書籍目録

「日本の現状に関する概観」(『地理学協会誌』1866年1月号(第5シリーズ第11号)収録)

モンブラン / マルテ・ブラン(編)

「日本の現状に関する概観」(『地理学協会誌』1866年1月号(第5シリーズ第11号)収録)

『地理学協会誌』1866年1月号から6月号までが1冊に合冊 1866年 パリ刊

Montblanc, Charles comte de. / Adolphe Malte-Brun, Victor Adolphe (ed.).

CONSIDÉRATIONS GÉNÉRALES SUR L’ÉTAT ACTUEL DU JAPON. [In] BULLETIN DE LA SOCIÉTÉ DE GÉOGRAPHIE RÉDIGÉ AVEC LE CONCOURS DE LA SECTION DE PUBLICATION PAR MM. V. A. MALTE-BRUN. CINQUIÈME SÉRIE. TOME ONZIÈME ANNÉE 1866 JANVIER(-JUIN).

Paris, Bureau de la Société, 1866. <AB2023143>

Sold

6 issues (Janvier - Juin) bound in 1 vol.

8vo (13.0 cm x 20.7 cm), pp.[1(Half Title.)-3(Title.)-5], 6-544, 1 folded map, Contemporary half cloth.
旧蔵機関による押印あるが概ね良好な状態。[NCID: BA1885699X(extracted ed.)]

Information

パリ万博直前に日本が「連邦制」の国家であると声高に主張した衝撃的な論文を収録

 本書は1866年に刊行された『地理学協会誌』1月号から6月号が合冊された1冊で、その冒頭(1月号)にモンブラン「日本の現状に関する概観」と題した非常に興味深い論文が掲載されています。モンブランについてはその出自をめぐる謎や幕末期の対外交渉において果たした役割、日本研究者としての多方面にわたる活躍など、幾つもの側面から研究がなされてきましたが、近年では寺本敬子氏による詳細な研究が『パリ万国博覧会とジャポニスムの誕生』(思文閣出版、2017年)の第二章「外交の場としての万国博覧会」においてなされており、モンブランの複雑な出自や1867年のパリ万博の出展を巡って薩摩藩と幕府との騒動が生じた事件におけるモンブランの果たした役割などが明らかにされてきました。本書に掲載されているモンブランの論文は、同書においてモンブランが当初の親幕府的な態度から、薩摩藩支持へと大きく態度を変えたことを背景に書かれた論文として注目されています。

 この論文においてモンブランは、日本は「帝」から施政権を認められている「大君」が支配する中央集権国家ではなく、「帝」の下に集う諸大名によって構成された多元的な封建国家であるとして、「大君」の主権に疑問を投げかけるという(幕府にとって)衝撃的な内容となっています。さらにモンブランは、諸外国との交際を阻んでいるのはむしろ「大君」自身であり、諸外国との交易に積極的な諸大名(薩摩藩を指す)こそが友好関係を結ぶに値する政治勢力であると述べています。

「以上のように、モンブランは日本が実際には天皇を頂点とした連邦制の国家であること、さらに幕府が主権を掌握しているのではなく、幕府以外にも外国との交渉を求める大名が存在することをフランスの聴衆および読者に伝え、「この事実を前にして、無関心のままでいることは不可能である」としたうえで、あらためて「ヨーロッパの利益に莫大な進展をもたらす可能性がある」と主張する。このようにモンブランは、幕府との関係ではなく、外国との条約締結を目的とする大名との関係のもとで日本との貿易関係を発展させていくことを念頭に置いているのである。
 このモンブランの講演内容は、地理学協会の刊行する雑誌に掲載されたばかりでなく、パンフレットの形態でも出版され、フランス国内に徐々に広まっていくこととなった。こうした状況は、大政奉還にいたるまで幕府を支持し続けた駐日フランス公使ロッシュの路線が、フランス外務省のみならず、1866年以降のフランス社会においても、どの程度の共感を得ていたのかを考察するうえで見逃せない事実である。」
(寺本前掲書、131ページより)

 このモンブランによる衝撃的な論文が掲載された『地理学協会誌』とはフランス地理学協会(Société de Géographie)が刊行していた学会誌で、フランスのみならず欧米地理学界全体においても高く評価されていた権威ある学会誌でした。当時の編集長を務めていたマルテ・ブラン (Victor Adolphe Malte-Brun, 1816 - 1889)は、地理学協会創設者の一人である父(Conrad Malte-Brun, 1775 - 1826)を継いで地理学者となった人物で多くの大学で教鞭をとりつつ1851年に地理学協会の会員となって以降、間も無く『地理学協会誌』の編集長となり、勢力的に最新の地理学研究論文の発信を続けたことで知られています。
 
 当時の欧米各国における地理学協会誌には、欧米列強諸国による世界各地への進出に伴って、進出先各地の報告、旅行記、報告などが多数掲載されており、その中には、イギリス公使オルコックによる富士登山記をはじめとして、日本に滞在することができた識者による「日本報告」の類の論考も少なからず掲載されていることを確認することができます。こうした記事は後年に単行本の形にまとめられることもありましたが、個別の地理学協会誌(とその抜き刷り版)でしか読むことができないものも数多く、モンブランによるこの論文もそうした一例に数えられます。

 その中でもモンブランのこの論文は、その内容が単なる見聞記、旅行記ではなく、日本研究者として徐々にフランスで認知度を高めつつあった(影響力のある)著者による、日本の統治構造の根幹に関わる衝撃的な内容であったことに大きな意義があったと言えます。また、この短い論文の冒頭においてモンブランは、当時のフランス社会にとってより馴染みの深かった中国の人々と日本の人々との気質の違いについての興味深い比較考察も行っており、当時のフランス社会における日本観の形成にも少なからぬ影響力を与えたことも考えられる興味深い内容となっています。

 なお、モンブランは明治期に入ってからも日本研究を継続して行っており、19世紀後半のフランスを代表する東洋学者ロニー(Léon de Rosny, 1837 - 1914)が中心となって刊行された、日本と中国、そしてインドシナ地域等を対象した研究成果が発表された雑誌(MÉMOIRES DE LA COMITÉ SINICO-JAPONAISE.)に『鳩翁道話』のフランス語訳論文を寄稿したりしています。また、この雑誌を発刊していた日本・中国・韃靼・インドシナ協会 (Société des études japonaises chinoises, tartares et indochinoises)の代表(Présidence)も務めているなど、外交分野における活動ではその信頼性に疑問が抱かれることも多い一方で、日本研究における活動は地道で継続性のあるもので、しかも当時として先駆的な側面も見られることから、日本研究者として改めて再評価されるべき人物ではないかと思われます。