書籍目録

『神奈川条約(日米和親条約)締結直後の日本に滞在した8ヶ月(グレタ号  日本通商記)』

リュードルフ

『神奈川条約(日米和親条約)締結直後の日本に滞在した8ヶ月(グレタ号 日本通商記)』

1857年 ブレーメン刊

Lüdorf, Fr(iedrich). Aug(st).

Acht Monate in Japan nach Abschluß des Vertrages von Kanagawa.

Bremen, Heinrich Stack, 1857. <AB2022264>

Sold

8vo (13.5 cm x 21.0 cm), Illustrated Title., Half Title., pp.[I(Title.)-V], VI-XI, pp. [1], 2-254, (some folded) Plates: [7], Contemporary half cloth on brown boards.
折丁[13-5]のテキスト下部余白に破れあり(欠損なし)。 [NCID: BA76991325]

Information

日米和親条約締結直後の1855年5月から箱館、下田に滞在したドイツ商人による貴重な見聞録

ただいま解題準備中です。今しばらくお待ちください。


本書目次(下掲訳書目次を基に本書のページ等を追記)

刊行の辞 (pp.III-)
原著者の序 (pp.VII-)

第一部:歴史篇
 第一章:日本の扉をたたくもの (pp.1-)
 第二章:イギリス艦隊の長崎訪問(pp.35-)*本書では章立てなし

第二部:日記篇
 第一章:箱館日記 (pp.59-)
 第二章:下田日記 (pp.114-)
 第三章:グレタ号の航海 (pp.153-)*本書では章立てなし
 第四章:下田日記(続)(pp.167-)*本書では章立てなし

附録
 一 日本の国土と住民 (pp.190-)
 二 アメリカ人は何を得たか (pp.212-)
 三 日本の言語 (pp.243-)
 四 下田の物価表 (pp.248-)
 五 日露和親条約 (pp.250-)*訳書では削除

 


「私は、本書が幕末期の貴重な史料であると述べたが、それはどのような点からいえるのであろうか。本書の中で、最も重要な部分は「箱館日記」「下田日記」であることは、いうまでもない。
 グレタ号が箱館に入港したのは、安政二年四月三日(1855年5月18日)のことである。日米和親条約が結ばれたのは、前年の三月三日、(3月31日)のことであり、ペリーが箱館見分のために同地に到着したのは四月二十一日(5月17日)のことである。したがってグレタ号の入港は、それからまだ満一カ年も経過しない開港直後のことといってよい。そこで五月八日まで約一カ月間碇泊しているが、その間の事情を克明に記した日記は、当時の箱館の様子をよく伝えている。
 グレタ号の船主やリュードルフらはドイツ人であり、ドイツと日本との間にはまだ条約が結ばれていなかった。にもかかわらずグレタ号が函館に入港し、滞在できたのは、同船がアメリカ艦隊の傭船となっていたからである。同船が傭船となるに至った事情は詳かでないが、ともかくアメリカ国旗を掲げた船であるため、箱館奉行らも碇泊を認めなければならなかった。
 リュードルフらの日本訪問の目的は、アメリカ艦隊に石炭、その他の必要品を補給することが表向きであったが、同時に日本との通商を考えていたことは、その日記に明らかなとおりである。
 (前略)しかし和親条約は通商条約でなく、貿易が期待どおり行われなかったのも当然であった。リュードルフは、その事をよく知っていた。それでもできるだけ物々交換を行おうと努力した。しかしほとんど成果を収めることはできなかった。その間の箱館奉行との折衝などを見ると、彼らの「商人魂」といもいうべきものを窺うことができるし、また箱館奉行側の対応策を知ることができ、幕末外交史・通商史研究に興味深い素材を提供している。
 当時箱館には、イギリスやアメリカ、フランスなどの軍艦が仕切りに入港している。その際ドイツ人で、オランダ語に堪能なリュードルフは、両者の間の通訳を買って出て、ことに箱館奉行所側から感謝されている。(後略)

 安政二年五月二十一日(7月4日)下田に入港したリュードルフは、同年十一月二十五日(翌年1月2日)に同地を去るが、その間実に約6カ月下田に滞在することになる。(後略)
 安静元年十月十五日(1854年12月4日)ロシア使節プチャーチンが下田に来航し、幕府派遣の応接掛と会商を開始したが、たまたま十一月四日(12月23日)の大地震で、使節乗艦のロシア軍艦ディアナ号が、大津波のため大破した。日露和親条約は、十二月二十一日(1855年2月7日)に成立したが、使節一行らは帰国できない状態であった。(中略)このような多数のロシア人の残留は、幕府にとっては頭痛の種であり、なんとか早く彼らを退去させようと考えていた。
 これより先1853年(嘉永六年)10月、ロシアとトルコとの間に戦争が起こり、次いで翌54年3月、イギリス、フランスはロシアに宣戦(クリミア戦争)した。この戦争の余波は極東にまで及び、イギリス、フランス軍艦は、ロシア軍艦を追い求めていた。(中略)戸田村に残留するロシア軍人らと、イギリス軍との間に衝突が起こるかも知れず、これもまた幕府にとっては頭の痛いことであり、なんとかロシア人たちを早く退去させたいと苦慮したのであった。
 この事情をよく知っていたリュードルフらは、最大限にこの問題を利用した。(中略)
 リュードルフらは、グレタ号が任務を果たして下田に帰るまでの滞在を要求したが、幕府側にとっては、ロシア人が退去するのであるから、このことは無条件賛成であり、リュードルフらは下田玉泉寺に居をかまえ、積荷も陸揚したのであった。さらにリュードルフは、積荷と日本商品との交換を積極的に進めた。日本側としてもロシア人送還の恩人とも言うべきリュードルフの要求であるため、これを承認せざるを得なかった。その間のたくましい商人魂が、日記全体にあふれている。(攻略)

 グレタ号は、伊豆下田を出港してから、まったく消息を絶ってしまった。リュードルフは下田での不自由な生活を送りながら、グレタ号の帰港を待っていた。しかし帰港しないのも当然、グレタ号はイギリス軍艦に拿捕されていた。この間の事情も、下田日記の中に詳細に述べられているが、漸くその知らせを得ると、リュードルフはこのことを商品取り引きにフルに利用した。(中略)
 リュードルフは、ほぼ通商の目的を達したので帰国方法を考え、下田に入港した商船を購入して退去し、ここに日記も終わるのであった。
 箱館滞在中もそうであったが、こと下田で長い間生活する間リュードルフは周辺の地を歩いて、日本の風土や人々の生活について、観察している。彼は一介の商人でなく、半ば学者的な性格を備えているのではないかとさえ思わせる。その観察は、かなり正確に日本の当時の事態を把握しているといってもよい。
 リュードルフは日本渡来に際し、日本に関するこれまでの欧文の諸文献を読んだりして、かなり日本の研究をしている。それが、函館や下田における彼の行動に役立ったものと考えられる。(中略)「歴史篇」に比べて、終わり(附録)に述べている「1 日本の国土と住民」は、自分が実際に見聞したことを基にしているので、かなり正確な叙述となっている。恐らく、この書を読んで来日した外国人は、これによって多大の裨益を得たと思われる。もっとも原文がドイツ語であるだけに、何人の人が本書を手にしたか不明であり、また本書が何部発行されたかも今となっては詳かでない。恐らく、あまり部数は多くなかったのではなかろうか。校訂者の私も、本書の原本を長い間探し求めているが、日本には2、3部しか存在しないようである。したがって日本の学者も、幕末の函館・下田の叙述などで、まったく本書を利用していない。
 附録の「2 アメリカ人は何を得たか」も、ペリー艦隊の得た成果を正確にとらえている。和親条約が通商条約でないこと。それをアメリカ人が拡大解釈しようとすることを批判し、またアメリカ商人のアンフェアーな行動を非難している。(中略)附録の「3 日本の言語」は、簡単なものであるが、必要最小限ともいえるものを紹介し、後に来日しようとするドイツ人にとっては、便利なものとなったと思われる。さらに附録「4 下田の物価表」も、同じような性格のものであった。もっとも物価は変更が激しいもので、どれだけ利用価値があったかどうか疑問であるが、私たちが幕末の経済問題を考察する上で、参考に値するものである。(後略)

 (前略)外交官でもないし、学者・大商人でもない彼の経歴は、今のところ不明である。どこで生まれ、どこで成長し、どうして東洋貿易に従事し日本に渡来したのか、その研究は残された問題であり、また日本を去ってから、彼の死に至る間の足跡も明らかにしなければならない。(後略)
 なおリュードルフは、日本人に対しては比較的好意をよせていたように思われる。幕府役人の石頭には、不愉快感を持ったりしているが、通詞との間には親密感が生まれている。日本人が勤勉であり、礼儀正しい人が多いことなど、日記の諸所に書き残している。傲慢さがなく、謙虚であり、好奇心に富んでいるとも記している。したがって本書全体を読んで、何か心暖まるものを感じるのである。
 それにしても孤独生活に耐え、しかもその間着々と商談を拡大して行くリュードルフの旺盛な商人魂には、感心するほかはない。(後略)」
(中村赳(訳)小西四郎(校訂)『グレタ号日本通商記』雄松堂書店、1984年「校訂者あとがき」より)

刊行当時のものと思われる装丁。
印象的な挿絵タイトルページ
タイトルページ。
目次と収録図版一覧。
刊行の辞 (pp.III-)
原著者の序 (pp.VII-)
第一部:歴史篇  第一章:日本の扉をたたくもの (pp.1-)
「1613年(慶長18年)皇帝がイギリス人に特権を与えた条約の原文」
「長崎」
第二部:日記篇
「箱館」
第一章:箱館日記 (pp.59-)
「日本のパイプ(煙管)」
「日本の紋(家紋)」「日本の帆船」
「日本の履き物」
第二章:下田日記 (pp.114-)
「下田」
「柿崎にある玉泉寺」
附録  一 日本の国土と住民 (pp.190-)
「日本の階級」
二 アメリカ人は何を得たか (pp.212-)
三 日本の言語 (pp.243-)
四 下田の物価表 (pp.248-)
 五 日露和親条約 (pp.250-)
本文末尾