書籍目録

『インド誌:ポルトガル、カスティーリャ両国による発見、航海、征服の記録:インド各地の道徳、宗教祭事、諸法、政体、そしてカトリック信仰への改宗について』

マッフェイ / アルノー・デ・ラボリー(訳)

『インド誌:ポルトガル、カスティーリャ両国による発見、航海、征服の記録:インド各地の道徳、宗教祭事、諸法、政体、そしてカトリック信仰への改宗について』

仏訳初版 1603年 リヨン刊

Maffei, Giovanni Pietro / A(rnault). D(e). L(a). B(orie)., F(rançois). (tr.)

HISTOIRES DES INDES,DE IEAN PIERRE MAFFEE BERGAMESQVE,... Où est traicté de leur descouuerte, nauigation, & conqueste faicte tant par les Portugais que Castillans. Ensemble de leurs mœurs, ceremonies, loix, gouuernemens, & reduction à la Foy Catholique.

Lyon, Jean Pillehotte, M. DCIII.(1603). <AB2023031>

Reserved

First edition in French.

8vo (11.3 cm x 17.0 cm), pp.[1(Title.)], 2 leaves, pp. [2,3], 4, [LACKING pp.5-8 (as issued ?)], pp.9-14, 935(i.e.15), 16-953, 23 leaves(table), Slightly later parchment. Skillfully repaired.
第1章は2葉(pp.5-8)が欠落しているが、刊行時からの落丁である可能性もあり。タイトルページ裏面、索引最終葉をはじめ、随所に補修跡、虫損が見られるが、テキスト判読に支障となる箇所なし。[Laures: JL-1603-11 (not possessed)] [Sommervogel: Vol. V-299 (1604 ed. )]

Information

ヨーロッパにおける初期東洋研究の金字塔となった名著の非常に珍しい仏訳初版

 本書はイエズス会士の著名な著作家であったマッフェイ(Giovanni Pietro Maffei, 1536? - 1603)によって執筆された、ポルトガル(並びにスペイン)による日本を含む「東インド発見」とその歴史を綴った作品の非常に珍しいフランス語訳初版です。本書ではヨーロッパ人による東インドへの航海が始まって以降、執筆当時に至るまでの歴史がイエズス会による宣教史を中心に据えて綴られており、当時のヨーロッパにおける最新で最も正確な「東インド」情報の集大成として大ベストセラーとなった作品です。この作品は1588年にラテン語で初版が刊行され、翌1589年にはイタリア語(トスカーナ語)版がヴェネツィアで刊行されています。本書は1603年にリヨンで刊行されたフランス語訳初版で、膨大な数が流通したこの作品の中でも現存数が極めて少なく、最も希少とされている貴重な版です。なお、本書は序文2葉(pp.5-8)に欠落が見られ、テキストの連続性から見ても明らかにあるべき一部分が欠落していますが、折丁記号自体は連続していて欠落が認められないことから、刊行当時からの落丁である可能性(初刷刊行後に欠損に気付き、それ以降の刷は欠損箇所を追加した可能性)も考えられます。

 マッフェイは、当時のイエズス会を代表する著作家で、特に歴史書や伝記の編纂において多大な功績を残した人物として知られています。マッフェイは、日本を含む世界各地のコレジヨの模範となるべくイエズス会によって運営されていた最も権威あるローマのコレジヨで教鞭をとっていたことからもわかるように、その豊かな学識と文体の洗練さにおいて当時から誉れ高く、彼が編纂したイエズス会の歴史関連の作品はヨーロッパ各地で広く読まれたため、イエズス会そのものの権威と影響力を高めることにも大いに貢献しました。マッフェイは本書を手掛ける前に、イエズス会によるインド宣教史に関する作品として、『東洋におけるイエズス会に関する1568年までの出来事』(HIstoria Rerum a Societate Iesu in Oriete Gestarum. 初版1571年、1574年まで毎年改訂版が刊行されタイトルも異なる)を刊行していました。この作品は、ポルトガルのイエズス会士ダ・コスタ(Manuel da Costa, 1541 - 1604)が、ザビエルによるアジア宣教の開始以来、イエズス会士に認められた書簡を編纂して『東方布教史』と題してポルトガル語草稿にまとめていたものを、マッフェイが全てラテン語に翻訳し、自身の解説を付して刊行していたものです。この作品は、当時ヨーロッパの多くの人々にとって未知の世界であったインド世界の実情を詳細に伝えた貴重な書物として非常によく読まれ、1574年に至るまで毎年改訂版が刊行されました。

 しかし、その一方でこの作品に対しては、当時のイエズス会によるインド宣教の責任者で中心的役割を果たしていたヴァリニャーノ(Alessandro Valignano, 1539 - 1606)をはじめとして、その内容に誤りが多いことが指摘されることとなり、こうした誤りを克服したより正確で、いっそう包括的な『インド誌』が新たに刊行されることが求められていました。マッフェイ自身は日本はもちろんのこと、インドのいずれの地にも実際に宣教に赴いたことはなく、イエズス会士によって送られてきた書簡を通じてしか現地の知識を得ることができなかったため、その内容に誤りや誤解に基づく解釈があることは決してそれほど責められることではありませんでしたが、マッフェイはこのヴァリニャーノによる批判を真摯に受け止め、本書の執筆に取り掛かることにしました。

 ヴァリニャーノは、自身が実際にインド宣教に赴くようになってから、それまでイエズス会士による書簡等の文書資料から得ていた現地の情報と実態があまりにも乖離していることに強い危機感を覚え、それまで各地各人によって任意の形式で送られていたこれらの書簡を「年報」として改め、その形式、記すべき(記すべきでない)内容、ヨーロッパまでの発送方法と中継地点における確認(検閲)のあり方を定め、より正確で統一的な形式に則った年報が作成されるよう改革に努めました。また、実際のインド宣教に携わっている責任者によってその内容が全て確認、校閲された上で、これまで以上に正確で包括的な『インド誌』が刊行されることが望ましいと考え、マッフェイの執筆作業に全面的に協力し、緊密に連絡を取りました。

「ヴァリニャーノは、ヨーロッパにおいて印刷される書翰集ではインドの状況が誤解されたり、誇張されたりするだけでなく、情報が不足していたり、印刷することを考慮せずに執筆されることもあるので、誤りが多いとしている。それ故、彼は、書翰集を再版する際にはインド管区による検閲制度の導入が必要であると考えている。この場合の書翰集とは、上記のマッフェイの書翰集であること明らかである。」
「こうした状況にあって、マッフェイの『インド史』(フィレンツェ、1588年)は、インド管区とヨーロッパ側とが連絡を取り合って作成された著作である。マッフェイは、(イエズス会の;引用者)総長から『インド史』の執筆を命じられており、インドに関する情報の収集にはインド管区からの全面的協力を得ている。」
(浅見雅一『キリシタン時代の良心問題;インド・中国・日本の「倫理」の足跡』慶應義塾大学出版会、2022年、148 / 153ページより)

 このように、インドで実際に宣教活動に従事している最高責任者であるヴァリニャーノと、当時のイエズス会で最高の著作家として名高かったマッフェイとが全面的に協力して完成した作品が本書です。本書初版は1588年にフィレンツェで刊行され、翌年1589年にはローマ、フィレンツェ、ヴェネツィア、リヨンなどヨーロッパ各地で再版され、それ以降も17世紀前半にかけて数えきれないほどの再版本が刊行されるという、ヨーロッパにおける初期の東洋研究の金字塔として大ベストセラーとなりました。本書はこの作品の中では極めて珍しいとされている アルノー・デ・ラボリー(François Arnault de La Boire, 1525? - 1607)が手がけたフランス語訳初版で、1604年にリヨンで刊行されています。

マッフェイの『インド誌』は上述のイタリア語(トスカーナ語)訳がすぐに刊行されているものの、基本的にラテン語で版を重ねており、それ以外の俗語にはほとんど訳されることがなかったことが大きな特徴となっている作品で、1603年に刊行されたこのフランス語訳版については、その存在すらほとんど知られていないと言ってよいほど珍しい版となっています。マッフェイ『インド誌』フランス語訳版は、別の訳者によるずっと後年の版(Michel de Pure (tr.). L’histoire des Indes Orientales et Occidentales. Paris, 1665)が存在することは比較的よく知られていますが、原著ラテン語版と同時代の1603年にフランス語訳が刊行されていたことは、ほとんど知られていないものと思われます。このフランス語訳初版は、翌1604年にも再版されていることから一定の読者を獲得したことは間違いないものと推定されるのですが、どういうわけか現存するものがほとんどなく、結果としてその存在がほとんど忘れられてしまったという謎の多い翻訳版です。訳者は読者への序文の中で、『インド誌』の内容だけでなく、マッフェイのラテン語文の素晴らしさについても賞賛しており、マッフェイの優美なラテン語の文体を少しでもフランス語の読者に伝えたく思い、拙いながらも本書の翻訳に取り組んだこと、本書の訳文に多くの瑕疵がみられるであろうことについては自身よりも優れた能力を持つ人の手になる翻訳がさらに続くことを期待したいとして、読者への許しを乞うています。

 本書は全16章で構成されていて(原著版では全一六書と明記されている)、ポルトガルを中心としたヨーロッパ人と「インド」との邂逅の歴史と現地事情について論じられていて、古代におけるインド知識の概説にはじまって、大航海時代によって飛躍的に知識が増大したインド事情について、その航海の歴史や「発見」の歴史、そしてなによりイエズス会による宣教の歴史が包括的にまとめられています。第6章(312ページ〜)では中国について論じられており、日本については主に12章(654ページ〜)後半(694ページ〜)、ならびに14章(第241葉表面〜)で論じられていて、これらの章では日本や中国の地理的概況、風土や気候、農林水産物、産出される鉱物資源、人々の気質や風習、文化、宗教、政治状況と統治機構、歴史など、多岐にわたるトピックが解説されていて、当時のヨーロッパにおける中国、日本情報の雛形として絶大な影響を残すことになりました。この影響は、カトリック世界だけにとどまるものではなく、オランダやイギリスといった次第に勢力を増しつつあったプロテスタント各国においても絶大なものがあり、このマッフェイの日本情報に基づいて後進のプロテスタント国による日本接近がなされるようになっていくことになります(この点については、フレデリック・クレインス『17世紀のオランダ人が見た日本』臨川書店、2010年、特に第2章を参照)。たとえば、新興国オランダの東方進出への大きな契機となったことであまりにも有名な、リンスホーテン(Jan Huygen van Linschoten, 1562? - 1611)の「東方旅行記」(1596年)に記された日本情報は、そのほとんどの情報源が本書によるものであることが知られています。

「(前略)リンスホーテン『東方案内記』の記述内容を精査すると、リンスホーテンは日本の章を著すにあたって、ヘリツゾーンから得た情報ではなく、イエズス会士の著作を執筆の指針として利用したことが分かる。その中でもリンスホーテンは特にマッフェイ『インド史』を大いに参照している。マッフェイはイエズス会の歴史家であり、『インド史』の第12章で日本を扱っている。マッフェイは、その情報源としてイエズス会の巡察師ヴァリニァーノやフロイスの記述を利用している。オランダ人に日本についての第一印象を与えたのがこの『東方案内記』であった。」
「日本は寒くて、住みにくい国であり、日本人は質素で我慢強い性質を持っている。慣習は他の民族とまったく違うため、異質な民族である。その起源は中国から流されてきた反逆者であるとされているが、慣習も言語も中国人と異なる。法がとても厳しく、礼儀を重んじる民族である。また、宝石などではなく、茶器や書画、刀を高く評価している。国制は封建的であり、君主は配下に対して絶対的な権力を持っている。イエズス会士は、日本で強い基盤を持ち、長崎という港で銀の貿易を独占している。このような日本観は、当時のイエズス会士の報告を基に形成されたものであるが、リンスホーテンはそれを概略的にオランダの読者に紹介した。
 オランダ人をアジアに導いた『東方案内記』は大きな影響力を持ち、17世紀を通じてオランダにおいてアジアに関する標準書となったことは言うまでもないが、日本に関しても、カロンの『日本大王国志』が1645年に出るまで、『東方案内記』がほとんど唯一の情報源であった。つまり17世紀前半において日本についての情報を知りたいオランダ人は、イエズス会士の記述を情報源としたリンスホーテンを参照したということになる。」
(クレインス前掲書、53-53, 65-66ページより)

 このように、本書の最初の部分においてマッフェイによってまとめられた日本情報は、『インド誌』自体が幾度となく再版されることで大きな影響力を持っただけでなく、その記述を典拠とした別の著作がさらに絶大な影響を各地で及ぼすことによって、ヨーロッパ中における日本観を規定する原点となっていきました。非常に珍しいフランス語訳初版である本書は、ラテン語を解さないより広範囲の読者にも読まれたことが推測されるという点や、原著ラテン語版やイタリア語(トスカーナ語)版との比較から明らかになるであろうフランス語訳版の特徴や独自性の解明が期待できるという点、さらには日本の地名や用語のフランス語表記にも少なくない影響を与えた可能性という点といった様々な観点から、これまでよく知られている他の版にはない独自の重要性を有しているものと思われます。非常に興味深いことに、本書は上述した日本関係記事の箇所に、刊行当時のもの近い年代のものと推定される旧蔵者の書き込みが随所に見られ、特に日本の宗教について論じた箇所には下線や欄外に書き込みが多数見られ、当時の読者の関心のあり用の一例を伝えてくれるユニークな1冊となっています。

 本書はこのように、その内容が非常に充実した作品となっており、当時の日本を含むインド宣教の最高責任者であったヴァリニャーノとイエズス会最高の著作家の1人であったマッフェイとの緊密な共同作業が結実した優れた作品として、数多くの読者を獲得することに成功しました。先に見たようにその影響力は直接的にせよ、間接的にせよ絶大なものがあり、多年にわたってインド情報、とりわけ中国、日本情報の雛形としての役割も果たし続けることになりました。繰り返し再版されて多くの読者を獲得した『インド誌』諸版の中において、その存在すらほとんどこれまで知られていなかったフランス語訳初版である本書は、この作品のより広範囲な広がりと読者層を理解する上でも、大変貴重な1冊と言えるでしょう。



「イエズス会の布教報告の蓄積とともに、これらに集められた情報を総合した著作の必要性が唱えられ、その任にあたったのが人文主義者マフェイでした。『東方布教史』はもともとコインブラのマヌエル・ダ・コスタがポルトガル語で記したもの、マフェイはその手稿をラテン訳するとともに、いわゆる「日本書簡」を編集した De Japonicis Rebus Epistolarum 等原著の約四倍に及ぶ大量の増補を行いました。
 ところがこれが公刊されると、ダ・コスタをはじめ、イエズス会内部から誤謬の指摘が相次ぎ、マフェイはあらためてイエズス会の布教史編纂に取り組むこととなりました。まず1578年イベリア半島へ赴くと、リスボンで、さらにコインブラやエヴォラのイエズス会文書を調査し、またローマのイエズス会本部からも大量の資料を入手したほか、たとえば晩年のメンデス・ピントにも面会して情報を得ています。また、特に日本については天正遣欧使節が携えてきた、ヴァリニャーノの『東インドにおけるイエズス会布教史』第一部など、新たな文献をそろえ、万全を期しました。このような周到な準備のうえで執筆された『インド史』は、刊行されるとただちに数版を重ね、十七世紀前半までしばしば上梓されています。」
(放送大学附属図書館所蔵日本関係コレクション展示会『西洋の日本観:フロイスからシーボルトまで』「32 マフェイ『全集』1747年」解説記事より)


「『東インド史』はザビエルの事蹟に則り、アフリカ、インド、東南アジア、日本での布教、新大陸での布教について紙面が割かれていますが、現地の文化、習慣、地誌といった視点も多彩に盛り込まれています。とりわけ日本については、主に480頁後段から495頁まで記述されています。ポルトガル人イエズス会士ガスパール・ヴィレラ(Gaspar Vilela, 1525~1572)の日本発信書簡や、フロイス執筆の日本年報冒頭に記載されることの多い、下(Ximo)、四国(Xicoco)、都(Meaco)の説明、中国、五島列島との位置関係、気候、山岳と比叡山、植生、家畜の解説にはじまります。マッフェイの日本記述を記載順に端的にまとめますと、以下のようになります。
 日本の文化・習俗の項目(483~486ページ)は、断片的で短い解説が多いのが特徴です。日本人の忍耐力、食事の作法、日本酒(米製ワイン)の飲酒習慣、茶の作法、茶道具の価値、日本刀の価値、比叡山焼き討ちの経緯、日本語についての解説、長刀の使用法、着物、靴、日傘、色彩と歓喜の関連性(喜びの色としての黒と赤、悲しみの色としての白)、臭いの感じ方、白湯を好む習慣、おはぐろ、公での歩き方、乗馬法、敬意を持った態度(靴を脱ぎ、屋内で靴を脱ぐ)、看病(ヨーロッパと違い、病人に塩辛い物を与える)等々、記述が非常に多岐に亘っています。
 次いで487ページから488ページ前半にかけても短く細切れに議論が展開されていきます。まず、日本の爵位について触れ、殿たち(Toni)はヨーロッパと同様にいくつか種類があり、王(Re)、公爵(Duco)、侯爵(Marchese)、伯爵(Conte)のような位階の存在を示唆しています。一方で善悪について議論が移ると、ヨーロッパと日本の善悪の判断基準が似通っている点にも着目しています。
 マッフェイの日本報告は尚も多彩な議論が続き、日本人の性質について多角的に論じていくととなります。488ページ前半では、僧兵をマルタ騎士団のようだと比喩し、学僧の教養について言及したうえで、キリスト教の浸透しやすさを説いています。488ページ後半からは、武士の日常、庶民の生活の解説、商店・技術者の水準の高さへの驚嘆を記したうえで、日本人の性格を詳しく解説していくこととなり、489ページへと引き継がれていきます。まず、優秀で器用な日本人は名誉を重んじる一方、侮蔑を嫌い、互いに敬意を抱くことを常としているため、安価な製品を作る職人にも敬意を払い、そうしないと職人は仕事を放棄すると指摘します。さらには、日本人は自制心があり、腹を立ててもそれを表には出さず、嫌なことや不幸が降りかかっても感情を表に出さないといった点にも着目しています。
 次いでマッフェイは、490ページ前半部において、下克上と権力者の栄枯盛衰について軽く触れたうえで、491ページまで日本の宗教について紙面を割くこととなります。マッフェイは日本の宗教を善悪判断が悲劇的に間違えていると断じてやみません。そして勢いのままに、民衆は坊主(Bonzi)たちの説教を通して阿弥陀や釈迦の教えを理解し、それにより狂気と極悪の間を歩むこととなるとまで言い及んでおり、日本で主に信仰されている仏教をルター派のようだと断じます。次いで神・仏の説明に移り、来世の福を司る仏(Fotoques)とし、現世の福を司るものが神々(Camis)としており、かつて王やその子息、武勇を上げたものが神々(Camis)として崇め奉られることがあると説明しています。しかしながらマッフェイは、これらは馬鹿げた話で、ギリシア神話のジュピター、サトゥルヌス、バッカスのようだという評価を下してます。そして、上記の議論を踏まえながら、日本人のあいだでは、神(Dei)から賜った真理の原理がすでに根絶しているが故に、知識の教え(del magistero della coscienza)を忘れてしまい、羞恥の箍(i serramim della pudicizia)が外れ、節度無く享楽を貪るようになると糾弾するにいたっています。
 ひとしきり日本の宗教について論じてからは、マッフェイの日本報告は再度断片的となります。492ページから493ページ前半までは、刀の使い方等の議論が続き、戦時における村落の破壊、落武者狩り、山賊の所業、水軍について言及しています。次いで貧者、病人の生活、日本人がキリスト教における貧者の喜捨を肯定的に評価している点に触れています。そして、犯罪者の処刑の様子、謀反を企てたものに対する処遇、犯罪者の裁き方等、日本の司法で議論が推移すると、領主に付帯する絶大な生殺与奪権、民衆を顧みない権力者による横柄で恣意的な統治に批判の矛先を向けます。
 さらにマッフェイは日本の司法とそれに伴う領主の絶大な権力を視座しながら、493ページ後半から494ページにかけて、日本の政治状況と統治システムへと議論の焦点を絞っていきます。まず日本の統治では、恐れが物事を支配し、それが憎しみへと繋がり、反乱や一揆が頻発、王座は不安定で継承は稀であると解説します。この流れを受け、具体例として、日本は王(Vo)あるいは内裏(Dair)と呼ばれる唯一の皇帝(Imperatore)のもとで支配されていたものの次第に蔑まされるようになり、軍人(huomini militari)が領主(Signori)を苦しめ、仕えることも軽んじるようになり、各領土は奪い合いとなり細かく分かれていったとしています。そしてついには、内裏に残された唯一の権利は、勢力に応じて名誉の称号(i vocaboli d’honore)を分け与えることのみとなり、それを用いて大金を集め、各権力者から有難がられるような神性(dignità)保持するに至ったと解説しています。そうしたなか、全日本人の間で最も権力を持つものは、天下(Tensa)という名の下、都(Meaco)とその近親諸国を支配するとしており、これらの土地が、当初は暴君(Tiranno)信長に支配されていたものの、2年前に謀反人に殺され、引き続き羽柴(Faxiba)が暴力で以って、その座(天下)についたと綴っています。
 494ページ以降では、「日本の習慣、秩序を理解してもらうには、より多くの紙面を割く必要があるために、これ以上は書かない」と一旦議論は打ち切られます。その上で、モルッカ諸島総督にして年代記記者であったポルトガル人アントーニオ・ガルヴァン(António Galvão, 1490~1557)により、スペイン・ポルトガルの周航や発見の記録として纏め上げられた地理書『諸国新旧発見記』(1563)[6]を、マッフェイは引き合いに出しつつ、3人のポルトガル人が1542年に初めて日本に上陸した旨に言及して、主な日本記述を締めくくっています。
 マッフェイの日本記述で多く見られるのは、その都度、日本とヨーロッパを比較して論じている点にあると言えます。前半部において日本の食事作法や礼儀作法、服装、服飾を取り上げる際には、「ヨーロッパでは帽子をとり、日本では靴を脱ぐ」等の具体例にみられるような、日本人とヨーロッパ人の異なる行動様式を通して、日欧の文化・風習の差異を強調しています。一方、後半部では、前半の相対主義的レトリックを引き継ぎながら、ギリシア神話やヨーロッパの爵位を持ち出したりする等、自らに引き寄せて日本の制度を理解しようとした態度が見て取れます。」
(小川仁「『東インド史』フィレンツェ版(イタリア語訳初版)」解説、国際日本文化研究センター制作のデータベース『日本関係欧文史料の世界』掲載記事より。https://kutsukake.nichibun.ac.jp/obunsiryo/book/000676577/)

刊行よりやや後年のものと思われるヴェラム装丁で状態は良い。
以前の所有者によるものと思われる書誌情報の調査記録が鉛筆で見返しに記されている。
タイトルページ。端部に補修跡があるのが見える。
訳者による献辞冒頭箇所。
献辞文の末尾に訳者名が明記されており、タイトルページではイニシャルのみの表記だった訳者名を特定することができる。
第1章(第一書)冒頭箇所。全16章構成だが、章名や小見出し等がなく、全体の構成がやや掴みづらくなっている。
第1章は2葉(pp.5-8)が欠落しており、明らかにテキストの連続性も損なわれているのだが、折丁記号は連続しており、後年に欠損したのではなく、本来は全体の印刷完了後に補充されるべき折丁分がなんらかの事情で挿入されなかったことによる刊行当初からの落丁の可能性もある。
第2章冒頭箇所。本文の記述は基本的にポルトガル、スペイン、そしてイエズス会による海洋進出の歴史を年代順に追っていく構成となっており、先行する類似の年代記のスタイルを踏襲しているとも言える。
第3章冒頭箇所。
第4章冒頭箇所。
第5章冒頭箇所。
第6章冒頭箇所。この章では特に中国について詳しく論じられている。
第7章冒頭箇所。
第8章冒頭箇所。
第9章冒頭箇所。
第10章冒頭箇所。
第11章冒頭箇所。
第12章冒頭箇所。この章の後半では日本について集中的に論じられている。
新たに「発見された」日本(Iapon)についての記述は、その首都である京都(京、Meaco)、九州(下、Ximo)の主要都市である臼杵(Vosuquim)、府内(Funai)、そして豊後王国(Royaume de Bungo)、四国(Xicoco)といった地理的概観の説明から始められている。
非常に興味深いことに、日本関係記事の随所に刊行当時に近い年代のものと思われる旧蔵者の下線や書き込みがみられる。上掲箇所は悪魔が宿ると解説されている富士山火口付近の様子を解説した箇所。
日本における家畜の種類や食生活、その体格や特徴的な髪型など多岐にわたる日本情報が記されている。
信長(Nubananga) と寺院の関係についてなどにも触れられていて、興味深い記述が多い。
日本は様々な武器製造技術とそれらの扱いに長けているとして、その一例として「薙刀(Nanguinata)」を挙げて解説している。
この書き込みを行った読者の関心はもっぱら日本の宗教や道徳事情にあったと思え、関連する箇所への下線と書き込みが多くみられる。
「Bózes」とはもちろん「坊主」のことである。
日本の道徳心や気質に関する箇所への下線も多くみられる。
同じく日本の信仰や神々についての解説が続いた箇所にも下線が見られる。
「釈迦」(Xaca)や「阿弥陀」(Amida)、「仏」(Fotoques)といったキーワードには特に強い関心を持ったようで、丸で囲んで強調したり、語を書き写したりもしている。
日本における宗教の混乱ぶりはマッフェイによってプロテスタントのそれに通じるものがあるとして批判的に論じられている。
テキスト後半では日本の歴史についての解説となり、信長が京都とその周辺地域である「天下」(Tansa)を制覇したが間もなく殺害されたことなどが記されているが、「羽柴」(Faxiba)との関係の記述などには混乱も見られる。
第13章冒頭箇所。
第14章冒頭箇所。この章ではザビエルによる日本宣教の様子が時系列に沿って論じられていて、日本についての記述が多くみられる。
1549年に日本へと向かって到着したことなどが論じられている。本書の原著刊行当初にはザビエルの伝記作品はまだ刊行されていなかったため、ある種のザビエル伝としても読まれたと思われる記事。
マラッカを発って鹿児島(Cangoxima)に到着した様子が記されている。
物騒との論争や迫害、都への旅など、コンパクトながらも要点を押さえた内容となっている。
山口(Amagutio)における出来事なども詳しく論じられている。
第15章冒頭箇所。
第16章冒頭箇所。
本文末尾。ポルトガル、スペイン両国とイエズス会の偉業を讃え、今後の一層の発展を祈念して締めくくられている。
巻末には索引が設けられている。
ここにも「釈迦」の項目に旧蔵者の書き込みが見られる。
最後の1葉は傷みがかなり激しく、薄い和紙によって補修されている。
目次末尾。
1,000ページ近い大部の著作とあって、書物としてかなりのボリュームがある。