書籍目録

「日本郵船1913年カレンダー・ポスター」

日本郵船会社

「日本郵船1913年カレンダー・ポスター」

[1912年] 東京(三間石印)刊

NIPPON YUSEN KAISHA: Japan Mail Steamship Co.

[Calendar poster for 1913]

Tokyo, Lith. Mitsuma, [1912]. <AB2023114>

Sold

61.0 cm x 90.5 cm, colored lithograph poster, enrolled,
保管時のシワ、一部にシミが見られるが良好な状態。裏面に贈呈メッセージを記した別紙が貼り付けられている。

Information

美人画の意匠で制作された日本郵船による海外向け1913年カレンダー・ポスター

 このポスターは1913年のカレンダーとして日本郵船によって作成されたもので、英文であることから海外向けに頒布されたものであると思われます。日本郵船は遅くとも1910年代から色鮮やかで趣向に富んだカレンダーやポスターを数多く発行していたことが知られています。これらの印刷物は国内向け、国外向けの両方があり、同じ図案で英語版と日本語版の異なるバージョンが制作されることもありました。カレンダーやポスターの印刷は日本郵船だけではなく、東洋汽船や大阪商船といったライバル会社からも競って発行されていました。特に東洋汽船は総帥である浅野総一郎が印刷物に対して強いこだわりを有していたこともあって、コストを度外視したとしか思えないような完成度の高いポスターやカレンダー、パンフレット類を数多く発行しています。また、大阪商船もそれまでの広告物に見られないような大胆なインパクトのある意匠を採用し、また高品質(高コスト)のオフセット印刷によるポスターを生み出しました。

 こうしたライバル企業にも対抗する形で日本郵船は、独自の完成度の高いポスター、カレンダーを内外のデザイナー、画家を駆使して制作しており、1940年代に至るまで数多くの名作が生み出されることになりました。こうした競争は、単なる営業上の広告制作という枠組みを超えて、国内の印刷技術の革新、発展を促すことにもつながり、その結果として、これらの汽船会社が発行した印刷物はその多くが、高い芸術性をも有する名作として、今日でも高く評価されています。

「外国航路に進出した日本の船会社は海外からも乗客や貨物を集めてくる必要があったため、外国人のまなざしを意識して英文のポスターが制作された。日本の客船ポスターは、当初は船上の和装美人を描いたいわゆる美人画ポスターや航路図を描いたタイプが大勢を占めていたが、やがて第一次世界大戦期を経て外国への定期航路が広がりを見せると、大阪商船の横綱太刀山関を大きく描いたポスターにみられるように、インパクトのあるデザインのポスターが作り出されるようになった。
 客船ポスターの原画を描いたのは、当初は主として印刷会社に所属する画工だったが、やがて、船会社に所属するデザイナーがポスター原画を手掛けるようになる。日本郵船には水谷仲吉や吉田芳鉄が在籍したほか、外国人客の目を意識して外国人デザイナーを起用、イギリスの海洋画家ハリー・H・ロドメリ、スウェーデンの画家で建築家のジョスタ・ゲオルギー=ヘミング、パリで活躍していた日本人デザイナーの里見宗次らにポスターデザインを依頼した。大阪商船には大久保一郎、持田卓二、山内国夫らが在籍しポスターのデザインを手がけた。」
(木田拓也 / 内藤裕子編『ようこそ日本へ:1920-30年代のツーリズムとデザイン』東京国立近代美術館、2016年、24ページより)

 このカレンダーは、日本郵船が手がけたものの中でもかなり初期に属する作例と思われ、江戸期からの伝統を有する広告媒体である引札の流れを汲む「美人画」と自社の誇る最新豪華客船を組みあわせ、そこに航路情報といった文字情報を盛り込んだ構成となっています。日本郵船の社章を取り巻く形で小さくカレンダーが配置された意匠となっており、少なくとも1年間は何らかの場所で掲示され、広告としての役割を果たしてくれることが意図されています。非常に美麗な印刷は、当時の東京で石版印刷を数多く手がけていた三間石版印刷が手がけたものであることが下部に明記されています。また、裏面には当時の日本郵船関係者と思われる函館在住の人物(Daiichiro Saito、斉藤大一郎?)からイタリア在住の関係者(顧客)と思われる人物(Miss E. Montallano)への贈呈の旨を記した別紙が貼り付けられており、実際にこのカレンダーーが世界各地への贈られたことを示す大変興味深いものとなっています。

 なお、この翌年1914年用の日本郵船のカレンダ・ポスターは、橋口五葉が手がけており、1911年に開催された三越呉服店による広告画図案懸賞で1等となった「此美人」の意匠によく似たよりモダンな、アール・ヌーヴォー調の秀逸なデザインでよく知られています。その意味では、このカレンダ・ポスターは、過渡期にあるポスター芸術の作例としても評価することができるでしょう。


「ポスターがわが国に登場したのは19世紀末の明治期といわれています。そして、ポスターが今日のように「ポスター」もしくは発音に則して「ポースター」と呼ばれるようになったのは、明治も末になってからのことであり、それまでは外国製のポスターも含めて「広告画」「絵看板」等と呼ばれるのが一般的でした。
 外国製商品の広告として、もしくは外遊した商工業者や美術家が、自らの参考資料として持ち帰ったことで物理的な流入を果たしたポスターは、その後急速に発達しました。この背景には、わが国においてはポスターが流入する以前から、木版印刷による「引札」が、人々に何らかの事物を広めるという役割を担った印刷物として利用されていたため、ポスターが受け入れやすい存在であったことが関係しています。加えて、色鮮やかな大判の石版印刷という美しいポスターは、広告という新しい概念と新時代の融合体であるがゆえに、西洋文明を象徴するものとして、好意的に受け入れられていたことも忘れてはなりません。」

「ポスターに代表されるような大判のフルカラーの印刷物は、戦前期のわが国においては特別な存在でした。なぜなら、世間の注目を集めるような美麗なポスターを制作するためには、原画の入手から実際の印刷にいたるまでにかなりの手間暇や膨大な資金を要するものの、ポスターは紙に印刷されるものであるため光や水に対して脆弱であり、長持ちする広告ではなかったからです。いい換えれば、当時のポスターは制作費がかかる割には消耗性が高い最も贅沢な広告であり、したがってポスターを頻繁に制作できたのは、資本力のある一部の企業や業種に限られたのです。現存するポスターからは、各社の広告に対する考え方と当時の資力が垣間見えます。
 こうしたなか、外国航路を受けもつ海運会社は、百貨店、酒造会社、たばこ産業とともに、早くから積極的にポスターを制作した業種でした。この背景には、日本の海運業が国際的に出遅れていたことに加え、欧米の海運会社が航路をアジア地域にまで拡大する過程で広告活動に力を入れていることを知り、自らもそれに習おうとしたことが関係しているといえます。なお、外国航路をもつ海運会社は、外国語表記のポスターや、海外の習慣や嗜好を踏まえたポスター制作にも早くから取り組んでおり、多くの外国人にとって初めての日本製ポスターとの出会いが海運会社のものであった可能性は非常に高いといえます。」

寺本美奈子(編)『「美人のつくりかた:石版から始まる広告ポスター」展図録』凸版印刷株式会社 印刷博物館、2007年、15, 54ページより)