書籍目録

「日本の灯台:1876年11月14日(土木工学会)報告」

ブラントン

「日本の灯台:1876年11月14日(土木工学会)報告」

(『土木公学会議事録:1876-77年期第1部』収録論文) [1876年] [ロンドン刊]

Brunton, Richard Henry.

The Japan Lights. (November 14, 1876)

[London], [William Clowes and Sons], [1876]. <AB202203>

Sold

(Extracted from THE INSTITUTION OF CIVIL ENGINEERS. SESSION 1876-77. PART I. SECT.I MINUTES OF PROCEEDING. )

8vo (13.5 cm x 21.4 cm), pp.[1], 2-42, folded plates: [2], Modern paper wrappers.

Information

日本の灯台関連施設の礎を築いた著者がイギリス帰国後すぐに行った学会報告論文

 1868年、新生したばかりの明治政府は、灯台建設主任技師として、スコットランド出身のイギリス人、ブラントン(Richard Henry Brunton, 1841 - 1901)を採用します。これが後に「お雇い外国人」と言われる者の第一号で、ブラントンは1868年8月から1876年3月まで日本でその役割を果たしました。ブラントンは、改税約書(1866年締結)によって、その設置が義務付けられた日本各地の灯台建設だけでなく、横浜居留地の設計と上下水道の整備計画立案、日本最初の電信架設と鉄道建設への協力など、多方面において明治日本の近代化に貢献しました。彼が残した草稿を元に翻訳された『お雇い外国人の見た近代日本』(徳力真太郎訳)は、彼の日本での功績だけでなく、黎明期の明治政府と日本社会の様子を伝える貴重な資料となっています。

 新たに欧米諸国との通商関係が開かれることになった日本へは、当時多くの商船や軍艦が訪れること認になりましたが、安全な航海に欠かせない正確な海図や灯台関連設備の充実が遅れており、海難事故が頻発することにもなってしまっていました。こうしたことを背景に、日本における灯台設置は1866年のいわゆる改税約書の第11条によって定めらることになり、幕府は条約に定められた事業を遂行するためにイギリス側に人材斡旋を依頼したところ、ブラントンが来日することになりました。こうした急を要する背景があって進められていた問題だっただけに、ブラントンの日本における灯台設置業務は、イギリスをはじめとして多く人々が注目しており関心が高い問題だったようで、この報告はブラントンがイギリスに帰国して間もない1876年11月14日に土木工学会でなされています。

 この報告は、彼が日本で関わった灯台設置事業の概要について手際よくまとめられたもので、彼による報告に続いては、発表当日に参加者との間で行われた議論のやりとりも収録されています。報告はは日本における灯台設置が進められることになった歴史的背景の解説から始められ、彼が設置に関わった各種灯台設備について設置の手順や設備の概要、用いられている技術などが論じられていて、ブラントンによる灯台設置事業が日本でどのように進められたのかを知るための大変貴重な情報を提供してくれています。また、イギリスではスコットランドをはじめとして灯台関連施設技術が非常に進んでいましたが、日本では地震というイギリスにはない重要な問題をクリアする必要もあり、ブラントンはこの点についても、自身の日本派遣を決めたスティーブンソン兄弟の耐震設備を紹介しています(ただしブラントンはスティーブンソン兄弟とは異なる耐震設備を採用)。巻末にはブラントンの式によって設置されることになった日本各地の灯台関連施設情報が一覧図にまとめられているだけでなく、それらを図示した折り込みの日本図、設置された灯台の構造図を描いた折り込み図も収録されていて、当時最新の日本における灯台設置状況が一目でわかるようになっています。

 なお、このブラントンの報告が印刷されたものとしては、イギリスの土木工学会(The Institution of Civil Engineers)が発行する雑誌に掲載されたものと、抜き刷りの独立した著作として刊行されたものとの2種類が存在しています。このうち本書は前者を抜き出して1冊の書物として綴じ直したものと思われます。いずれにせよ、このブラントンの報告は、明治初期の日本の灯台設置事業を成功裡に導いたブラントンによる著作として、もっともまとまった作品である本書は、彼の作成した「幻の地図」とも呼ばれる「日本図」と並んで、大変重要な作品であると言えるでしょう。


「我が国における洋式灯台の建設は、1866(慶応2)年、諸外国と徳川幕府との間で締結された「改税約書」(江戸条約)を根拠とする。この条約は、1863(文久3)年、長州藩が下関海峡を航行する外国船に砲撃を加えたことに対する報復として、翌1864(元治元)年、英・仏・米・蘭からなる四カ国連合艦隊が下関を攻撃した、いわゆる「四カ国艦隊下関砲撃事件」を受けて締結されたものである。
 諸外国から賠償金300万ドルを要求された幕府は、その一部を支払ったものの、残余の支払い延期を要請したところ、諸外国は200万ドルを放棄する代わりに、兵庫・大阪の早期開港、税率軽減、及び条約勅許を要求した。交渉の中心となったイギリス公使ハリー・パークスは、各国をリードし、「改税約書」の第11条で灯台の設置を義務付けた。パークスが灯台設置に熱心だったのは、当時、対日貿易額においてイギリスが他国を圧倒し、日本に往来する外国船の中でも特にイギリス船が多かったことと関係があった。また、幕府が灯台設置に同意したのは、日本の海運の将来に灯台の整備が欠かせないことを認識しており、下関事件の賠償金を建築費に振り向けたいという思惑があったからである。
 パークスが中心となって各国の艦長や船長の意見を調整した結果、灯台は劔埼(神奈川県)、観音埼(神奈川県)、野島埼(千葉県)、神子元島(静岡県)、樫野埼(和歌山県)、潮岬(和歌山県)、佐多岬(鹿児島県)、伊王島(長崎県)の八カ所に、また灯船は本牧(神奈川県)、函館(北海道)の二カ所に置かれることが決まった。しかし、当時の日本人には独力で大規模な近代的建築を施工する技術力はなく、灯台技師及び機材一式は外国に依頼するほかなかった。
 幕府は、パークスを通じて、イギリス政府に灯台建設に必要な機材の購入及び灯台技師の斡旋を依頼した。この件については、イギリス商務省とイギリスの灯台を建設・管理する法人団体トリニティ・ハウスが協議し、スコットランド北部灯台局のスティーブンソン兄弟に委ねられることになり、選考の結果、ブラントンが選ばれたのである。」
(稲生淳『熊野 海が紡ぐ近代史』森話社、2015年、79頁)