書籍目録

『ウィリアム・アダムズからの二つの手紙』/『セーリス東インド航海記』/『セーリス日本渡航記』(3作品合冊)

アダムズ(三浦按針) / セーリス / アア

『ウィリアム・アダムズからの二つの手紙』/『セーリス東インド航海記』/『セーリス日本渡航記』(3作品合冊)

(オランダ語訳大型版。3作品合冊でいずれも『イングランドによる旅行記・航海記集成』第2巻からの抜粋) 1706-7年 ライデン刊

Adams, William / Aa, Piter Vander.

TWEE BRIEVEN VAN WILLIAM ADAMS;... / DE REYS VAN KAPITEYN JOHAN SARIS,... / Agste OOST-INDISCHE REYS, Op Kosten van d'Engelsche Maatschappy, gedaan met drie scheepen, onder Capitain JOAN SARIS...

Leyden, Pieter Vander Aa, 1706-1707. <AB2023127>

¥385,000

(Large Dutch edition. Extracted from 2nd vol. of De wijd-Beroemde VOYAGIEN NA OOST- en WEST-INDIËN,...gedaan door de ENGELSEN)

3 works in 1 vol. Large 4to (23.0 cm x 37.0 cm), Illustrated Half Title. of the series, Title of the series, Title.of 1st work, Text in double column: 4 leaves(pagination: 1-14) with index(Verso of 4th leaf), 1 Folded map, [Bound with] Title. of 2nd work, 3 leaves (Pagination: 1-10), [Bound with] Title. of 3rd work, 26 leaves(Pagination: 1-102), 1 leaf(Index), 1 folded map. Modern cloth
近年の改装本で、極めて良好な状態。製本に必要な厚みを得るために後半部には白紙の用紙が綴じ込まれている。[Muller(1872): 1887, 1888]

Information

家康の外交顧問を務めたイギリス人、三浦按針を描いた唯一の地図を収録した航海記と、イギリス最初の公式使節として来日したセーリスの航海記を収録

 本書は、日本に漂着した最初のイギリス人で、家康の外交顧問を務め「三浦按針」の和名でも知られるアダムズ(William Adams, 1554 - 1620)の航海記、ならびにアダムズがその交渉に尽力した、イギリスによる日本への最初の公式使節として来日したセーリス(John Saris, 1580? - 1643)による2つの航海記という合計3作品が合作されたものです。17世紀後半から18世紀初めにかけてアムステルダムで活躍した当時のオランダを代表する出版社、編集人の一人であったアア(Pieter van der Aa, 1659 - 1733)が、オランダ語に翻訳して1706年に出版したもので、(想像に基づくとはいえ)家康に謁見するアダムズを描いたという大変興味深い日本図を収録している作品です。


 本書が取り扱うアダムズ(William Adams, 1654 - 1620)は、1600年に豊後に漂着した最初のイギリス人で、家康の外交顧問として日本に残り「三浦按針」という日本名と所領を与えられるという異例の待遇を受けた外国人として大変有名です。本書は、アダムズについて言及する際、必ずと言ってよいほど参照されることが多い、アダムズが日本からイギリスに宛てて認めた2通の書簡をオランダ語に翻訳して収録したものです。このオランダ語版は、アダムズが徳川家康に謁見する場面を描いた日本地図を収録した唯一の版で、各国語で紹介された「アダムズの書簡」の中でも極めて強い影響力を持ったと思われる書物です。

 オランダは、1602年のオランダ東インド設立前の1600年前後から東インド地域への航海を精力的に開始しており、アダムズはこのオランダ最初期の航海に参加していた主要人物の一人でした。アダムズはイギリス人でしたが、軍船や商船での航海経験を買われて、初期のオランダ東インド航海に参加することになり、1598年にオランダのロッテルダムを出港します。しかし、この船団の航海は敵対するスペイン、ポルトガルによる拿捕や航海中の難破、漂着先の住民による殺害などに遭い、ほとんどの船と乗組員が失われるという悲劇に見舞われてしまいます。 

 数少ない生存者であったアダムズが乗るリーフデ号は、悲惨な航海の末に関ヶ原の戦いの約半年前の1600(慶長5)年4月に豊後にかろうじて漂着しました。徳川家康は、リーフデ号と乗組員の素性と目的を取り調べるために、大坂に彼らを召喚、尋問しますが、その際にアダムズのやりとりにいたく感心した家康は、その後も度々彼らとの面会の場を設けています。その結果、国際情勢についてポルトガル・スペインといったカソリック諸国以外からの情報とコネクションを渇望していた家康は、アダムズを外交顧問として自らの側に置くことを決め、西洋帆船の建造や航海術、貿易顧問といった様々な役割をアダムズに与えて重用しました。アダムズは家康から高く評価され、三浦按針という日本名の付与と帯刀許可、所領を与えられるという異色の外国人顧問となりました。

 アダムズは、日本に最初に漂着したイギリス人ですが、オランダ船の乗組員として漂着したこともあり、彼の尽力よって1609年にオランダとの国交樹立と、平戸でのオランダ商館設立が実現しています。また、1613年にイギリスの公式使節として初めて来日したセーリス(John Saris, 1579? - 1643)の家康との交渉を手助けし、イギリスはオランダと同じく平戸に商館を設置することができました。したがって、アダムズは、イギリス、オランダ両国と日本、とりわけ平戸との関係において欠くべからざる重要な役割を果たした人物と言うことができます。

 アダムズはイギリスへの帰国を願ったこともありましたが、家康に長らく認められることはなく、また後年認められてからもセーリスとの確執からかイギリスへの帰国船に乗船することを辞退し、母国に帰ることなく1620年に平戸で亡くなりました。本書に収められている書簡は、1611年10月22日付に認めたものと、アダムズがまだ帰国を希望していたと思われる頃に認めた本国の妻に宛てたものの2通からなります。前者は、イギリスの読者に対して、自身の漂着の経緯と日本での待遇、現在の状況などを紹介したもので、この書簡によって日本にイギリス人が外交顧問として重用されているという情報が当時のヨーロッパにもたらされることになりました。後者の妻に宛てた書簡は、前者の書簡よりも前に書かれたもののようで、イギリス到着までに何らかの事情によって原文後半が失われたため、途中で終わってしまっていますが、同じく漂着して日本に来ることになった数奇な運命を説明するとともに、いずれイギリスに帰りたい旨が吐露されています。

 アダムズとその数奇な運命に関する情報は、当時のベストセラーとなったイギリスで刊行された航海期集に記事が掲載されたことにより、アダムズは、生前から母国イギリスをはじめヨーロッパで広く知られる存在となりました。この航海記集とは、1614年に刊行されたパーチャス(Samuel Purchas, 1577? - 1626)が刊行した『巡国記 (Purchas his Pilgrimage. Or relations of thw World …)』第2版のことで、前年1613年に刊行された初版が非常に好評だったため、早くも翌年1614年に刊行された第2版が刊行され、アダムズのことを紹介した記事が新たに掲載されることになりました。この記事がヨーロッパにおいてアダムズを紹介した最初の記事と思われ、1617年に刊行された第3版ではさらに記事の内容が拡張され、アダムズと平戸との関係についても言及されるようになります。そして、アダムズの没後、パーチャスがハクルート(Richard Hakluyt, 1552 - 1616)の優れた『主要航海記集(The principal navigation,...1589)』を大幅に増補改訂した、『航海記集(Purchas His pilgrimes. In five books. 1625)』の第1巻において、アダムズの認めた2つの書簡が初めて掲載され、また第5巻(実質的には『巡国記』の第4版)にも彼の航海と日本滞在についての詳しい記事が掲載されました。パーチャスの書物で紹介されたアダムズの記事や2つの書簡は、それ以降も19世紀の日本開国後に至るまで、様々な航海記に繰り返し掲載され、また本書のように様々な言語にも翻訳されています。

 また、本書後半には、ジェームズ1世による新書を携え、イギリス東インド会社によって1611年に日本へと派遣されたジョン・セーリスの航海記が収録されています。セーリスは以前からイギリス東インド会社において、現在の東南アジア地域への貿易航海に従事しており、その経験を買われて、イギリスによる日本への最初の公式使節代表という任を受けて日本への派遣されました。1613年に平戸に到着したセーリスは早速家康との交渉に入り、アダムズによる尽力の甲斐あって、日本国内における商館設置許可と朱印状貿易の許可を得ることに成功しました。イギリスが日本において設置した平戸商館は、貿易で成功したとはいえない結果に終わることになりましたが、公式の日英交渉史の端緒を開いたという点において、その歴史的意義は非常に大きいと言えるでしょう。なお。アダムズはセーリスに同行して帰国することも一時考えたようですが、両者の関係悪化も影響してこれは実現しませんでした(この間の詳しい経緯については、フレデリック・クレインス『ウィリアム・アダムス:家康に愛された男・三浦按針』筑摩書店、2021年を参照)。

 本書にはセーリスが日本に派遣される前にイギリス東インド会社の命を受けて行った東南アジア航海の記録と、日本への航海記録という2つの航海記が収録されています。セーリスの日本航海記は、プリマスを出航してからジャワ島やモルッカ諸島を経由して、平戸へと至る航海の記録、そして日本における幕府(家康)との交渉の様子や滞在中の記録をハイライトに、プリマスに帰国するまでの復路の記録がまとめられたもので、セーリスの日本航海の全貌を知ることができる非常に充実した内容となっています。セーリスの日本航海記は、アダムズの航海記と同様にパーチャスの航海記集成において初めて刊行されており、本書はこれをオランダ語に翻訳し、新たに日本を含むアジア図や複数の図版を収録して刊行したものです。なお、セーリスの日本航海記の手稿は複数部が現存しており、諸本を比較、照合した上でアーネスト・サトウ(Ernest Mason Satwo, 1843 - 1929)が解説を付した翻刻版が1900年に刊行されています。また、セーリスがフランシス・ベーコンに献呈したとされる清書本は、1924年にイギリスの古書店Maggsから売りに出され、現在はこれを購入した東洋文庫に国の重要文化財として所蔵されています。

 本書は、17世紀後半から18世紀初めにかけて活躍した当時のオランダを代表する出版社、編集人の一人であったアア(Pieter van der Aa, 1659 - 1733)がオランダ語に翻訳して出版したものです。アアは、17世紀までの世界の主要な航海、旅行記を網羅的に収録し、豊富な図版や地図とともにオランダ語で出版するという『ポルトガル、スペイン、イングランド、 その他の国々による航海、旅行記集成(De Aanmerkenswaardigste en Alomberoemde ZEE - EN LANDEREIZEN DER PORTUEEZEN, SPANJAARDEN, ENGELSEN EN ALLERHANDE NATIËN: ZOO VAN FRANSEN, ITALIAANEN, DEENEN, HOOGH-EN NEDERDUITSEN Als van beetle Andrew Volkeren. 8 vols.1706-1707)』(大型本)全8巻を刊行しました。この壮大な航海記集成の中にアダムズの書簡やセーリスの航海記も収録されることになり、パーチャスの記事にはなかったアダムズを描いた地図や図版を付してオランダ語に訳されました。このアアによる航海記集成は、アダムズやセーリスの記事に限らず、オリジナルの資料にはない図版や地図をふんだんに新たに作成して収録している点に際立った特徴があり、本書にも日本地図とともに、アダムズが大坂で家康に接見する場面を描いたと思われる図版を採用しています。先述のようにアダムズが図版で登場するのは、それまで流布していたパーチャスの原著や英語版にはなかったことで、その結果、このオランダ語版が最も印象的な「アダムズの書簡」として記憶されることになり、現在の日本でも「アダムズの書簡」といえば、このアアによるオランダ語版が言及されることが多くなっています。

 なお、アアの『旅行記集成』に収録された個別の航海期は、全ての記事がそれぞれ独立したタイトルページを有し、個別にページづけがなされているという、非常に珍しい形式をとっています。これは、個別の航海記を独立した単独の出版物としても、同時に刊行、分売していたことによるもので、当時の読者は、『旅行記集成』として全ての記事が収録された合冊本を購入するか、あるいは、自分の関心のある航海期だけを個別に購入するかを選ぶことができました。両者とも全く同じ内容のため、本書が元から個別に販売されたものか、あるいは『旅行記集成』に収録されたものが後年になって解体されて個別に再製本されたものかを区別することは非常に困難ですが、本書には『旅行記集成』のイングランド編第2巻のタイトルページが綴じ込まれていることから、おそらく『旅行記集成』から3作品を抜粋して再製本したものであると考えられます。いずれにしても、「アダムズの書簡」「セーリスの日本航海記」を代表する作品であることに相違はありません。

 なお、アアの『航海集成』は、さらに興味深いことに、小型の八折判大と、大型のフォリオ判大(実際の折丁は記事ごとに異なる)とサイズの異なる2種類が存在することが分かっており、本書は後者の大型本にあたるものです。アアによるオランダ語版『二つの手紙』やセーリスの日本航海記は、これまで前者の小型本しか紹介されたことがなく、大型本については存在自体がほとんど知られていなかったのではないかと思われます(国内研究機関で所蔵が確認できるのは天理図書館、天草コレジヨ館のみ)。

 本書に収録されているテキスト内容は、前述したパーチャス本(1625)に掲載された英語テキストの翻訳と思われるものです。パーチャス本(1625)でもアダムズの書簡を紹介する記事と併せて日本地図が掲載されていましたが、先述の通りアダムズ自身を描いた挿絵は含まれていません。また、本書では日本地図の内容が大幅にアップデートされています。パーチャス本(1626)に収録された日本地図は、オルテリウス(Ortels, Bartolus Armeis, 1527 - 1598)が1595年に発表したヨーロッパにおける最初の単独日本地図に由来するホンディウス(Jodocus Hondius, 1563 - 1612)の日本地図でしたが、本書付随の日本地図は、ダッドレー・ヤンソン型と呼ばれる類型に属するもので、直接的には、1652年にフランスのサンソン(Nicolas Sanson, 1600 - 1667)が刊行したアジア地図帳(L'Asie En Plusieur Cartes Nouvelles et Exactes.Paris, 1652)に収録された「日本図(Les Isles du Iapon)」を参照したと思われる、より新しい日本地図と言えます。その輪郭はそれほど正確ではありませんが、本州、四国、九州のおおよその形は捉えていて、地図中には地名と地形や都市を示す図が記されており、アダムズが漂着した豊後(Bungo)や、平戸(Tirando, サンソンの地図にあったFirandoという文字を誤植したものと思われる)の地名が確認できます。一方で、九州に四国(CIKOKO)と表記しているなど不正確な点も見えます。北海道は、「蝦夷大陸」として広大に描かれていますが、これは当時この海域についての情報が極めて不十分であったことに由来しています。右下の図では、玉座にいる将軍家康に対してアダムズが跪いて謁見する場面が(想像で)描かれています。

 アアによる『航海記』の全巻揃いは言うまでもありませんが、独立した小冊子として刊行された「アダムズの書簡」「セーリス日本航海記」も現在では入手することが大変難しくなっており、両者を合本して収録している本書は大変貴重な一冊と言えます。

近年のクロス装丁で状態は極めて良好。
本書に合冊されている3作品が元々収録されていた『イングランドによる旅行記・航海記集成』全体のタイトルページが冒頭に挿入されている。
『ウィリアム・アダムズからの二つの手紙』タイトルページ。小型本とは異なるデザインになっている。
テキスト冒頭部分に折り込み地図が挿入されている。
地図の右下部分にアダムズが家康に接見する場面が描かれている。平戸はTirandoと記されている。
玉座の家康に跪いて謁見するアダムズ。想像によって描かれたものではあるが、アダムズを描いた図版として極めて印象深いもの。
テキストは二段組になっており、一枚の左右に頁番号がふられている。
上掲図は、水と食料を求めて上陸した南米の漂着先で船員が襲われる場面を描いた図。この事件で多くの船員(アダムズの弟を含む)が失われたことのショックの大きさをアダムズは書簡中で述べている。
巻末には目次がある。
『セーリス東インド航海記』タイトルページ。1605年から1609年にかけてセーリスがイギリス東インド会社のために行った航海で、この時の公開で高い評価を得たことが後の日本への公式使節に任命されるきっかけとなった。
イギリスによる香辛料貿易を開拓するために東南アジア各地を公開した記録
『セーリス日本渡航記』タイトルページ。この作品が最も分量が多く、日本についての詳細な記事も含まれている。
『セーリス日本渡航記』には目次も付されている。
冒頭にはセーリスが航海した地域を描いた折り込み図が収録されている。
アダムズに収録されている日本図とは異なる形状で描かれている日本の輪郭も興味深い地図。
本文冒頭箇所
3作品の後には、製本に必要な厚みを出すために白紙が綴じ込まれている。