書籍目録

『日本地図帳:100万分の1縮尺図7枚、ならびに750万分の1縮尺全体図にて構成』

ハッセンシュタイン

『日本地図帳:100万分の1縮尺図7枚、ならびに750万分の1縮尺全体図にて構成』

第一部、第二部合冊(揃い) 1885年(第一部)、1887年(第二部) ゴータ刊

Hassenstein, Bruno.

ATLAS VON JAPAN. Sieben Blätter im Mafsstabe von 1: 1000000 und eine übersichtskarte im Mafsstabe von 1: 7500000,…Erste Abteilung in 4 Blättern (bound with) Zweite(Schlufs-)Abteilung in 4 Bl.

Gotha, Justus Perthes, 1885(Erste Abteilung), 1887(Zweite Abteilung). <AB2023022>

Sold

2 parts bound in 1 vol.(complete)

47.5 cm x 55.4 cm, Title. for Erste Abteilung, 2 text leaves, 4 maps(Sect. I: RIU-KIU, II: NAGASAKI, III: KIOTO, IV: TOKIO) / Title. for Zweite Abteilung, 1 text leaf, 4 maps(SEKTION V: NIICATA, VI: HAKODATI, VII: KURILEN, VIII: ÜBERSICHTS BLATT), Contemporary three quarter cloth on orange leather boards.
見返しに旧蔵者による蔵書票の貼り付けあり。本体と製本の綴じが外れかかっている状態。染みが散見されるが地図内容の解読に支障はなく、概ね良好な状態。 [NCID: BB00016227] [NDLID: 000006490393(Erste Abteilung only)]

Information

国内外の最新情報を駆使して、約10年の歳月を費やして刊行された明治前期における西洋製日本図の集大成

 この大型の日本地図長を手掛けたのは、当時多方面で活躍したハッセンシュタイン(Bruno Hassenstein, 1839 - 1902)というドイツの地理学者です。当時のドイツのみならずヨーロッパを代表する地理学関係の出版物を手掛けていたゴータの出版社Perthes から第一部が1885年に、第二部が1887年に刊行されており、本書はこれらが合冊されて1冊の地図帳となっています。ハッセンシュタイン自身は来日経験がありませんでしたが、国内外の多くの著名人から協力を得ながら、当時最新の西洋製日本地図や海図、そして地図製作や地理学研究において目覚ましい発展を遂げつつあった日本製の地図や海図を多数駆使してこの地図帳を作り上げました。その意味で本地図帳は、明治前期に西洋で製作された日本地図の集大成とも言える非常に意義深い地図帳ですが、その悲運もあって現存部数が著しく少ないことでも知られる貴重な作品です。

 ハッセンシュタインは、先に挙げたゴータの出版Perthesで数多くの地図作成に従事しており、同社をヨーロッパ屈指の地図出版社へと成長させた地理学者ペーターマン(August Heinrich Petermann, 1822 - 1878)の下で研鑽を積みました。ペーターマンは、19世紀前半のドイツ語圏における地図制作や出版、地理学教育に大きく貢献したことで知られるベルクハウス(Heinrich Berghaus, 1797 - 1884)の手ほどきで近代地理学や地図制作を学んだのちにスコットランドやロンドンでも経験を積み、ゴータの出版社 Perthes に請われて同社の地図出版の中心的役割を果たしていました。ペーターマンは、自身の名が冠された雑誌 『ペーターマン博士による地理学全般にわたる重要な最新研究についてのPerthes 地理学協会報告誌』(Mitteilungen aus Justus Perthes Geographischer Ansalt über wichtige neue Erforschungen auf dem Gesamtgebiet der Geographie von Dr. A. Petermann、以下『ペーターマン博士の地理学協会報告誌』)を1855年から手掛けており、この雑誌には当時の西洋人にとって初めて解明された地域の地理情報や最新の旅行記などが精巧な地図とともに掲載され、当時のヨーロッパを代表する地理学雑誌として高い評価を得ており、近代地理学の発展に大きく貢献したことで知られています。また、後述するようにこの雑誌には日本についての情報も頻繁に掲載されています。ハッセンシュタインはこのような当時のヨーロッパの地理学の最前線とも言えるペーターマンのもとで研鑽を積みながらアフリカ各地の地図製作に従事して高い評価を得て、彼の没後(1878年)は、同誌の後任編集者に就任しています。

 本地図帳は、こうしたドイツにおける近代地理学の正当な系譜を引き継ぎ、当時最先端の地理学出版を手掛けていた Perthes 社において、ハッセンシュタインが渾身の力作として約10年もの歳月を費やして刊行された日本地図帳であることに大きな意義があります。ハッセンシュタインが序文で述べているように、この地図帳の出版は彼の長年の悲願であった作品で、第一部が1885年に、第二部が1887年に刊行され、7枚からなる100万分の1縮尺の部分図と、750万分の1縮尺の全体図、すなわち合計8枚の地図と、ハッセンシュタインによる長文の解説テキストで構成されています。

 本地図帳の出版に至った経緯や協力者について、ハッセンシュタインは第一部序文で詳しく述べていて、開国以来約30年が経過した日本が多方面において目覚ましい発展を遂げており、特に地理学や地図作成におけるこの10年の間の進歩は驚くべきものがあるとして、こうした発展の成果を凝縮するような作品となることを目指してこの地図帳の製作に臨んだ旨が記されています。先に述べたように『ぺーターマン博士の地理学協会報告誌』において、来日西洋人による日本の地理学に関する報告や旅行記報告が多数掲載されていましたが、こうした記事も参考にしつつ、ハッセンシュタインは多くの人々の助力を得たことに対する謝意を序文冒頭に示しており、そこから本地図帳の協力者ネットワークをうかがい知ることができます。

 ハッセンシュタインは、本地図帳の製作にあたって多くの日本の地図資料の収集に尽力してくれたとして、まずライン博士(Johannes Justus Rein, 1853 - 1918)の名を挙げています。ラインはプロイセン政府より日本の漆器調査の命を受けて1873年から76年にかけて日本に滞在しつつ、多方面における日本研究に従事した地理学者で、帰国後の1881年にプロイセン政府への報告書として『帝の国の自然と人々』(Natur und Volk des Mikadoreiches. Leipzig, 1881)を、続いて1886年に『(日本の)農林業、産業、商業』(Land- und Forstwirthschaft, Industrie und Handel. Leipzig, 1886)を刊行したことでも知られる人物で、『ペーターマン博士の地理学協会報告誌』にもたびたび寄稿していました。ハッセンシュタインは日本通であったラインから地図資料の提供を受けただけでなく、彼の豊富な滞日経験と日本研究を踏まえた上でのアドバイスも受けていたようで、この地図帳の製作にあたって大きな影響を与えたことが伺えます。

 ラインに続いてハッセンシュタインが謝意を評しているのが、お雇い外国人として日本で最初の天気図作成や気象予報を行ったことでも知られるクニッピング(Erwin Rudolph Thobald Knipping, 1844 - 1922)で、彼もまた『ペーターマン博士の地理学協会報告誌』への寄稿者でした。クニッピングは1871年に来日してドイツ語教育や、もともと航海士であったことから日本で船員教育を行っていましたが、地理学や気象学の見識を買われ、1882年からは東京気象台に勤め1891年に帰国するまで約20年にわたって日本に滞在した人物で、何より1879年に刊行した巨大な日本図(Stanford’s library map of Japan: Principally compiled from Japanese Documents. London: Edward Stanford, [1879])の製作者として知られています。ハッセンシュタインはクニッピングによる日本図を、それ以降の日本内外の地理学調査や地図、海図政策の目覚ましい発展を踏まえて全面刷新することを目論んで、本地図帳の製作にあたったものと思われ、クニッピングを通じて最新の統計情報や地理情報を日本当局から得られたことに謝意を示しています。

 また、ライン、クニッピングといった当時のドイツを代表する日本研究者だけでなく、ハッセンシュタインは本地図帳の製作準備中にドイツに留学していた日本の留学生からも協力を得ており、具体的には、小藤文次郎博士(Dr. Bunjiro Koto)と飯島魁博士(Dr. Isao Jijima)の名を挙げています。小藤文次郎は1880年から84年にかけてライプチッヒ大学やミュンヘン大学に留学していた地質学者で、帰国後は東京帝国大学理学部地質学科講師に就任し、近代ドイツ地理学の日本導入に尽力したことで知られています。ハッセンシュタインは小藤が難解な日本の地名のローマ字への翻刻に協力してくれたことや、帰国後も最新の天体観測や三角測量のデータを提供してくれたことを紹介して彼に謝意を示しています。また、飯島魁も同じく同時期にライプチッヒ大学に留学していた動物学者で、帰国後は東京帝国大学理学部教授となり、日本鳥学会の創設者となったことでも知られています。飯島は、関東甲信越周辺を描いた本地図帳の第4図の山々の地名の特定に協力したことをハッセンシュタインに感謝されており、飯島自身は地理学者ではありませんでしたが、おそらくフィールド調査のために関東近郊の山々に親しかったと思われることから、ハッセンシュタインにとっては非常に頼もしい協力者になったものと思われます。

 こうした日本、ドイツ双方の学者の力強い協力を得られたことに加えて、西洋人による近代日本研究の先駆者となったアーネスト・サトウ(当時は駐バンコク公使)からもハッセンシュタインは助力を得ることができたようで、この序文ではサトウが著名な日本の英文ガイドブックの著者であり、日本語にも精通していることを紹介しつつ、謝意が述べられています。

 この序文からは、本書は刊行までにこうした多くの人物の助力を得ながら長い時間と膨大な労力をかけて準備されたものであることが分かりますが、それだけでなく印刷技術の点でも非常に苦労があったようで、非常に精巧な多色石版印刷を実現するために多大な困難に直面したため、その刊行が予定よりも送れざるを得なかった旨が記されています。

 こうした地図帳出版に至る経緯についての序文に続いては、ハッセンシュタインによる地図帳そのものの解題、解説とも言うべきテキストが掲載されており、この地図帳に収録された地図がどのような編集方針に基づいて制作されているかが詳らかに語られています。ハッセンシュタインは、地図の完成度とともにそれを解説するテキストの学術的価値にも重きを置いていたようで、この地図帳が最新の学術成果となることを企図していたことが、こうした長大な序文からはうかがえます。

 地図本体は下記の通り、1885年に刊行された第一部に4枚、1887年に刊行された第二部に4枚が収録されており、全8枚の地図で構成された地図帳となっています。

第一部
 第1図:琉球(RIU-KIU):琉球諸島、小笠原諸島、南西諸島
 第2図:長崎(NAGASAKI):九州、津島、本州、四国西端
 第3図:京都(KIOTO):関西、四国、北陸
 第4図:東京(TOKIO):関東甲信

第二部
 第5図:新潟(NIICATA):新潟、東北
 第6図:函館(HAKODATI):北海道
 第7図:クリル諸島(KURILEN):北方四島、千島列島
 第8図:概観図(ÜBERSICHTS BLATT):日本全図

 このように全7枚でほぼ日本全体をカバーしつつ、第8図で日本全体を概観できるような構成となっています。部分図である第1図から第7図は100万分の1縮尺で、全体図である第8図のみ750万分の1縮尺で製作されています。具にみるとよくわかるように、非常に細やかに膨大な情報が描かれ、書き込まれた地図で、その製図は言うに及ばず、印刷においても序文で述べている通り、高度な技術が要求されたであろうことが分かります。これほどまでの情報を凝縮した西洋製日本図は、ハッセンシュタインが企図したようにこれまでに類例がなく、クニッピングやブラントンによる西洋製近代日本図を刷新すると言う点において、本地図帳はその目的を果たしたと言えるのではないかと思われます。

 その一方で、上記の分図名の表記だけからもわかるように、地名のアルファベット転記については、ハッセンシュタインが非常に苦心して取り組んだにも関わらず、さまざまな混乱が見られ、結果的に地図としての実用性を著しく下げることになってしまったことは否めません。この点は、当時の本地図帳に対する批評でも指摘されていたようで、高い学術性を備えておきながら地名表記という地図にとって最も基本的な事項に大きな瑕疵があったことは非常に残念に思われる点と言えます。

 とはいえ、この地図帳はハッセンシュタインが約10年の歳月をかけて苦心して完成させただけあって、当時においても画期的な水準の西洋製日本地図に仕上がったことは間違いないものと思われます。しかしながら、ハッセンシュタインにとって大きな不幸であったのは、出版社である Perthes社がペーターマン亡き時代に至ってから、日本のような西洋にとって相対的にマイナーな地域の地図出版に対してより消極的になっていったという出版社の方針転換でした。その製作に膨大なコストがかかる割にはマーケット的には大きな利益が望めないハッセンシュタインの『日本地図帳』は、Perthes社にとって次第に負担になっていったようで、ハッセンシュタインが当初目論んでいた『ペーターマン博士の地理学協会報告誌』と同じく2,000部前後を販売するという方針は同社によって拒否され、わずかに300部ほどのみが印刷されるという、極めて限定的な出版となってしまいました。印刷部数の大幅削減は Perthes社の方針転換が大きな要因の一つではありますが、比較的大きなマーケットが望めたであろう、在日西洋人や旅行者が日本での日常的に用いることができるハンディな日本地図帳というコンセプトを、ハッセンシュタイン自身が大きく逸脱させてしまったことにも、その要因が認められるのではないかと思われます。さらに、『ペーターマン博士の地理学協会報告誌』がその目的としてた近代地理学の発展は、次第に地理学の細分化、高度な専門化の傾向を深めていっており、一つの地図帳作品で当該地域を全ての側面から表現するという本地図帳に見られるような編集方針は、学術的にも次第に時代遅れとなりつつあったことも、本地図帳の販売を妨げる要因になったのかもしれません。

 いずれにしましても、極小部数しか印刷されなかったハッセンシュタインの『日本地図帳』は、その完成度の高さに反して、実際には極めて限られた流通にとどまることとなり、結果的にこの地図帳は世界中でも現存しているものがほとんどないという、極めて稀少な地図帳となってしまいました。日本国内でもCiNii上では東京大学に2部(駒場図書館、総合図書館)所蔵されていることを確認できるのみで、それ以外には国会図書館に第一部のみが所蔵されているだけのようです。国外でもドイツでおいてすら、ごくわずかしか所蔵が確認できないとされていますので、現存部数は極めて限られているものと思われます。

 本地図帳は、ドイツ近代地理学と地図出版の中心であった Perthes社から、同社の礎を築いたペーターマンから薫陶を受けたハッセンシュタインが国内外の多くの協力者を得ながら、当時最新の情報を組み合わせて約10年の歳月をかけて完成させた、当時最高峰の西洋日本地図と言える作品ですが、その一方で販売面では全く優れず、時代の間に翻弄されて悲劇的な運命を辿った作品です。いまではその存在が知られることすらほとんどありませんが、歴史的観点からも再評価がなされるべき「知られざる」日本地図帳ではないかと思われます。


 *なお、本書刊行の経緯や Perthes社とハッセンシュタインのやりとりについては、下記の研究論文が参考になります。

Alrun Schmidtke.
Mapping a Distant Empire: Bruno Hassenstein's Atlas of Japan (1885/87).
In: Meyer, H., Rau, S. and Waldner, K. ed. SpaceTime of the Imperial. Berlin, Boston: De Gruyter Oldenbourg, pp. 367-393.

1885年に刊行された第一部と1887年に刊行された第二部が1冊に合冊されている。
見返しには旧蔵者の蔵書票がはられている。
第一部(1885年)タイトルページ。ドイツにおける近代地理学の正当な系譜を引き継ぎ、当時最先端の地理学出版を手掛けていたゴータの Perthes 社から刊行されている。
序文冒頭箇所。本書刊行に至った経緯や協力者について詳細に述べられている。
収録地図の編集方針や細部についても非常に詳しく解説されており、序文がある種の学術論文となっている。
第1図:琉球(RIU-KIU):琉球諸島、小笠原諸島、南西諸島
第2図:長崎(NAGASAKI):九州、津島、本州、四国西端
第3図:京都(KIOTO):関西、四国、北陸
第4図:東京(TOKIO):関東甲信
第二部(1887年)タイトルページ。
第二部でも第一部と同様に詳細な解説記事が冒頭に掲載されている。
第5図:新潟(NIICATA):新潟、東北
第6図:函館(HAKODATI):北海道
第7図:クリル諸島(KURILEN):北方四島、千島列島
第8図:概観図(ÜBERSICHTS BLATT):日本全図
7枚の分図が100万分の1縮尺であるのに対して、第8図のみ750万分の1縮尺となっている。