書籍目録

『日本:江戸湾(本州南岸):英国海軍海図第2657号より』(海図)

フランス水路部 / マナン

『日本:江戸湾(本州南岸):英国海軍海図第2657号より』(海図)

第3078号、1879年改訂版 1879年 [パリ刊]

Depòt des Cartes et Plans de la Marine / Manen, L.

JAPON: GOLFE DE YEDO (CÒTE SUD DU NIPON) d'après la Carte de l'Admirautè Anglaise No.2657.

[Paris], 1879. <AB202206>

Sold

No.3078.

70.7 cm x 103.0 cm, 1 large nautical chart, folded & rolled.

Information

画期的な海図とされる英国製海図 Gulf of Yedo をベースに、江戸城と江戸湾を描いた大変珍しいフランス水路部よる海図

 本図は、フランス海軍によって1879年にパリで刊行された、江戸(東京)湾と江戸城(皇居)をはじめとした沿岸部を描いた海図です。この海図の原図となったのは、1862年にイギリス海軍によって刊行された江戸湾図(Gulf of Yeddo、通称第2657号海図)で、この海図は、江戸湾の水路情報をかつてなく詳細に盛り込み、また当時の江戸城の内部構造にまで踏み込んで記載したという、画期的な江戸湾海図として知られています。19世紀半ばから海図情報は測量を行った一国内で秘匿されるのではなく、列強諸国間で共有されることになっていたため、この画期的な2657号海図に基づいて各国語版の海図がさらに多数製作されることになり、また細かに情報を更新しながら長く刊行され続けました。本図もそうした海図の一つに数えられるもので、直接には1872年に大きく改訂が施された版に細かな改定を加えて1879年に刊行されています。とはいえ、江戸城(皇居)中枢の記載を見てみますと、「大君の城(Palais du Taicoun)」と記されており、航海に直接影響を及ぼさないこうした記述は1862年の英国製海図初版のまま引き継がれていたことに気付かされます。結果的には、本図は1879年の改訂水路情報が盛り込まれつつ、1862年当時のイギリス海軍による江戸城近辺の記述を忠実に(フランス語に翻訳しつつ)残している海図となっており、現代の視点から見ると非常に興味深い海図となっています。


「尊王攘夷運動の高まりに対し、1862年12月、英国本国政府は日本の外交方針(奉勅攘夷、条約破棄)を転換させるため、軍事行動をも辞さない姿勢を取り始めた。このような状況に呼応して、海路のみならず、当時の日本中枢部である江戸城−江戸と江戸湾を、これまでにない深度で描いた英国版海図が、同年12月刊行された。Gulf of Yedo である。
 Gulf of Yedo は、それ以前に刊行された米国版海図 Bay of Yedo、英国版海図 Yedo Bay and Harbour(1859年ロンドンにて印刷・販売)に比べると、次の二つの点で格段に進化した情報を登載していた。
 第一に、ペリー遠征記録(遠征記録が出版される以前の1854年に、英国は同記録を入手していた)のみならず、1858〜1861年の米・プロイセン・英・蘭の測量結果も取り入れていた。Bay of Yedo や Yedo Bay and Harbour では未測地としてラフな波線で示されるにすぎなかった安房・上総を含む、江戸湾すべての海岸線が詳細に可視化され、湾全体にわたって膨大な水深が図示された。
 第二に、江戸城と江戸については、Bay of Yedo では全く描かれず、Yedo Bay and Harbour でも現実を反映しない貧弱な「城の内郭(Inner Enclosure of Palace)」が描かれるにすぎなかった。これに対して、Gulf of Yedo には、外郭(Soto Siro 外城)まで含む江戸城と江戸(City of Yedo)の姿が克明に把握され描写されていた。
 この City of Yedo 部分は、同図の図郭外記述によると、英国海軍の下士官ブラックニー(W. Blackney)の図面を版下にしたものであった。描かれた堀川の形状から見て、ブラックニーは、当時江戸で民間出版として売られていた木版江戸図を参照した可能性が高い。ただし、木版江戸図では、空白エリアとして描かれていたはずの江戸城中心部に記された漠然とした文字記述「御城」「西御丸」を「Osori [御城]」、「Nichiomal [西尾丸」」という具体的建造物として表現し、さらに、本図を使用する航海者にも利用できるよう、それぞれの建造物のもつ意味を「Taikun Pal.(大君のパレス)」「Pal. of the Hair(大君の跡取りのパレス)」と注記した。同じく、老中など幕府重臣の役宅が集中していた西丸下の部分は、「Council of State」とされ、また大名小路付近は、「Palace of Gr. Daimios(大名のパレス)」と説明書を付している。
 かつて、ペリーの議会への報告書には、日本の政体中枢について、「皇帝(将軍)【the Emperor(Ziogoon)】のもとには13人で構成される国政評議会【a grand council of state】があり、皇帝の名において統治を行っている」と記述していた。その将軍のパレスと国政会議が、具体的な地形状の目標物として海図に可視化され図示されたのである。」
(杉本史子『絵図の史学』名古屋大学出版会、2022年、123〜125ページ)