書籍目録

「日本の人々の起源についての考察」

シーボルト

「日本の人々の起源についての考察」

(雑誌『バタヴィア学芸協会論叢』第13号より) [1832年] [バタヴィア(ジャカルタ)刊]

Siebold, Philipp Franz Balthasar von.

VERHANDELING OVER DE AFKOMST DER JAPANNERS;...

[Batavia (Jakarta)], [1832]. <AB2022160>

Sold

(Extracted from VERHANDELINGEN VAN HET BATAVIAASCH GENOOTSCHAP, van Kunsten en Wetenschappen. 13de DEEL)

8vo (12.8 cm x 22.0 cm), pp.[183(Title.)-185], 186-275, [276], 2 folded plates, Disbound.
雑誌から抜き取られた未製本の状態で、一部の紙葉や巻末の折り込み図版が綴じ紐から外れている。一部に染みが見られるが概ね良好な状態。[NDLID: 000003243094] [NCID: BA52265158]

Information

シーボルトによる日本語研究と神話研究を駆使した日本の人々の起源をめぐる考察

本論文は、シーボルト(Philipp Franz Balthasar von Siebold, 1796 - 1866)が、帰国後の1832年に発表した日本の人々の起源について考察した論文で、雑誌『バタヴィア学芸協会論叢』第13号に収録されていたものです。この論文では、日本の宗教(神話)の考察と並んで、特に言語の考察に力点が置かれており、近隣地域言語との対照折込図を収録するなど、シーボルトによる日本語研究として非常に重要と思われるものです。また、当時フランスを中心に盛んになりつつあった東洋研究と比較言語研究の多くの文献を参照しつつ、批判的に考察していることから、当時のヨーロッパにおける日本研究、日本語研究の動向を伝えるものとしても非常に貴重な論文です。なお、本書が刊行された1832年は、シーボルトの主著となる『日本』の分冊刊行が始まった年でもあります。

 この論文が掲載された雑誌『バタヴィア学芸協会論叢』は、東インド植民地や交易地の学術研究を推進し、オランダ東インド会社の利益増大に貢献することを目的にバタヴィア政庁が支援して1778年に設立された「バタヴィア学芸協会(Bataviaasch genootschap van kunsten en wetenschappen)」の機関誌としてバタヴィア(現在のジャカルタ)発行されていた雑誌です。この雑誌は、ティツィング(Isaac Titsingh, 1745 – 1812)による日本研究論文やシーボルトの他論文をはじめとして、日本や中国、朝鮮、琉球、蝦夷都近隣の北方地域に関する優れた論説が数多く掲載されたことでも知られています。

 日本の人々の起源をめぐる論争は、ヨーロッパ人による16世紀以降の本格的な日本研究の始まりとともに論じられた非常に重要な主題の一つでした。これは大航海時代以降、ヨーロッパ人にとって「発見」された、あるいはより詳しい情報が入手できるようになった地域の歴史や人々について、聖書記述との整合性をどのように考えるべきかという神学的な事情が背景にあったため、現代の視点から見ると一見奇異に見える論争でありながらも、非常に真剣に議論された極めて重要な主題でした。

 シーボルトはこうした歴史的な背景事情を十分に理解しつつ、まずは日本の文献(内容的には『日本書紀』)に依拠しながら、日本のいわゆる記紀神話を紹介しており、日本では自国の起源がどのように捉えられているのかを解説しています。その上で、これまでこの主題を扱ってきたヨーロッパの学者、著作家の作品を列挙しながらそれぞれの内容を簡単にまとめています。ここで取り扱われているのは、ケンペル、モンタヌス、カロン 、イエズス会士報告、リンスホーテンといった、シーボルトよりもかなり古い時代に刊行された日本論として古典的地位にあった書物に加え、同時代の優れた論考にも言及しています。論文中では、ツンベルク、1821年に創設されたパリ地理学会の創設会員の一人でもあった当時を代表するフランスの地理学者マルタ=ブラン(Conrad Malte-Brun, 1775 - 1826) 、フランス・アジア協会(La Société Asiatique)の中心人物の一人であったランドレス(Ernest Clerc de Landresse, 1800 - 1862)、同じく19世紀フランス東洋学者を代表するクラプロート(Julius Heinrich Klaproth, 1783 - 1835)、後年、近代地理学の名著とされる『コスモス(Kosmos, 1845-1862))』の著者となるアレキサンダー・フォン・フンボルト(Friedrich Heinrich Alexander Humboldt, 1769 - 1859)、東洋思想研究の大家でもあった文学者アウグスト・ヴィルヘルム・シュレーゲル(Augst Wilhelm von Schlegel, 1767 - 1845)といった錚々たる東洋研究に関する著作を残したシーボルトと同時代の知識人によって論じられた、日本の人々の起源をめぐる論説(あるいはそれに間接的に関連する論説)が取り上げられています。本書刊行当時は、19世紀に入ってパリを中心として東洋研究が盛んになり、また比較言語学研究が提唱されるようになった時代にあたっており、シーボルトはこうした同時代の最新文献を様々に論じながら自説を展開しています。

 シーボルトは、こうした様々な諸説を分類すると、下記の4つの説に大別できると言います(カッコ内のページ数は該当箇所)。

A:日本の人々は中国の人々の子孫である。(205頁〜)
B:日本の人々はいわゆる韃靼民族の子孫である。(238頁〜)
C:日本の人々はアジアの異なる地域の複数の民族が混じり合った人々の子孫である。(271頁〜)
D:日本の人々はその土地に固有の土着民である。

 このようにこれまでヨーロッパで主張されてきた諸説を整理した上で、シーボルト自身のそれぞれの説に対する考察が展開されています。ただし、シーボルトはDの説には懐疑的であったようで、主にAからCの説を中心に取り上げています。シーボルトはそれぞれの説を検討する上での参照軸として、神話と宗教ならびにそれらを伝承する書物の存在、外見上の特徴、文化、言語、地理的関係を重視しているようです。神話と言語研究には特に力を入れているようで、日本の宗教(仏教、神道)が、近隣諸国、特に中国からどのような影響を受けて成立してきたのを日本の各宗教と関連する神話や仏教諸派の解説をしながら考察しているほか、日本のアルファベットである平仮名(Hira-kana)と片仮名(Kata-kana)がいつ、どのようにして成立したのかについての考察をもとに展開しています。

 シーボルトの日本の神話研究は、彼の日本滞在時における弟子の一人であった美馬順三に提出させたオランダ語論文を主要情報源としていることが知られていますが、本論文での『日本書紀』の記述の紹介や分析も、こうした情報源に基づくものであると思われます。本論文が刊行された1832年は、前述したようにシーボルトの主著となる『日本』の分冊刊行が開始された年でもあり、この第1分冊には、日本の神話についての考察が掲載されていますので、本論文で展開されている日本の神話論は、『日本』第一分冊の神話論とある程度リンクする内容であると考えられますが、正確には両者の比較対照が必要でしょう。(シーボルトの神話研究について論じた近年の研究では、山田仁「シーボルトと19世紀の日本神話研究」人間文化研究機構『シーボルトが紹介したかった日本』2015年所収 が、これまでの研究成果も含めコンパクトに論じられていて大変参考になります。)

 本論文では、シーボルトは神話研究と並んで、特に日本語と近隣地域の言語との比較考察を重視しているようで、末尾には各国地域の言語を品詞ごとに分類した折込図版と、同じ意味の単語がそれぞれでどのように異なるか(あるいは似ているか)を示した折込図版が収録されています。この日本語と近隣アジア地域の言語との比較考察については、すでに1940年に吉町義雄が「欧人刊行日本言葉集覚書(下)」(日本言語学会『言語研究』第7-8巻所収)の中で次のように紹介しています。

「Franz Philipp Siebold は Verhandelingen van het Bataviaasch Genootschap der Kunsten en Wetenschappen. Batavia. 8°. XIII Deel 1832 へ Verhandeling over de Afkomst der Japanners; Een bijdrage tot de kennis van landen en volken in Azie (pp.182-275)を発表したが、此の蘭語論文末に本文15倍大の語彙対照表が2枚畳み込まれてある。第1枚は横に単語及び各品詞別の7欄、縦に日本、満州韃靼、蝦夷、朝鮮と5欄に分け、最左欄は蘭語文、他はローマ字綴各国語文をラテン対訳にしたものを配置してあり、下欄外には各語彙の出所を註してある(日本語は、Epitome linguae Japonicae(『バタヴィア学芸協会論叢』第11号、1826年に掲載されたシーボルト自身の日本語論のこと:引用者注) から、満州語は北京在住宣教師の文典から、蝦夷語は江戸在住最上徳内から、朝鮮語は対馬候役人及び朝鮮漂流民から採取した事が解る。)。第2枚は和蘭、支那(支那音と日本音)、朝鮮、満州及山丹、樺太及蝦夷、日本、琉球の7欄(細分は14欄)にローマ字書「日」「月」「星」等物類順(最後は数詞)各語彙を対照したものが左右2通あり、対照基準蘭語は92箇算数へられる。」(同論文33頁)

 ここで言及されているように、シーボルトは蝦夷のアイヌ語彙を最上徳内(MOHAMAI TOKNAI)から得たことを明記しています。最上徳内は、シーボルトにとって蝦夷地に関する主要な情報源の一人であったことや、本書と同年に配本が始まった彼の代表作『日本』において彼の肖像画を掲載していることがよく知られていますが、本論文において既に彼の名前を挙げていることは特筆すべきことでしょう。

 本論文は、『バタヴィア学芸協会論叢』というオランダ語雑誌に収録された論文であったため、シーボルトの大著『日本』と比べてあまり注目されることがなく、早くからその存在が知られている一方で、内容について本格的に論じた研究がまだないように見受けられます。しかしながら、1832年というシーボルトの作品としては初期にあたる時期に発表された日本神話論、言語論として非常に重要な論文であると同時に、当時のヨーロッパで盛んになりつつあった東洋学研究の成果を踏まえて著されていることから、同時代の日本研究の様相を伝える論文としても貴重な作品ではないかと思われます。

 なお、本論文が掲載された『バタヴィア学芸協会論争』第12号は、渡辺華山の旧蔵書にも含まれていたことがわかっています。

タイトルページ。雑誌に収録されているそれぞれの論文にタイトルページが設けられている(ページ付は通番)。
本文冒頭箇所。副題に「アジアの国々と人々に関する知識に対する寄与」とある。
本文下部には脚注が設けられていて、シーボルトが参照した論文や著作、関連情報がこまめに言及されている。
シーボルトはこれまで日本の人々の起源についてヨーロッパで発表されてきた様々な説をAからDの4つに分類している。
論文末には、日本語と近隣地域の多言語とを比較対照した巨大な折込図が2枚収録されている。「第1枚は横に単語及び各品詞別の7欄、縦に日本、満州韃靼、蝦夷、朝鮮と5欄に分け、最左欄は蘭語文、他はローマ字綴各国語文をラテン対訳にしたものを配置してあり、下欄外には各語彙の出所を註してある(日本語は、Epitome linguae Japonicae(『バタヴィア学芸協会論叢』第11号、1826年に掲載されたシーボルト自身の日本語論のこと:引用者注) から、満州語は北京在住宣教師の文典から、蝦夷語は江戸在住最上徳内から、朝鮮語は対馬候役人及び朝鮮漂流民から採取した事が解る。)。」(吉町義雄「欧人刊行日本言葉集覚書(下)」(日本言語学会『言語研究』第7-8巻所収より)
「第2枚は和蘭、支那(支那音と日本音)、朝鮮、満州及山丹、樺太及蝦夷、日本、琉球の7欄(細分は14欄)にローマ字書「日」「月」「星」等物類順(最後は数詞)各語彙を対照したものが左右2通あり、対照基準蘭語は92箇算数へられる。」(吉町義雄「欧人刊行日本言葉集覚書(下)」(日本言語学会『言語研究』第7-8巻所収より)
雑誌から抜き取られた未製本の状態で、一部の紙葉や巻末の折り込み図版が綴じ紐から外れている。