書籍目録

『平和国家に対する1856年の日本の開国:刊行物、ならびに未刊行物による(記述)』

ドーレン

『平和国家に対する1856年の日本の開国:刊行物、ならびに未刊行物による(記述)』

アーネスト・サトウ旧蔵本 / ロンドン日本協会旧蔵本 1861年 アムステルダム刊

Doren, J(an). B(aptist). J(ozef). Van.

DE OPENSTELLING VAN JAPAN VOOR DE VREEDE NATIÉN IN 1856. VOLGENS ZOOWEL UITGEGEVENE, ALS NIET UITGEGEVENE BRONNEN.

Amsterdam, J. D. Sybrandi, 1861. <AB2022155>

Sold

Exlibris Ernest Mason Satow (YEDO) / The Japan Society of London.

8vo (13.5 cm x 23.3 cm), Half Title., Front., Title., 3 leaves, pp.[1], 2-370, Contemporary three quarter leather on marble boards.
[Cordier: 555 / NCID: BA43955508 / NDLID: 000006488109]

Information

日本開国に至るオランダの貢献と目下の課題について独自の視点と資料に基づいて考察

 本書は、日本の開国に至る経緯におけるオランダの様々な功績についての記述を中心に、列強諸国と日本との通商条約とその運用をはじめとした諸問題について論じた書物です。1861年にアムステルダムで刊行された作品で、長年蘭領東インド行政・軍事に携わった経験を持つ著者が、多くの未刊行資料を用いながら、独自の視点で論じた内容であることが特徴的な作品です。

 著者のドーレン(Jan Baptist Jozef van Doren, 1791 - 1873)については、彼が受けた教育や家系についての記録は残っていないようですが、1808年に軍人としてのキャリアをスタートさせ、ナポレオン戦争などで軍功を挙げたことが知られています。その後、植民地軍配属を希望して1821年に蘭領東インドに渡り、以後一時的な休職を挟みながらも1839年に帰国するまで、オランダの東インド行政、軍事の要職を歴任しました。1845年に軍人としてのキャリアを終えてからは著述業に専念し、主に蘭領東インドに関する書物を30作品以上執筆しています。なかでも1851年に出版した『蘭領東インド紀行(Reis naar Nederlands Oost-Indié, of Land-en zeetogten gedurende de twee eerste jaren mijns verblijfs op Java, 2 vols, The Hague, 1851)』は、彼の長期間にわたる蘭領東インド行政に関わった経験をもとに、同地の文化や風習、植生など含めた総合的な蘭領東インド研究書としてよく読まれました。

 本書は著者ドーレンの著作の中でも比較的遅い時期にあたる1861年に出版された著作ですが、主に蘭領東インドを主題としていた著者の作品の中でも、日本を主題に据えた珍しい作品と言えます。冒頭には元蘭領東インド総督で、前首相でもあったロフッセン(Jan Jacob Rochussen, 1797 - 1871)への献辞文が掲載されており、本書がある程度、公的な性格を帯びた作品であることを示唆しています。ロフッセンは蘭領東インド総督時代に現地の言語や学術調査についても強い関心を示していたことが知られていて、ドーレンも彼の下で多くの調査を行っていたものと思われます。本書刊行からやや後年の1868年に出版された、シーボルトの弟子で当時のオランダのみならず、ヨーロッパを代表する東洋学者であったホフマン(Johann Joseph Hoffmann, 1805 - 1878)による日本語文法書『日本文典(A Japanese grammar / Japansche spraakleer. Leiden, 1868.)』もロフッセンに捧げられていることから、1840年代から50年代にかけて、ロフッセンを中心とした、日本をも含めた蘭領東インドの様々な地域研究、調査が盛んに行われていたことが推察されます。

 本書は全18章、370頁から成る書物で、16世紀以降の日本と西洋諸国との交流史を簡単に振り返りながら、主に19世紀以降の日本開国に向けた各国の試みとペリーによる開国に至る経緯、そしてそれ以降の(執筆当時の)現代的な諸課題について論じています。ドーレンは本書の執筆に際して、蘭領東インド行政に長らく携わったキャリアと立場を活かして、未刊行公文書や通信書簡を活用したものと思われ、タイトルにも未公刊資料を用いた旨が記されています。
 
 本書冒頭に掲載された口絵は、日本との通商関係構築を目指して1804年に長崎に来航したレザーノフ(Nikolai Petrovich Rezanov, 1764-1807)らの使節の長崎上陸場面を描いた図で、この図は本書オリジナルのものではなく、使節に随行したラングスドルフ(Georg Heinrich von Langsdorff, 1774-1852)が1812年に刊行した書物に収録された図版を転用したものと思われます。口絵の向かいにタイトルページがあり、献辞文、序文と続いてから、目次が掲載されており、本書が次のような構成をとっていることがわかります。

1. ヨーロッパ人の日本への最初の到着(1頁〜)
2. これらの地域へのオランダ人の到着と業績(7頁〜)
3. 長崎沖のロシアのフリゲート艦(の到着、クルーゼンシュテルンとレザノフによる対日交渉とその失敗のことを指す)(12頁〜)
4. 無謀な十字軍の遠征とその帰結(ゴロウニンの捕縛とリコルドの交渉、オランダの仲介のことを指す)(18頁〜)
5. あらゆる国々へと日本を開国するためのオランダ政府による最初の一歩(1844年のウィレム2世による開国勧告のことを指す)(22頁〜)
6. アメリカ人、ロシア人、フランス人、イギリス人による日本への無条件入国の試み(26頁〜)
7. アメリカ人による最初の武装した日本への遠征隊(33頁〜)
8. アメリカ人の帰還と彼らの努力がもたらした効果(45頁〜)
9. コモドール・ペリーの更なる活動(75頁〜)
10. アメリカ以外の列強諸国と締結された更なる法と条約(98頁〜)
11. オランダ政府による、日本帝国との一般貿易条約を得るための活動(いわゆる日蘭追加条約締結に関する交渉活動を主に指す)(111頁〜)
12. 江戸の宮廷における現代の諸儀式、ならびに古来におけるそれらについて(208頁〜)
13. 日本の地理的条件について(224頁〜)
14. 日本の人々の起源について(神道、仏教等の宗教文化史を中心とした歴史の記述を含む)(231頁〜)
15. 日本の産品と産業について(263頁〜)
16. 諸外国との貿易、輸送とその進展(287頁〜)
17. 日本政府の振る舞いと列強諸国との合意の不履行について(300頁〜)
18. ドルの両替と、それがいかにして承認された外国商人による搾取に用いられ、日本の国庫に損害がもたらされたかについて(323頁〜)
19. 貨幣制度がもたらすより錯綜した状況と、列強諸国の承認に反対する保守的な貴族集団による復讐の増加について(339頁〜370頁)

 全体の構成を見てわかるように、本書は当時よく出版された一般的な日本の概論書とは異なって、主に日本の開国に至る経緯とその後の展開について焦点を当てて執筆されていることが大きな特徴と言えます。前半約3分の1にあたる第1章から第10章までは、西洋諸国と日本との交流の始まりからペリーによる開国までの歴史の概観となっています。

 本書の中でもやや特異な位置を占めているのが第11章で、この章だけで約100頁を占めており、著者ドーレンがこの章の記述を本書の中心に据えていることがうかがえます。第11章は、1856年に日本とオランダとの間で締結された和新条約を発展させる形で通商条約として1857年に締結されたいわゆる日蘭追加条約と呼ばれる条約の締結とその経緯、内容、翌1858年に日米修好通商条約に基づいて新たに締結された日蘭周航通商条約について詳細に論じたものです。この日蘭追加条約をめぐっては、その交渉過程の草案があたかも既に締結された条約であるかのようにオランダ側によって広く他の西洋諸国に伝えられ、また実際に締結された内容は、大きな制限を伴う限定的な通商条約であったにも関わらず、あたかも自由貿易をオランダのみならず他の諸国にも開かれることを保証した条約であるかのように喧伝され、そうしたオランダ発の情報に基づいて、ポルトガルやプロイセン、スイス等が日本との通商条約交渉を求める事態を引き起こしたということが指摘されています(日蘭追加条約については、福岡万里子『プロイセン東アジア遠征と幕末外交』東京大学出版会、2013年、第2章「幕末開国紙と日蘭追加条約」を参照)。日蘭追加条約が日本の実質的な開国に大きな貢献をなしたものであるかのようにオランダ側が喧伝した背景には、かねてから日本と唯一の貿易関係を有していた西洋国であるオランダが、その立場を独占しようとしたのではなく、むしろ無私の立場から、日本と他の西洋諸国の通商関係樹立に尽力したことを立証するための大きな証拠の一つとして日蘭追加条約を用いようとしたことが指摘されており、本書において、日蘭追加条約を扱う第11章が他の章と比べて例外的な分量の紙幅を割いて記されていることは、こうしたことが背景にあるのではないかと思われます。第11章には日蘭追加条約の全文と、その解釈を巡って問題を引き起こしたと指摘されている添付書類が転載されていて、これらについてドーレンがどのような論述を展開しているかを読み解くことは大変興味深いことと思われます。また、この日蘭追加条約の締結と喧伝に際して中心的な役割を担った駐日オランダ領事館クルチウス(Jan Hendrik Donker Curtius, 1813 - 1879)の離日後の1861年に本書が刊行されていることも興味深い点と言えるでしょう。

 第12章は、日本の外交儀礼やしきたりについて論じたもので、フィッセル(Johan Frederik van Overmeer Fisscher, 1800 - 1848)をはじめとする比較的近年のオランダ商館関係者による江戸参府の際の記述を用いた歴史的記述と、幕末期の外交儀礼の変遷を論じた記述からなっているようです。この章では、キリスト教の扱いをめぐる交渉なども論じられています。

 第13章と第14章は、日本の地理や歴史、宗教事情を扱った、本書の中でもいわゆる日本の概論的説明にあたる記述が中心ですが、16世紀以降、西洋諸国の日本論の中で繰り返し論じられてきた、日本の人々の起源をめぐる問題について、神道や仏教といった宗教文化とその歴史を中心に添えながら論じるなど、かなりアカデミックな記述のように見受けられます。著者ドーレンは、保守的なカソリック教徒として、反リベラル、反プロテスタントの論陣を張っていたことでも知られていますので、彼自身の宗教的関心がこうした記述に反映されているのかもしれません。

 第15章以降は、本書刊行当時に日本との通商を進める際に生じていた様々な現代的な課題や、貿易産品、輸送、通貨制度(金銀の交換比率の相違に端を発する日本から欧米通商国への金流出問題)に関する問題を論じた内容となっています。これらの章では、かなり具体的な数字を列挙しながら論じている箇所もあり、概論的、学術的というよりも、より実践的な記述となるよう意図されているように見受けられます。

 本書は、ドーレンの数ある蘭領東インドに関する著作の中でも、日本を主題に据えたやや特異な作品ですが、元々蘭領東インド行政と軍事に長年携わった著者による作品であることや、前首相ロフッセンに献呈されていることに鑑みても、幕末の日蘭交渉に関する作品として興味深い書物と言えるでしょう。ただ、本書の発行部数はそれほど多くなかったのか、現在では古書市場に流通することが滅多になく、また国内でも国会図書館、京都大学附属図書館、天理大学図書館、国際日本文化研究センター等の限られた所蔵しか確認できないようです。