書籍目録

[『イエズス会の師父によって認められた1579年から1581年までの日本からの書簡集』]

カリオン、フロイス、カブラルほか

[『イエズス会の師父によって認められた1579年から1581年までの日本からの書簡集』]

(改訂第2版) [1584年] [ローマ刊]

Carreón, Francisco / Fróis, Luís / Cabral, Francisco…[et al.]

[ALCVNE LETTERE DELLE COSE DEL GIAPPONE. Scritte da’ Reuerendi Padri della Compagnia di IESV. Dell’ Anno 1579. insino al 1581.](Alcune lettere delle cose del Giappone. Scritte da’ Reverendi Padri della Compagnia di iesù. insino al 1579. al 1581.)

[Rome], [Francesco Zannetti], [M.D.LXXXIII.(1584)]. <AB2023032>

Sold

(Revised second ed.)

8vo (10.0 cm x 14.4 cm), LACKING first leaf(A1=pp.[1(TITLE.)] ,[2]), pp.3-14, LACKING 1 leaf(A8=pp.15, 16], pp.17-158, Later(19th century ?) Half leather on marble boards.
タイトルページと本文1葉(15, 16ページ分)が欠損。後年(19世紀頃か)と思われる再装丁で、この際になされたと思われる補修跡が随所に見られる。本文余白に虫損が見られるがテキスト部の欠落はなし。 [Laures: JL-1584-KB7]

Information

天草はじめ日本各地で「著しく成長した」キリスト教界と日本社会の状況を詳述、ヴァリニャーノによって定められた「年報」制度に従って刊行された最初の日本書簡集

 本書は、1579年から1581年までの間に生じた日本での出来事を報告したイエズス会宣教師による書簡(合計7通)が収録された「日本年報」で、1584年にローマで刊行されています。カリオン、カブラル、フロイスといった当時日本で活躍していた宣教師によって認められた本書収録書簡は、いずれも日本社会全体の状況や戦乱の相次ぐ日本各地の状況、そしてそのような不安定な状況下における日本のキリスト教界の様子が詳細に綴られています。信長が安土城を拠点にしてその権力基盤を盤石なものに固めつつある様子や、豊後や天草、有馬といった日本各地の様子が克明に綴られたこれらの書簡は、いずれも非常に興味深いものばかりです。

 本書に収録されている書簡を列挙しますと下記の通りになります。

1. カリオンによる口之津(Cocinoccù)発、1579年12月1日付書簡(pp.1-78)=いわゆる1579年日本年報
2. セスペデスによる都(Meaco)発、1580年書簡(pp.79-83)
3. メシアによる豊後(Bungo)発、1580年10月20日付書簡(pp.84-124)=いわゆる1580年日本年報
4. フロイスによる、1581年5月19日付書簡(pp.125-127)
5. フロイスによる、1581年5月29日付書簡(pp.128-130)
6. フロイスによる、都(Meaco)発、1581年4月14日付書簡(pp.131-142)
7. カブラルによる、1581年9月15日付書簡(pp.143-157)=いわゆる1581年日本年報

 収録されている全7書簡のうち、①(カリオンによる口之津発1578年12月1日付書簡)と③(メシアによる豊後発1580年10月20日付書簡)、そして⑦(カブラルによる1581年9月15日付書簡)の3書簡が中心となっており、それぞれが、1579年、1580年、1581年のいわゆる「日本年報」に該当するものです。そしてそれらを捕捉する内容の書簡が残る4書簡であると言えます。この「日本年報」という形式は、1579年にイエズス会巡察師として来日したヴァリニャーノが定めたもので、それまでは宣教師が各々のスタイルで執筆していた報告書に対して、それらには誤りや逸脱が多いことを指摘し、以降の報告については定められた統一の形式と項目に沿って認めた上で、上長の校閲を経てローマに送られるようにした結果生まれたものです。

 この「日本年報」においては、日本社会全体とそれに関連する宣教状況の概略、下(九州)を筆頭にした日本各地の社会状況とそれに関連する宣教状況の個別詳述という形式に沿って執筆されることが定められており、1年間に日本で生じた様々な出来事が日本全体の概略と地域ごとの詳述に整理されて認められています。本書はこの「日本年報」の形式によって認められた最初の書簡集で、上掲①のカリオン書簡(1579年日本年報)では、冒頭にヴァリニャーノによって「日本年報」の制度が整備されたことが述べられており、その形式に従ってこの書簡が執筆されていることが明記されています。

 この「日本年報」の形式を①のカリオン年報を一例にして、もう少し詳しく見てみますと、下記のような構成をとっていることがわかります。

・同年中に生じた日本社会全体と宣教状況についての概略(p.3-)
・肥前(Figen)国について(p.12-)
・肥後(Fingo)国について(p.18-)*当然「天草(Amaquza)」についての記述もここにみられる。
・筑前(Cicussen)国と筑後(Ciqungo)国について(p.20-)
・豊後(Bungo)国について(p.21-)
・都(Meaco)と山口(Amangucci)国について(p.65-83)

 この「1579年日本年報」は、特に最初の「日本年報」であることが強く意識されているようで、冒頭の概略において日本が戦乱が相次ぐ不安定な社会情勢にあることや、日本の地理区分の概論といった内容の記述に多くの紙幅が割かれていて、あらためて日本がどのような国であるのかといったことを読者に整理して伝えようとする意思が感じられます。結果的にこうした記事は、1579年当時における「イエズス会の日本観」とも言うべき記述となっており、非常に興味深い内容であると言えます。

 また各地の詳述についても同様で、例えば「肥後国について」という章では、天草についての概論記事が冒頭に長く掲載されていて、同地が5人の「殿」によって分割統治されている島であることや、その背後には豊後の大きな影響力があること、いずれの領主も所領もキリシタンで天草各地に数多くの信者がおり、司祭館が天草と本渡に置かれていることなどが書かれています。この書簡をはじめとして本書に収録されている書簡の多くは、後年に別の書簡集(エヴォラ版書簡集)に収録された際のポルトガル語テキストを底本にして邦訳(松田毅一監修『16•17世紀イエズス会日本報告集:第III期第5巻』同朋舎出版、1992年、所収)もなされていますが、この天草の記述については、本書収録書簡の方が(邦訳版にはない)より多い分量のテキストを含んでいるように見受けられることから、それらの比較や邦訳というのも興味深いテーマと言えるでしょう。

 この「日本年報」の形式に則って執筆され、刊行された最初の日本書簡集である本書は、ヨーロッパ各地で非常によく読まれたようで、本書と同じイタリア語版だけでも1584年中に5種類もの異なる版が刊行されただけでなく、ドイツ語やフランス語にも翻訳されて刊行されています。本書は残念ながらタイトルページを欠いてしまっていますが、その版組の特徴から1584年にローマのZanetti社(同社は当時ローマにおけるイエズス会の出版物の大半を刊行していたことで知られる)によって刊行された、同年中に刊行された初版の誤りを訂正した改訂版(第2版)と見なされる版であることがわかります。

 いずれにせよ、当時は非常によく読まれたとは言え、比較的小型で(安価な)書物として刊行された「日本年報」は現存するものがあまり多いとは言えず、欧米の古書市場でも希少(かつ高額)となっていることから、一部の欠損が見られるとは言え、本書は貴重な現存本の一つに数えることができるでしょう。


「日本の布教活動に関する最初の公式年次報告。展示本はその初版。ローマのザンネッティは同年もう一種の版を上梓していますが、展示本の巻末に見られる誤植訂正が本文中に組み入れられています。この二種の版の他、ナポリのサルヴァー二、ミラノのポンティオが同年に、ヴェネツィアのジオリートが翌年再版を上梓、仏訳、独訳もあいついで刊行されています。
 1579年の年報はフランシスコ・カリオンの執筆になり、イエズス会の順調な発展を肥前・肥後・筑前・筑後・豊後・都・山口の各地に見出す一方、打ち続く戦乱と迫害の危機を述べています。また信長と毛利の覇権争いを危倶し、キリシタンに寛容な信長の代りに毛利が力を得れば、迫害が甚だしくなるであろうと予想しています。ロレンソ・メシアの1580年年報は肥後・豊後・都の状況と布教の進展を叙述。この他本書にはフロイスの1581年の書簡抜粋(四月十四日、五月十九日、五月二十九日)なども含まれています。  邦訳:松田毅一監訳『十六・七世紀イエズス会目本報告集』第三期第五巻(京都・1992) (198.2/J97)」
(放送大学附属図書館HP「西洋の日本観」より。https://lib.ouj.ac.jp/gallery/seiyou_nihon/nenpo79.html)

後年(19世紀頃か)と思われる再装丁で、この際になされたと思われる補修跡が随所に見られる。
1. カリオンによる口之津(Cocinoccù)発、1579年12月1日付書簡(pp.1-78)=いわゆる1579年日本年報
この「1579年日本年報」は、特に最初の「日本年報」であることが強く意識されているようで、冒頭に置かれた1年間を総括する概略記事において、日本が戦乱が相次ぐ不安定な社会情勢にあることや、日本の地理区分の概論といった内容の記述に多くの紙幅が割かれている。
1579年当時における「イエズス会の日本観」とも言うべき内容。
肥前(Figen)国について(p.12-)
肥後(Fingo)国について(p.18-)*当然「天草(Amaquza)」についての記述もここにみられる
筑前(Cicussen)国と筑後(Ciqungo)国について(p.20-)
豊後(Bungo)国について(p.21-)
都(Meaco)と山口(Amangucci)国について(p.65-83)
「1579年日本年報」末尾。
2. セスペデスによる都(Meaco)発、1580年書簡(pp.79-83)
3. メシアによる豊後(Bungo)発、1580年10月20日付書簡(pp.84-124)=いわゆる1580年日本年報
4. フロイスによる、1581年5月19日付書簡(pp.125-127)
5. フロイスによる、1581年5月29日付書簡(pp.128-130)
6. フロイスによる、都(Meaco)発、1581年4月14日付書簡(pp.131-142)
7. カブラルによる、1581年9月15日付書簡(pp.143-157)=いわゆる1581年日本年報
巻末には読者への所言が掲載されていて、「新しい時代」を迎えた日本についての最新情報を伝えることやグレゴリオ13世による日本宣教の後援に感謝する旨などが述べられている。