves, pp.1-304, 3 plate leaves, Title.(for part 2), 1 leaf, pp.1-51, 46(i.e.52), 53-161, 160(i.e.162), 161(i.e.163), 164-221, 206(i.e.222), 207(i.e.223), 224-227, 9 plate leaves, Title.(for part 3), 1 leaf, 1 folded map, pp.1-96, NO LACKING PAGES, 99-139, 130(i.e.140), 141-157, 1 leaf, 6 plate leaves, Title.(for part 4), 2 leaves, pp.[1], 2-64, 1 leaf(blank), [Bound with] Title.(for part 5), 3 leaves, pp.1-82, 1 leaf(blank), pp.1-11.
[Bound with] Front., Title., 3 leaves, pp.1-98, 96(i.e.99), 100-115, 16(i.e.116), 117, 181(i.e.118), 119-122, Plates: [4], Title., pp.1-39, 38(i.e.40), 41-120, 2 leaves, (some folded)Plates: [3]. Contemporary vellum.刊行当時のものと思われる装丁で装丁や用紙の一部に傷み

Information

当時の大ベストセラーのドイツ語訳版に掲載されたユニークな日本論と日本地図

 本書はフランスの旅行家、宝石商であった著者による1638年から1668年の間に行った6度の旅行記をまとめた作品のドイツ語訳版です。著者タヴェルニエ(Jean-Bapitste Tavernier, 1605 - 1689)は、ペルシャやインド、東南アジア各地を6度も往復する旅を行い、今なおその名が知られる伝説的なダイヤモンドを数多く持ち帰り、フランス王ルイ14世に納めるなどして、多くの富と名声を得たことが知られている人物です。タヴェルニエは最後の旅から帰国した後、1676年に『タヴェルニエによる6度の旅行記』(Les Six Voyages de Jean Baptiste Tavernier… 2 vols. Paris, 1676)を刊行し、この旅行記は瞬く間に大きな話題を呼んで、幾度もの再版や海賊版が出されるほどのベストセラーとなりました。タヴェルニエの旅行記は、英語訳(The six voyages of John Baptista Tavernier,... 2 vols. London, 1677-1678)、オランダ語訳(De zes reizen van de heer J. Bapt. Tavernier,... 2 vols. Amsterdam, 1681-1682)、そして本書であるドイツ語訳版(同年に異なるニュルンベルク版も存在、後述)といった各国語への翻訳版も刊行されていることから、当時のヨーロッパで最も広く読まれた作品の一つといえます。また、タヴェルニエ自身は日本を訪れることはありませんでしたが、旅行先各地で入手した情報や文献調査の結果などをまとめて自身の『旅行記』の中に日本について論じた1章を盛り込んでいて、同書がベストセラーとなったことから、結果的に当時の西洋社会における日本観の形成に少なからず影響を与えた作品としても知られています。

 タヴェルニエの一家はアントワープで地図製作の分野で活躍していたユグノーの家庭でしたが、同地におけるユグノーへの迫害が強まってきたことを受けてナントの勅令(1598年)の頃にフランス、パリへと逃れたと伝えられています。父親(Gabriel II Tavernier, 1566 - 1607)や叔父(Melchior Tavernier, 1564 - 1641)、そしてこの叔父と同名の兄(Melchior Tavernier, 1594 - 1665)は、パリで地理学者、地図製作者として活躍し、彼らの活動に幼い頃から接していたタヴェルニエは、早くから外国、特にアジアへの関心を高めていったと言われています。また、自身も地図や図像作成について何らかの手解きを受けていたようで、こうした訓練で身につけた能力を活かしたと思われる多くのスケッチ作成や調査を旅行中に行っています。手始めにヨーロッパ諸国を巡る旅から始めたタヴェルニエは、各地での言語習得に努め、多くの言語を自在に操ったとも言われていて、語学の際にも恵まれていたことがうかがえます。

 タヴェルニエは1638年から念願の東方への旅を開始し、以降ほぼ休むことなく、1643年、1651年、1657年、1663年と旅を続けペルシャやインド、バタヴィアをはじめとした東南アジア各地を訪ね歩き、1668年に帰国するまでに5度のインド、アジア方面への旅行を成し遂げました。彼は宝石商として滞在先各地(特にインド)でダイヤモンドなどの宝石、貴金属類を仕入れ、それらをヨーロッパに持ち帰って売り捌くことで多くの富を得るとともに、ルイ14世をはじめとした有力顧客の知遇を得ることで、自身の社会的地位や名声を高めることにも成功しました。タヴェルニエが持ち帰ったダイヤモンドの中で現在最も有名なのは「ホープダイヤモンド」(Hope Diamond)と呼ばれる45カラット以上(タヴェルニエの時代には112カラット以上あったとされる)もある巨大な青いダイヤモンドで、1668年にルイ14世が購入して以来フランス王家に伝来したものの、フランス革命の混乱時に盗み出されてしまい紆余曲折を経て現在はスミソニアン博物館が所有していますが、歴代の所有者に次々と不幸が訪れる「呪いのダイヤモンド」であるという伝説が20世紀初めに生み出されたダイヤモンドとして非常によく知られています。本書にはタヴェルニエよるインドのダイヤモンド鉱山の様子やその採掘法についての解説記事も掲載されており、口絵にはこうしたタヴェルニエの宝石商としての活動場面を象徴的に描いた図が採用されています。

 本書は全4部(あるいは全3部、後述)構成となっており、それぞれに独立したタイトルページが設けられていて、いずれも1681年に刊行された旨が明記されています。第1部は主にペルシャへの旅に関する記録が、第2部は主にインドへの旅に関する記録がまとめられており、第3部はタヴェルニエによる東方諸国事情やオランダ東インド会社による貿易活動などの研究編となっていて、日本について論じた1章もこの第3部に収録されています。タヴェルニエは旅行中に詳細な記録をつけていたものと思われ、また各地で独自の調査、研究を行っていたようで、本書は全体を通じて旅行記として楽しめる作品でありながら、同時に各地の地域研究書としても優れた内容を有する著作となっています。また、先に少し触れたようにタヴェルニエはスケッチ力にも優れていたようで、各地の様子や生き物、そして宝石、貴金属類のスケッチが本書には多数収録されていて、その中には日本の小判と思しきものまで含まれています。

 日本関係欧文図書として本書が非常に興味深いのは、第3部冒頭に置かれたタヴェルニエによる独自の日本論が収録された1章で、約20ページにわたる日本関係記事が収録されているだけでなく、折り込みの大きな日本地図も収録されています。タヴェルニエ自身は日本を訪れることはありませんでしたが、おそらくオランダ東インド会社関係者からの情報や、既存の日本関係書の読解を通じて非常に豊富な日本知識を得ていたものと思われ、「タヴェルニエによる日本(並びに台湾)概論」とも言える充実した記事となっています。日本の地理や宗教事情、近世以降の歴史といった、他の多くの文献にも見られるトピックを一通り扱いつつも、それぞれの項目を論じる際に具体的なエピソードを挟み込みながら、まるで自身がその事件を体験してきたかのように語るタヴェルニエの筆致は読者を飽きさせないもので、多くの読者を獲得したベストセラーならではの、読み物としての完成度の高さも兼ね備えているようです。オランダ東インド会社関係者に対する評価は手厳しいようで(自身が旅先で侮辱されたからとも言われている)、単に既存の情報を単調にまとめ上げるのではなく、独自の視点から論が運ばれていることも本書の大きな特徴と言えるでしょう。このタヴェルニエによるユニークな日本論は、古くからその存在が比較的よく知られているものの、実際にどのような内容が、どのような情報源に基づいて、どのような論調で記されているかといった具体的な研究は、まだほとんどなされていないのではないかと思われます。多数の異版が存在する原著フランス語だけでなく、「英語、オランダ語、ドイツ語、イタリア語、さらにはロシア語に翻訳された。あまりに多くの版があるため、書誌編纂者にとって終わることのない、魅力的な仕事を提供した」((ジェイソン・ハバード / 日暮雅道訳『世界の中の日本地図:16世紀~18世紀 西洋の日本の地図に見る日本』柏書房、2018年、256ページ)と言われるほど多くのヴァリエーションがある作品だけに、その影響力の大きさを十分に踏まえると、各版におけるテキストの相違を調査することも、日本情報の広がりを知る上での重要な研究テーマとなりうるでしょう。

 また、この日本論の冒頭には特徴的な折り込みの日本図が収録されており、細かな変更が加えられてはいるものの、基本的にはフランス語初版収録図を底版としていて、下記のように指摘されているユニークな日本図です。

「この希少なラテン語文のタヴェルニエの日本地図は、1679年にパリ初版のタヴェルニエの「旅行記集」の、珍しい1681年ドイツ語のジュネーヴ版に見られるものである。 タヴェルニエ(1605-1689年)は、1669年に貴族の称号を受け、またパリの有力な地理製作者M・タヴェルニエの甥であるが、旅行者として有名であった。彼の記述は中東およびペルシャ湾でダイアモンド等の宝石商として従事していたことを回想している。彼はまたトンキン王国(ヴェトナム)についての記述をした最初の一人で、詳細な宮廷の儀式の記述を、魅力的に彫られた地図および版画とともに提供した。 彼の日本の記述は、訪問したことがないため、他の作家の記述に基づいたもので、地図は、幾分精巧にできてはいるが、カルディムとブリエの湾入のある輪郭を厳密に複写した。おそらくこの地図の最も面白い特徴は、オランダ人が長崎の商館から江戸ヘ向かう際たどったルートについての記述であり、そのルートに沿って様々な土地と特徴の詳細な注釈がある。」
(放送大学図書館HPデジタル貴重書室「西洋古版日本地図一覧」No.47解説より)

「宝石商ジャン・バプチスト・タヴェルニエ自身は中国までしか行けなかったが、フランス語およびドイツ語で何度も出版された旅行記に、日本についての報告も加えた。おそらく読者の特別な関心を引き付けようとしてのことであった。特にバタヴィアで収集した情報を基にした。行ったことのない他の東南アジアの国々についての報告書と同様、彼はここで、フランスと交易上だけでなく、宗派上でも競争関係にあったオランダ人を批判することにもっぱら力を注いでいる。日本の形に関して過去のカトリック派の手本を採用したことは、この事情からしてもっともである。能登半島はダッドレーよりも大きい。本州の形は全体として不格好である。独自のものであるという印象を与えるためであったかもしれないが、地図を写したものがそれほど器用でなかっただけかもしれない。最も重要な点は、タヴェルニエがモンタヌスから借用したと考えられるオランダ人の旅行ルートである。例えば岡崎の美人についての記述などから、彼は教会関係ではなく世俗的著者であったことがわかる。以前の西洋の地図にも記入されていた銀鉱脈に関する注釈に、タヴェルニエの職業上の関心が認められる。」
(ルッツ・ワルター編『西洋人の描いた日本地図:ジパングからシーボルトまで 図録』社団法人OAG・ドイツ東洋文化協会、1993年、192ページ)

 
 この日本論を含む第3部に続いては、タヴェルニエによるトルコの他地域に関する論考が収録されていて、独立したタイトルページが設けられていることからこれを第4部とみなすことができますが、一方でこの論考は第3部タイトルページにおいて明記されていることに鑑みると、第3部の補遺として位置付けられているとも考えることができます。さらに興味深いことには、タヴェルニエのこれら著作に続いては、ジャン・シャルダン(Jean Chardin, 1643 - 1713)による『ペルシア王 スレイマーンの戴冠』の邦訳タイトルで知られている1671年にフランス語で刊行された作品のドイツ語訳が合冊されています。この作品はタヴェルニエの作品を手がけた出版社が1681年に刊行したもので、タヴェルニエと同様にフランスの商人として親しくペルシャの内情を観察することに成功した異なる著者の作品を合冊することで、ドイツ語訳版独自の付加価値を高め、本書の内容をより充実させようとする出版社の意図がうかがえます。これはタヴェルニエの原著には収録されていない作品作品で、別個に独立して販売されていた可能性も推測できますが、本書第3部タイトルページにおいてこの作品が収録されていることが明記されていることから、刊行当初から出版社が明確な意図をもって合冊したことがわかります。また、さらに本書にはニュルンベルクの全く異なる出版社(Johann Hofmanns)が手がけた『イタリア・ダルマチア・ギリシア・レヴァント旅行記』と題された作品(全2部構成)も合冊されています。この作品の出版を手がけた出版社(Johann Hoffmann)は、後述する本書と同年にニュルンベルクで刊行されたもう一つのドイツ語訳版を出版しており、そのニュルンベルク版において本来収録されていたはずの作品で、なぜ本書に合冊されているのかは不明です。おそらくこの作品については当時の読者が独自に関連著作として独自に綴じ込んだものではないかと推測されますが、いずれにしても、当時の本書の読まれ方や読者層を示唆するものとして非常に興味深い書物の有り様といえます。

 なお、本書は1681年にジュネーブで刊行されたドイツ語訳版で、Johann Herman Widerhold (1635? - 1683)によって手がけられていますが、同年にニュルンベルクにおいてJohann Menudier(c.1630 - c.1690)が翻訳を手がけ、先に述べたJohann Hoffmannが刊行した異なるドイツ語訳が存在することが確認されており、1681年に2つのドイツ語訳版がほぼ同時に出版されていたことになります。本書はジュネーブ版ですが、タヴェルニエ『旅行記』のフランス語原著や英語訳については国内での所蔵が比較的認められる一方で、1681年に刊行された2つの異なるドイツ語訳版はいずれの版も所蔵が確認できないことから、今後の研究余地の大きい作品であるとも言えるでしょう。

刊行当時のものと思われる装丁で装丁や用紙の一部に傷みが見られるが、概ね良好な状態。
タヴェルニエの宝石商としての活動を象徴的に描いた口絵
もう一つの口絵にはタヴェルニエの肖像画
第1部タイトルページ。全5部構成の本書はそれぞれの章に独立したタイトルページが設けられており、ページ付も独立している。
出版社(兼訳者)による献辞冒頭箇所。
出版社(兼訳者)による読者への序文冒頭箇所。
タヴェルニエによる序文冒頭箇所。
第1部の目次冒頭箇所。
第1部冒頭箇所。第1部は主にペルシャ方面への旅行記を扱っている。
第1部のテキスト末尾には図版がまとめて複数掲載されている。
第2部タイトルページ。第2部はインドやバタヴィアなどの東南アジア方面への旅行記を主に扱っている。
第2部本文冒頭箇所。
第2部のテキスト末尾にも第1部と同様に図版が複数掲載されている。
第2部に収録されている図版は、インドでのダイヤモンド採掘に関連して宝石貴金属に関する図版が多い。
日本の小判と思しき貨幣やオランダ東インド会社の社章などの図も収録されている。
第3部タイトルページ。第3部は日本をはじめとした各国地域事情や貿易に関するタヴェルニエの研究編のような内容となっている。
第3部冒頭に掲載されている折り込みの日本図。本書に収録されている唯一の折り込み地図。
イエズス会関係者に由来するブランクス・モレイラ型の図を継承しつつ、オランダ東インド会社関係者による江戸参府時に通過する地名が細かく追記されていて、ユニークな日本図となっている。
第3部の最初の章は、タヴェルニエによる日本論となっている。
タヴェルニエ自身は来日することができなかったが、バタヴィア等でのオランダ東インド会社関係者からの情報や既存のイエズス会士らによる書物などを通じて得た情報を組み合わせて、独自の日本論を展開している。
日本の地名や歴史、宗教といった基本的な事項をカバーしつつも、個別の事件やエピソードを臨場感ある筆致で紹介しており、読み物としても優れた日本論になっているように見受けられる。
タヴェルニエ自身はアントワープを追われたユグノーであるが、イエズス会による日本宣教については概ね好意的に論じているようで、反対にオランダ東インド会社関係者に対する評価は芳しくないように見受けられる。
日本論末尾箇所。
第3部に収録されているトンキン論は、トンキン宮廷内部事情を詳細に論じた西洋の初期の文献として重要であるとされている。
第3部のテキスト末尾にも図版が多数掲載されている(残念ながら日本に関する図版はない)。
第4部タイトルページ。
ジャン・シャルダン(Jean Chardin, 1643 - 1713)による『ペルシア王 スレイマーンの戴冠』の邦訳タイトルで知られている1671年にフランス語で刊行された作品のドイツ語訳が合冊されている。タヴェルニエの作品を手がけた出版社が1681年に刊行したもので、タヴェルニエと同様にフランスの商人として親しくペルシャの内情を観察することに成功した異なる著者の作品を合冊することで、本書の内容をより充実させようとする出版社の意図がうかがえることから、おそらく刊行当時から合冊の形で刊行されたのではないかと推測される。
さらに全く異なるニュルンベルクの出版社による作品までもが合冊されており、合計3作品が1冊に綴じ込まれている。
第1部タイトルページ
第2部タイトルページ
最後の作品の末尾にある索引の余白下部に欠損が見られる。
小口は三方とも濃い緑に染められている。