書籍目録

『始学日本安文』

ロニー / 栗本貞次郎

『始学日本安文』

第2版 1889年 パリ刊

Rosny, Léon de.

始学日本安文 VERSIONS FACILES ET GRADUÉS EN LANGUE JAPONAISE VULGAIRE ACCOMPAGNÉES D'UN VOCABULAIRE JAPONAIS-FRANÇAIS DE TOUS LES MOTS RENFERMÉS DANS LE RECUEIL.

Paris, J. MAISONNEUVE ÉDITEUR, 1889. <AB201821>

Sold

2nd edition.

8vo (12.8 cm x 20.0 cm), pp. [I (Half Title), II (Advertisement), III](Title), IV-, V], VI-XI, [XII], [13], 14-104, Original paper wrappers.

Information

フランス国立東洋語学校における初代日本語教授ロニーによるテキスト

本書の著者であるロニー(Léon de Rosny, 1837 - 1914)は、19世紀後半のフランスを代表する民俗学、日本、中国研究家で、大の知日家でもありました。十代半ばからすでに中国や日本に関する研究論文を発表しており、日本語の学習には特に熱意を示し、日本についての言語学的な情報が極めて乏しかった時代に、独力で日本語習得に励みました。1862年のいわゆる文久遣欧使節がヨーロッパを歴訪した際には使節らと親交を深め、福沢諭吉や福地源一郎などとも交流を続けています。1863年にフランス国立東洋語学校において最初の日本語講座が開設された際、ロニーは初代講師に任命(1869年に教授に任命)され、以後定年で1907年に退職するまでその職にありました。

 本書は、彼が日本語講座のために執筆したテキストのひとつで、ロニーの日本語教育構想において、6番目に学習すべきものとして位置づけられているものです。ロニーの日本語教育構想は、全3年の課程で構成されており、それぞれの学年において習得すべき内容とそのためのテキストが用意されることになっていました。全20クラスを習得することで、日本語を文語、口語両方において習得できるように設計されており、そのためのテキストをロニーが自身で執筆するという壮大な計画となっていました。実際には完成しなかったテキストや、後年になって内容が変更されたものもありますが、その課程全体は彼の著した出版物の広告に度々掲載されており、本書でも末尾に課程全体の概説がなされています。ここでは、宮原温子氏による論文「Léon de Rosny "Eléments de la Grammaire Japonaise (Language Vulgaire)"の一考察」(目白大学人文学研究第11号所収)で紹介されている内容を引用してみます。

「第一学年 初級(口語)
I. Introduction au cours de japonais 「日本語学習入門」
II. Eléments de la grammaire japonaise(langue vulgaire)「日本語文典初歩(口語)」
III. Guide de la conversation. 「会話案内」
IV. Dictionnaire japonais-français (langue vulgaire)「口語日仏辞書」
V. Dictionnaire français-japonais (langue vulgaire)「口語仏日辞書」
VI. Textes faciles et gradués en langue japonaise vulgaire 「学始日本安文」(本書のこと;引用者註)
VII. Thémes faciles et gradués pour l'étude de la langue japonaise accompagnés d'un vocabulaire français-japonais de tous les mots renfermés dans recueil「和漢字洋譯」

第二学年 中級(漢語を中心とする文語)
VIII. Introduction a l'étude de la littérature japonaise「日本文学入門」
IX. Grammaire sinico-japonais「漢語文法」
X. Vocabulaire sinco-japonais explique en franCais「フランス語による説明付漢語語彙集」
XI. Dictionnaire des signes idéographique de la Chine, avec leur prononciation usité au Japon「漢字辞典」
XII. Recueil de textes japonais「日本文集」

第三学年 上級(大衆文学、純文学、書簡文、外交・商業文)
XIII. Manuel de lacture japonaise, renferment les élements figuratifs et phonétiques de l'écriture so-sho「草書体による具象と音声の読解手引き」
XIV. Grammaire japonaise「日本文典」
XV. Dictionnaire japonais-français (langue écrit et littérature)「文語日仏辞書」
XVI. Dictionnaire français-japonais (langure écrit et littérature)「文語仏日辞書」
XIII. Manuel du style épistolaire et du style diplomatique「書簡文と外交文書の手引き」
XIX. Chrestomathie japonaise「名文集」
XX. Anthologie japonaise「名詩選」」

 本書は、初学年の6番目に学習すべきテキストとして位置づけられているものです。初版は標題紙には1873年とありますが、序文の日付は1869年とされています。本書は1889年に刊行された第2版で、初版の序文を再掲載し、本文も基本的には初版の内容を踏襲しつつ、表記法などの細かな修正が加えられているようです。初学年で学習すべき日本語の口語での運用に関するテキストとして、仕上げに近い段階のテキストにあたることから、一定の学習段階にあることを前提に、屈折、活用形を名詞、動詞などの品詞別に解説しています。

 また、本書後半では、前半の解説に基づいてローマ字で書かれた平易な日本語の例文が掲載されています。このテキストは、ロニーの元で最初の日本語講師として採用された栗本貞次郎が作成したもので、栗本貞次郎は、幕末に幕府派遣留学生としてパリに渡り、帰国後に明治政府によって1870年に再度渡仏、さらに岩倉遣欧使節団に随行するなど、幕末、明治以降に幾度も渡仏しています。ロニーとの交流は幕府派遣留学生としてパリに派遣された際からはじまったものと思われ、第2版である本書刊行以前の1873年 (初版刊行年に当たるが、上述の通り初版は1869年頃にはある程度完成していたと思われる)には、日本語講師の後任として今村和郎(ロニーの著作中では、Imamura Warau と表記される)が任命されており、また栗本自身は1881年にパリで客死していますので、初版刊行時に協力したものと思われます。

 最後に収録されているのは、簡単な字引となる語彙集で、必要な単語を簡便に検索できるようになっています。本書序文については、松原秀一氏が「レオン・ド・ロニ略伝」(『近代日本研究』第3号、1986年所収)の中で一部を翻訳して紹介されています。

 「1869年(明治2年)にロニが出した教科書『始学日本安文』の序文がロニの教授法が形成されていく過程を良く示しているので次に一部を掲げよう。
 『帝立特別東洋学校の生徒のため難易度に応じて並べられたこの易しい日本文集は『初等日本語講座』の第6部にあたるが、この刊行で極東の島国の口語学習が目立って容易になることを期待したい。7年間の教育経験の結果、東洋語の学習を始める人たちにとって生徒の進度に従ってしか難しい点が出て来ないように初歩段階から遠ざけてある、順序だって作られた教科書を与えることが如何に必要、著者は不可欠とさえ言いたいのだが、かがはっきりわかった。』と云い、漢字、日本字の必要を認めながらも、特に日本語で書かれることが多く標準化出来ないことから日常行われる易しい文章を先ずローマ字で学び徐々に日本語の書体に入るとしている。(中略)
 日本語講座が正規の講座になった時、ロニは自分の力のみで講座を保つ危うさを知っていた。彼は当局に日本人講師を雇うことを要求し、必要なら自分の給与をその分だけ、減らしても良いといっている。こうして、レクトウル・アンディジェヌ Lecteur indigène という本国の言葉を話す本国人を講師なり復習教師 répétiteur に雇う制度が産まれ日本語の第一号には栗本鋤雲の養子、栗本貞次郎が任命された。(後略)」

 ロニーの日本語理解については、同時代から既に厳しい評価があり、その作品数に対して現在の評価は決して芳しいものではありません。ロニー自身が一度も来日しなかったこと、彼の日本について知識が江戸末期から明治初期までの極めて限定された、あるいは偏ったものであったことから、彼の著作については、現代の視点から見れば間違いや、稚拙な点も多々見られます。しかしながら、まだ日本についての情報、特に言語学的な情報が極めて乏しかった時代に独力で研究を重ね、独自の学習方法を打ち立てたこと自体は、同時代人にあってロニーのみがなし得たことでもあります。本書は、ロニーが最も情熱を持って取り組んだテーマの一つである日本語学習における、基本テキストとして書かれていることから、ロニーの日本語学習構想を理解する上でも大変重要なて文献ということができるでしょう。

左は初年度講座に用いられるテキストの紹介、右はタイトルページ。
本文冒頭。
読解練習用のローマ字で書かれた簡単な日本語文例集。
栗本貞次郎による例文集。
栗本による例文集では、一部漢字も登場する。
語彙集。
当時のものと思われる極めて簡素な紙装丁。