書籍目録

『新訂解剖学』

ブランカールト / (『解体新書』/『医範提綱』)

『新訂解剖学』

第3版(決定版) 1696年 アムステルダム刊

Blankaart, Steph(en).

De Nieuw Hervormde ANATOMIE, Ofte ONTLEDING Des MENSCHEN LIGHAAMS. Gebouwd op de Waaragtigste en naukeurigste ondervinding deser Eeuw…Den derden Druk.

Amsterdam, Jan ten Hoorn, 1696. <AB2023038>

Sold

3rd ed.

8vo (11.5 cm x 19.1 cm), 1 leaf(blank), Front., Title., 5 leaves, pp.1-160, 139(i.e.161), 162-217, 118(i.e.218), 219-311, 112(i.e.312), 313-453, 354(i.e.454), 455-592, 493(i.e.593), 494(i.e.594), 595-637, 398(i.e.638), 639-753, 654(i.e.754), 755-761, 8 leaves(register), 2 leaves, Plates: [84](complete). Contemporary full leather.
[NCID: BA63751318]

Information

『解体新書』や『医範提綱』に図版が採用され、「江戸後期に舶載されたオランダ語解剖書な中で最も影響力を及ぼした」と評価される名著の貴重な完本

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「ブランカールト『新訂解剖学』は江戸後期に舶載されたオランダ語解剖書の中で最も大きな影響力を及ぼした。後に論証する通り、「遠西医範」および『医範提綱』の重要な典拠であるとともに、『解体新書』、『和蘭医事問答』、『重訂改訂新書』における生理学的記述には、ブランカールトの影響が顕著である。特にこの3書にはブランカールトの神経液説が受容されている。
 また、ブランカールト『新訂解剖学』の純粋な訳書も存在する。それは、大坂で活躍していた斎藤方策(1771-1894)「蒲朗加児都解剖図説」である。(中略)方策はブランカールト『新訂解剖学』1686年版と1696年版を利用している。方策が和訳に際してこの両版を比較して訳していることは、図に付随している解説の和訳から分かる。(中略)
 なお、方策の訳のほかに、藤林泰輔(1871-1836)による訳書「蒲朗加児都解剖図説」(東京大学医学部図書館所蔵本)も存在している。(中略)
 幕末にもなお、ブランカールト『新訂解剖学』が武田杏堂によって「蒲朗加児都内景書」(京都大学附属図書館所蔵本)の台で漢訳されている。(後略)」

「(前略)ステーヴェン・ブランカールト(1650-1702)は1650年にオランダ南西部にある都市ミデルブルグに文学者ニコラウス・ブランカールトの長男として生まれる。ブランカールトの著書『新訂解剖学』の献辞によると、幼い時に父から文学および医学教育を受けたようである。ブランカールトはブレダで文学の勉強を終えた後、アムステルダムの薬局で薬学を修める。その後、フラーネケル大学で教授となった父に呼ばれ、その大学で医学を勉強する。医学博士号を取得した後、再びアムステルダムに戻り、開業した。
 ブランカールトは数多くの著作を出版している。著作活動は解剖学・外科学・内科学・衛生学・薬学・化学・博物学・動物学・文学・哲学・辞書類などの広範囲に及ぶ。これらの著述および日本における受容について岩熊哲はすでに一部を紹介している。数多くのブランカールトの著書の中で『医範提綱』の典拠となったのは『新訂解剖学』という解剖書である。『新訂解剖学』のオランダ語版には3つの版がある。第2版(1686年刊)は初版(1678年刊)を改訂・増補したものであり、内容は完全に異なっている。図版も新しい図に差し替えられ、増販されている。第2版と第3版(1696年刊)は内容的にほとんど変わらないが、図版はさらに改訂・増版されている。この3つの版はすべて江戸期日本に舶載されている。」

「ブランカールト『新訂解剖学』の3つの版のうち1678年版は1686年版および1696年版と内容的に大きく異なる。1678年版はヴェザリウス以降の解剖書に従った伝統的な構成を取っている。つまり、腹部、胸部、頭部、筋、骨類の順序で記述されている。一方、1688年版および1696年版はこのような構成を取っていない。まず、心臓および血管から始まり、脳、神経系と続いた後は、頭部から順に下の方に下って身体各部分の解説が行われ、その後、腺、筋、骨、膜、皮膚という順序で進み、最後は体表部分の解説で終わっている。これは伝統的な解剖書と完全に異なる構成である。(中略)
 つまり、血液循環と脳液(あるいは神経液)の循環を中心に据えて、それを基盤として解剖学的記述が行われている。ブランカールトは身体を一つの水力自動機械とみなしている。この見方は『新訂解剖学』における記述にも表れている。例えば、同書1頁では身体が時計と比較され、また7頁では心臓が時計と比較され、身体のすべての動きは血液循環に依存しているとされている。さらに、180頁では身体のすべての部分は神経(管)とほかの諸管のみから構成されていると解説されている。ブランカールトの解剖書は、血液循環および神経液の循環システムを機械論的に解説しようとする試みであった。そこにはデカルト的身体観の影響がうかがえる。」
(クレインス フレデリック『江戸時代における機械論的身体観の受容』臨川書店、2006年、25, 26ページ、10, 11ページ、17, 18ページより)

「宇田川玄真(1769〜1835)は伊勢の農家出身で玄随の弟子となり、玄随の没後に宇多川家を継いだ。翻訳と著述に精励して多くの弟子を指導した。ブランカールト(1650〜1702)の『改新解剖学』(1678)など諸種の西洋解剖学書を訳して集成し『遠西医範』30冊としたが刊行はされず、講義の要点を筆録したものが『医範提綱』3巻(1805)として刊行された。その付図『医範提綱内象銅版図』(1808)も刊行された。『医範提綱』は最良の医学書と評価され、標準的な蘭学教科書として広く用いられた。」
(坂井建雄『図説 医学の歴史』医学書院、2019年、173ページより)