書籍目録

『イエズス会による日本、中国、ゴア、エチオピア各地についての1615, 16, 17, 18, 19年報告集』

イエズス会 / (大坂の陣)

『イエズス会による日本、中国、ゴア、エチオピア各地についての1615, 16, 17, 18, 19年報告集』

1621年 ナポリ刊

Della Pozze, Lorenzo (tr.).

LETTERE ANNUE DEL GIAPPONE CHINA, GOA, ET ETHIOPIA. Scritte. AL M.R.P. GENERALE Della Compagnia di Giesù. Da Padri dell’istessa Compagnia ne gli anni 1615. 1616. 1617. 1618. 1619….

Napoli(Naples), Lazaro Scoriggio, M.DC.XXI.(1621). <AB2022127>

Sold

8vo (9.0 cm x 14.7 cm), pp.[1(Title.), 2], 3-404, 2 leaves(errata), Contemporary or slightly later vellum binding.
刊行当時か、やや後年のものと思われるヴェラム装丁で状態は非常に良好。小口は三方とも朱色に染められている。[Laures: JL-1621-KB1-346-225] [NCID: BA60475167 / BB18027303]

Information

イエズス会によって詳報された「大坂の陣」、第一級の同時代記録

 本書は、1615年から1619年までの日本を中心として、中国、ゴア、エチオピアにおけるイエズス会の活動を報告した年報を収録した作品です。本書が特に重要な作品であるのは、徳川家が豊臣家を最終的に滅ぼすことになった大事件である大阪の陣とその前後の状況、またその前後も含めた混乱する日本各地の状況を詳細に報じた年報が収録されていることです。この報告は、大阪の陣を当時日本に滞在していたイエズス会の視点から報じたもので、同事件に関する最重要史料の一つに数えられる非常に貴重な記録です。

 本書の冒頭に掲載されていて本書の中心的内容となっているこの年報は、1616年12月13日付のマカオ発書簡で、イエズス会日本管区長の代理として Gio Vremán なる人物が認めたものです。この人物についての詳細はわかっていませんが、家康による禁教政策が次第に厳しくなる中で、国外退去を装いながらも日本各地に潜伏して活動していたさまざまなイエズス会士からの報告を盛り込んで、1614年後半から1616年中に生じた出来事を詳細に報告しています。

 イエズス会の年報は、ヴァリニャーノによってその形式が定められてから、当該年の政治、社会情勢一般の概略、布教地域ごとの状況と活動報告が整然とまとめられて執筆されるようになりました。禁教政策の激化によって毎年の年報を日本から安定的に送付することは次第に困難になっていきましたが、この年報は2年ほどの期間をまとめつつも、概ねヴァリニャーノによって定められた形式に則って執筆されています。冒頭では前回の報告において、内府(家康)による禁教政策が、いかに激しくなってきているかについての報告が中心であったことを振り返り、この年報では、その後に生じた大事件、すなわち冬の陣、夏の陣の2度にわたる大阪の陣について詳しく報告しています。

 ここでは、関ヶ原の戦いで勝利を収めて以降、豊臣家の権力を収奪し、自身の権力基盤を脆弱にしつつあった家康が、なお最大の脅威である豊臣秀頼とその支持者たちによる反乱を恐れ、全国に密偵を配して彼らの情報を集め、策を練ってきていたことから説明がなされています。家康による豊臣方の懐柔政策に屈した人物として「市正(Ichinocamo、いちのかも)」こと片桐且元の名が挙げられており、彼の裏切りによって豊臣側が次第に窮地に陥ることになったとして批判的に論じられています。また大阪の陣の契機になったとされている「方広寺鐘銘事件」についても言及しています。冬の陣に至るまでのこうした歴史的経緯と戦闘の推移、和平交渉の進展とその内容、またその後に徳川方が大阪城の堀の埋め立てを進めたことなど、事件前後の事情が非常に詳しく記されており、基本的には豊臣方の側に立ちつつも、イエズス会がこの事件のついての詳細をかなり把握していたことがうかがえる記述となっています。

 また、その後すぐに勃発することになる夏の陣についても、冬の陣後の経緯、徳川方、豊臣方双方の開戦準備、戦闘が勃発することになった事件、戦闘の推移と劇的な展開について、まるでその場に居合わせていたかのような臨場感を持って記されており、当時数人の神父をはじめとした関係者が大阪城下にあったイエズス会が独自の情報ネットワークを駆使してこの報告書を作成し、当時の様子を詳しくローマに報じていたことがわかります。この報告書におけるイエズス会の立場は、基本的には豊臣方に軸足を置きつつも、事件の記述を終えるにあたっては、もし仮に秀頼の権力がより盤石なものであったとしても、彼がキリシタンに対して弾圧を加えなかったかどうかは確かではないとして、彼が仏教やその他の偶像崇拝に熱心さを示し、キリシタンの教えに帰依しなかったことがこの事件の悲劇を招くことになったと結論づけています。この結論の是非はさておき、ここに見られる大坂の陣についての詳しい記録は、ある程度内部事情に精通していたイエズス会による同時代報告として、大変興味深い内容となっていることは間違いないでしょう。

 この年報ではこうした大阪の陣の前後に激しく動揺する日本各地の様子も併せて報告されており、布教状況の報告という視点の制約があるとはいえ、当時の日本社会の様子を知ることができる重要な史料となっています。京(Meaco)、堺(Saai)、伏見(Fuscimi)、大坂(Ozaca)、津国(Tsunocuni)、丹波(Tamba)、美濃(Mino)、尾張(Voari)、伊賀(Iga)、越前(Uechigen)、加賀(Canga)、能登(Noto)などを管轄する「上(Cami)」、江戸(Iedo)を中心として津軽(Tsagaru)までの東日本を管轄する「関東(Quantò)」、広島(Firoscima)、備前(Bigen)、美作(Mimazaca)、播磨(Farima)、讃岐(Lanuchi)、安芸(Achi)、周防(Suuò)、長門(Hagato)、伊予(Igiò)などの中国、四国を管轄する「中国(Cungocù)」、高来(Tacacù)、有馬(Arima)、上津浦(Conzuna)、天草(Amacusa)諸島、肥後(Figo)などを管轄する「豊後(Bungo)、豊前(Bugen)」、肥前(Figen)を含む「筑後(Cicungo)、筑前(Cicugen)」、そして「長崎(Nangasachi)」という潜伏した司祭や修道士が配置されている地域ごとの報告が盛り込まれており、当時の禁教政策が激化する中にあっても、イエズス会がこの時点ではまだ情報ネットワークをそれなりに構築、機能させていたことが伺えます。これらの各地の報告は、キリシタン弾圧の激化に伴い生じた殉教事件をはじめとしたイエズス会関係者や信徒たちの模範的な姿を報告することに主眼が置かれつつも、大混乱に陥った大坂においてかろうじて生き延びることができたイエズス会神父の生々しい報告(pp.66-)といった当時の混乱する社会情勢を報告した記述も散りばめられており、非常に興味深い内容となっています。また、コンフラリアと呼ばれる日本の信徒による信徒会の活動についても紹介されていて、宣教師がかつてのように表立って活動することが困難になっていくにつれて、民衆の自治組織が主体となって信仰活動を継続させていこうとしていく様子も捉えられています。さらにこうした日本各地の報告に続いて、すでに日本を追放されていた高山右近らがマニラにおいて受けた大歓迎やその没後の葬儀の様子なども報告されている(pp.91-)のも興味深いところです。

 本書後半(pp.277-)には、1618年の年報も収録されており、先の年報の続編として1617年、1618年の出来事を報じる内容となっています。この年報では、大坂の陣の後に家康が没したことや、秀忠によって彼が神格化される形で葬られたこと、京都における内裏への訪問、そして秀忠による禁教政策の続行といった日本社会の状況の概略とそこで生じた布教活動上のさまざまな出来事が報じられています。また、この年報にはさらに補遺の形で続報が付されており(pp.356.- / pp.364-)、これらを合わせると、この書物の大部分が日本関係年報によって占められていることがわかります。

 なお、この作品は、しばらく途絶えてしまっていた「日本年報」の当時の最新巻として広く読まれたようで、ナポリで刊行された本書だけでなく、ミラノ版(Laures: JL-1621-KB2-347-225a)も本書刊行と同年の1621年に刊行されており、邦訳版(松田毅一監訳『十六・七世紀 イエズス会日本報告集 第II期 第2巻』同朋舎出版、1996年)は、このミラノ版を底本としています。本書であるナポリ版、またミラノ版のいずれであっても、現在の古書市場においては滅多に出現することがない稀覯作品となっており、内容を完備しており非常に良好な状態で継承されてきた本書は特に貴重な一冊ということができるでしょう。

刊行当時か、やや後年のものと思われるヴェラム装丁で状態は非常に良好。
タイトルページ。 本書巻には中国、ゴア、エチオピアの宣教報告(年報)も収録されているが、日本年報が最も多くの分量を占めている。
本書の冒頭に掲載されていて本書の中心的内容となっているこの年報は、1616年12月13日付のマカオ発書簡で、イエズス会日本管区長の代理として Gio Vremán なる人物が認めたもの。ここでは、関ヶ原の戦いで勝利を収めて以降、豊臣家の権力を収奪し、自身の権力基盤を脆弱にしつつあった家康が、なお最大の脅威である豊臣秀頼とその支持者たちによる反乱を恐れ、全国に密偵を配して彼らの情報を集め、策を練ってきていたことから説明がなされている。
家康(Daifu、内府)が、秀忠(Shogun、将軍)が派遣した江戸からの援軍と共に20万人もの兵を率いて1615年12月4日に大坂城近くに到着した場面を記した箇所。
1615年2月17日に豊臣方との和平協定が成立したことを記した箇所。大坂城の城壁取り壊しが定められたことも記されている。
夏の陣における激しい戦闘の場面を記した箇所。真田幸村(Sanada)の奮迅もむなしく豊臣方が敗退していく様子が非常に詳細に綴られている。
家康(内府)がこの戦において勝利を収め、日本全国の権力を手中に収め京都(Meaco)に凱旋したことを記した箇所。
この年報ではこうした大阪の陣の前後に激しく動揺する日本各地の様子も併せて報告されており、布教状況の報告という視点の制約があるとはいえ、当時の日本社会の様子を知ることができる重要な史料となっている。
「日本におけるイエズス会の現状」
「長崎のキリシタンについて」
「高来、有馬のキリシタンについて」
「肥後国と天草島のキリシタンについて」
「キリストのために浄福なる死を迎えた肥後国のパウロ八十大夫について」
「筑後、筑前国のキリシタンについて」
「豊後、豊前国のキリシタンについて」
「豊前国のロマン八十右衛門の浄福なる死について」
「上、あるいは五畿内のキリシタンについて」
同書簡末尾。
1618年の日本年報冒頭箇所。先の大坂の陣における内府の勝利とその翌年に彼が亡くなった後の状況が詳細に述べられている。冒頭では日光に家康が葬られ神格化されたことも詳述されている。1616年9月に将軍(秀忠)によって諸大名に対していかなる領国にも家臣にもキリシタンの存在を認めないという厳しい禁教令が出されたことによる日本各地におけるキリシタンが置かれた困難な状況が記されている。
日本全体の概況に続いて各地の様子がさらに詳述されている。上掲は「長崎のキリシタンについて」。
「五島のキリシタンについて」
「大村のキリシタンについて」
「有馬と肥後国のキリシタンについて」
「筑前と筑後国のキリシタンについて」
「ジョヴァンニ明石次郎兵衛の殉教について」
「豊後国のキリシタンについて」
「中国地方諸国のキリシタンについて」
「上、あるいは五畿内のキリシタンについて」
「津軽における宣教について」
「奥州のキリシタンについて」
「江戸市中における4人の殉教者について」
同書簡末尾。
上掲書簡の補遺として収録されている書簡。日本各地の厳しいキリシタン迫害の様子が綴られている。
さらなる補遺として「日本各地からマニラに送付された数多くの書簡から集められた1618年に日本国内で生じた出来事についての報告」と題した記事が掲載されている。同年に観測された二つの彗星についての報告で、この彗星が日本のキリシタンが置かれている厳しい状況が好転する予兆ではないかとされている。
本文末尾。
末尾には正誤票が掲載されている。
小口は三方とも朱色に染められている。