書籍目録

「三條実美公」(三条実美像 銅版画)

キヨッソーネ (Chiossone, Edoardo)

「三條実美公」(三条実美像 銅版画)

初版 1881(明治14)年 [東京](大蔵省印刷局)刊

三條実美公

<AB2023136>

¥220,000

First edition.

48.3 cm x 67.5 cm, 1 large engraving,
スポット状の細かなシミが散見されるが概ね良好な状態。

Information

近代日本の紙幣印刷技術導入と向上に最大の貢献をなしたキヨッソーネによる三条実美像

 この大きな銅版画作品は、明治の御雇外国人として最大の貢献を成した人物の一人であるイタリア人キヨッソーネ(Edoardo Chiossone, 1833 - 1898)が手掛けたもので、彼を雇い入れていた大蔵省印刷局から1881年に刊行されています。キヨッソーネは高度な近代印刷技術を必要とする紙幣印刷技術の導入と向上のために招聘されたお雇い外国人で、日本の近代紙幣発行において多大な尽力を成した人物として知られています。キヨッソーネは紙幣印刷技術の導入に尽力する傍らで、本作品に見られるような明治政府の主要人物の肖像版画作品も手掛けており、本作品は、1879年に刊行された最初の銅版画作品である「大久保利通像」に続いて製作されたものです。

 本作品に見られる当時最新の極めて高度で多彩な銅版画印刷技術は、キヨッソーネが最も得意としていたところで、彼のもたらしたこうした技術が日本の近代紙幣発行に大きな貢献をなしたことは非常によく知られています。すでに多くの研究が明らかにしているように、この作品では異なる銅版画印刷技法が自在に駆使されており、その細部を具に見ることで、彼の技術が当時の世界全体で見ても屈指のものであったことが見て取れる作品となっています。

 また、キヨッソーネは印刷技術そのものだけでなく、その人物やモチーフを的確に把握して表現する才にも極めて長けており、この「三条実美」においては、キヨッソーネ自身が三条実美本人と面識があったことも活かされて、その豊かな表情や威厳、そしてテーブルに置かれた書物などのモチーフに至るまで、見事に同氏の特徴を鮮やかに描き出しているとして高く評価されています。

 キヨッソーネによる明治政府の人物肖像銅版画作品は、記念品として製作される一方で、一般にも販売されたといわれており、また近年に至るまで何度も増刷が繰り返されたことでも知られています。本作品は、初版刊行に見られる刊行年が明記されている貴重なもので、別掲の「大久保利通像」とともにごく最近になってバルセロナにおいて発見されたというその来歴にも鑑みますと、おそらく初版刊行当時にヨーロッパに贈答品として贈られたものの一つではないかと思われます。

「(前略)キヨッソーネは明治14年(1881)に「太政大臣三条実美公を完成させている。キヨッソーネは三条実美とは面識もあり、その容貌をよく知っていたと見られるが、高貴な人物を長時間モデルとして拘束することができないため、印刷局の直営写真館において、礼服を着用してポーズをとった写真を撮影してもらい、それを元に凹版彫刻を行なったようである。
 現存する三条実美の実際の写真は、はっきり言って貧相な容貌で一国の宰相には似つかないものであったが、キヨッソーネは三条実美の容貌を的確に捉えて、全体の印象を変えることなく、威厳を持った理知的で、貴族らしい温和な表情に彫刻している。目鼻などは柔らかい感じを出すために点線により彫刻しており、衣装の礼服は大久保利通の例と同様に、メゾチント、ビュラン直刻、腐食凹版など各種の技法を駆使している。また背景の小道具も、右手に『復古記』のタイトルが見え、明治の王政復古を象徴しており、さらにその背景には宮廷人のシンボルであった日本古来の剣や冠を描いており、それが西洋式のサーベルを付け、洋式の帽子と礼服、さらに勲章やリボンを着用した文明開花の代表とも言える近代的なスタイルに変化した様子を象徴的に描いている。この作品も一般に販売されたものであり、テーブルの左下部分に「Chiossone Tokio 1880」の銘が印刷されている。」
(植村峻「大蔵省印刷局におけるキヨッソーネの業績」明治美術学会 / (財)印刷局朝陽会(編)『お雇い外国人キヨッソーネ研究』中央公論美術出版、1999年所収、61-63ページより)

「(前略)キヨッソーネは大蔵省紙幣寮にあって、おもに紙幣印刷のための原版制作につとめた。周知のとおり、紙幣印刷にあっては、腐食銅版(エッチング)ではなく、直刻銅版(エングレーヴィング)によって、微細な紋様をほりこむか、あるいはメゾチントのような細密技法が望ましかった。キヨッソーネは、直刻ばかりかのちには電胎法などの新規の技法をも開発にむかった。
 直刻法は、江戸時代この方、日本には存在しなかった。明治初年における銅版画は、その頂点としての玄々堂二台目の松田緑山にあってもエッチングであり、紙幣印刷には好適とはいいがたい。むろん、日本には江戸期以来、すでに藩札という根強い伝統が存在した。けれども、この藩札は和紙に木版で印刷する様式であり、近代貨幣社会における直刻銅版印刷に代替できるわけではない。こうして、キヨッソーネによって導入された紙幣印刷術は、紙幣寮において独占的に適用されて、日本の通貨制度をささえることになる。
 一般に、日本の近代社会にあっては、金・銀や銅による通貨とならび、もしくはそれ以上に、発券銀行による安定した発行に信頼をよせることをえらび、キヨッソーネの紙幣原版の制作技術は大幅にうけいれられることになった。日本職人の伝統的彫刻技術は、きわめて高度に展開しており、金属紙幣の彫刻にあってその特徴をよくいかしたとされるが、おなじくキヨッソーネの直刻法(エングレーヴィング)の受容にあっても、特筆すべき水準に達したといえる。「お雇い」としてのキヨッソーネは、じつに16年におよぶ紙幣寮勤務をまっとうし、印紙・切手などの国家的印刷物の全般に貢献して日本の近代化に尽力した。1898年に東京で死去したのち、生涯をとおして蒐集された東洋美術品は、故国イタリアのジェノヴァに遺贈され日本紹介に有為の貢献をはたした。もっとも実質度の濃厚な「お雇い」であり、19世紀を文字どおり体現したイタリア人であった。」
(樺山紘一「お雇いのイタリア人芸術家たち」印刷博物館『印刷と美術のあいだ:キヨッソーネとフォンタネージと明治の日本』2014年所収論文、8ページより)