書籍目録

『孝経:親孝行の聖典』

ロニー(訳・解説) / 孔子

『孝経:親孝行の聖典』

初版 1889年 パリ刊

Rosny, Léon de / Confucius.

孝経:LE HIAO-KING. LIVRE SACRÉ DE LA PIÉTÉ FILIALE: PUBLIÉ EN CHINOIS AVEC UNE TRADUCTION FRANÇAISE ET UN COMMENTAIRE PERPÉTUEL EMPRUNTÉ AUX SOURCES ORIGINALES.

Paris, Maisonneuve et Ch. Leclrerc, 1889. <AB202249>

Sold

First edition.

8vo (14.0 cm x 22.3 cm), Original front cover, pp.[1(Half TItle.)-3(Title.)-7], 8-68, pp.[1-3], 4-176, Modern grey cloth bound with an original front cover.
[NICD: BA37494524]

Information

 本書は19世紀後半のフランスを代表する東洋学者ロニー(Léon de Rosny, 1837 - 1914)による中国の経書『孝経』のフランス語訳、ならびに解説で、同書のフランス語での本格的な紹介として画期的な一歩を記した作品です。日本学研究者としての側面が強調されがちなロニーは、もともと中国語と中国学に強い関心を持って自身の研究を始めており、ロニーにとって中国学は日本学と並んで(あるいはそれを凌駕して)終生取り組み続けたことが知られています。本書は、そうした彼の中国研究のまとまった成果の一つで、特にフランスでは早くから関心の高かったことで知られる孔子の本格的な研究、翻訳書として世に問うたロニーの意気込みが感じられる作品です。論文投稿などの形で短編を中心に研究成果を残したことで知られるロニーとしては珍しく、本書は200ページを超える単行本として発表されていることからも彼の主著の一つと目されるべき作品と言えるでしょう。

 本書は、冒頭から68ページに至るまでのロニーによる『孝経』の解説、100ページ余りのフランス語訳、その注釈と補遺、索引で構成されています。冒頭の長大な解説では、『孝経』で説かれている孔子の「孝行」の教えは、中国の哲学として非常に重要なもので、(キリスト教圏である)西洋社会のそれとは全く異なる思想で紡がれていることや、こうした哲学にはもちろん(西洋社会から見て)不十分な点、劣っている点がかず多く見られるものの、かえって参照すべきことも数多いことを述べ、本書がフランス語に翻訳されることの意義を様々に強調しています。本文の翻訳では、今文と古文とで構成が若干異なることにも言及しながら、冒頭に原文テキストを漢字活字を用いて掲載し、その下部にローマ字読みを併記し、その上で本文のフランス語訳を掲載しています。また、この翻訳文の部に続いて、各章に対するロニーの注釈が展開されていて、ここではロニーが自身の博学を駆使して読者にテキスト読解のために必要な知識を提供しています。また、注釈の補遺では、『孝経』の日本語訳までもがローマ字読みで掲載されており、まさに日本と中国学を縦横無尽に手がけたロニーならではの充実ぶりとなっています。巻末には漢字索引も掲載されていて、翻訳書としてはかなり完成度の高い作品となっていることがうかがえます。

 本書は、フランス語、あるいはヨーロッパにおける『孝経』の本格的な紹介として、画期的な作品となったものと考えられますが、ロニー自身もこの作品に強い思い入れがあったものと思われ、1893年に本書の再版として『孔子の道徳』(La morale de Confucius.)と題した作品を単行本で発表しています。


「レオン・ド・ロニー(レオン・ルイ・リュシャン・プリュノル・ド・ロニー、Léon-Louis=Lucien Prunel de Rosny, 1837-1914)は、フランス・東洋言語特別学校(東洋語学校、École spéciale des langues orientales)で1863年から1907年まで日本語を教え(1868年から日本語講座開設初代教授)、日本語・日本学の研究、また中国語・中国語学の研究などで知られる19世紀後半の東洋学者である。
 ロニーは、北フランスのロース(Loos)に生まれ、はじめ植物学を学ぶも、のち東洋語学校に入学し、スタニスラス・ジュリアン(Stanislas Julien, 1797-1873)とその弟子アントワヌ・バザン(アントワーヌ=ピエール=ルイ・バザン, Antoine-Pierre-Louis Bazin, 1799-1863)から中国語を学び、のちジュリアンに日本語の研究を勧められ、独学で日本語を学んだ。1863年には東洋語学校で初代講師として日本語の講義を担当し、1907年の退職まで長きにわたり日本語を教え、日本語関係はじめ多くの論文、著作を残した。
 その間にも1862年に文久遣欧使節がフランスを訪問した際にはその通訳を務め、1867年に開催されたパリ万国博覧会では科学委員となり、1873年には第1回国際東洋学者会議を開催するなど、日本学者として多方面にわたり国際的に活躍した。
 一方、1880年第末からは宗教文化に関心を持ち、仏教やそれに基づき自身で築き上げた哲学体系を普及しようと、1892年に「折衷仏教学派」という組織を立ち上げ、1894年には著作『折衷仏教(Le Bouddhisme eclectique)』を発表している。」
(清水信子「レオン・ド・ロニー旧蔵漢籍とその周辺」町編前掲書所収論文、134ページより)