書籍目録

『日本への冒険:開港条約施行以前である1859年2月』(『ホームズ船長の冒険』)

ホームズ /(ジャーディン・マセソン商会)

『日本への冒険:開港条約施行以前である1859年2月』(『ホームズ船長の冒険』)

著者本人の旧蔵本 (1904年) ロンドン刊

(Captain) Holmes, Henry.

My Adventures in Japan (Before the Treaty came into force, February, 1859): A Personal Narrative.

London, R. E King &Co., LTD, (1904). <AB202202>

Sold

Author's own copy.

8vo(12.2 cm x 19.4 cm), Original front card cover, colored folded plate, 1 leaf(blank), pp.[1(Half Title.), 2], small leaf([All Rights Reserved.]), Front., pp.[3(Title.—5], 6-70, 2 leaves(blank), original back card cover, Plates: [2], Half cloth bound on marble boards.
[NCID: BA25559098]

Information

開港前後の日本を訪ねたイギリス商人のユニークな視点から描かれた日本見聞録、著者自身の旧蔵本

 本書は、1859年2月という民間商船としては非常に早い時期に来日して、何度も日本と上海との間を往復したイギリス商船の艦長であったホームズ(Henry Holmes, 1819 - 1913)による日本見聞記です。ホームズが実際に来日してから40年以上も経った1904年頃にロンドンで刊行された作品です、筆まめなホームズがつけていた当時の日記をもとに書かれているため、その内容が比較的正確であるだけでなく、実に生き生きと当時の様子が描き出された魅力的な作品となっています。

 1858年のいわゆる安政五カ国条約と呼ばれるアメリカ、オランダ、ロシア、イギリス、フランスの5カ国と相次いで締結された通商条約によって、長崎、神奈川(横浜)、函館の三港が1859年6月に開港されることになりましたが、ホームズはこれに先立って自身の判断で日本を訪れて商業活動を展開しており、本書には民間のイギリス商船による最初期の日本での活動の様子を記した貴重な記事が収録されています。また、当時の日本の人々や街並み、自然といった事柄がホームズ自身のユニークな視点から描かれており、イギリスの一民間人から見た開港前後の日本見聞記とも言える内容になっています。

 この作品は、日本語訳版(横浜開港資料館編 / 杉山伸也 / H・ボールハチェット(訳)『ホームズ船長の冒険:開港前後のイギリス商社』有隣堂、1993年)が刊行されており、同書の「訳者解説」が本書を理解する上で大変役に立ちます。それによりますと、本書は「ヘンリー・ホームズが86歳のときに執筆した70頁の比較的みじかいもので、出版年の記載はないが、1904年と推定され」る作品です。ホームズが実際に日本を訪ねたのは40歳の頃ですからそこから半世紀近くも経ってから執筆された作品ということになりますが、ホームズは航海時に「ビューティーズ・ログ(Beauty’s Long)」という航海日誌を常につけていたことが知られており、そのおかげで、本書における記録は時折誤りが見られるとはいうものの、非常に細かな点にまで描写が及んでおり、その記述が概ね正確なものとなっています。

「(前略)かなりの年月がたっているにもかかわらず、記述が比較的正確なのは、この航海日誌のおかげである。開港前後の日本について外交官や宣教師、旅行者の手になる著作はいくつか出版されているが、貿易商人の目を通してみたこの時期の叙述はそれほど多くない。それゆえ、ホームズ船長が本書を残してくれたことで、特に開港前後の長崎や神奈川、さらに金貨(小判)の取引など外国商会の具体的な活動がいきいきと、かつ鮮明に描かれ、この時期に関心をもつ読者にはさまざまな意味で有益であると思われる。」
(前掲訳書「解説」148ページより)

 本書冒頭には、仙台藩が幕末(1857年進水)に建造した日本における最初期の西洋型帆船である「開成丸」を描いた彩色図版が折り込み図として収録されています。この図は、「開成丸訓練帰帆図」と題された作品(現在は仙台市博物館蔵)で、1858年2月から3月にかけて行われた訓練の様子を描いた作品で、ホームズ自身と開成丸とがどのような関係があったのかについては本文中では触れられていませんが、開成丸は、まさにホームズが日本を訪れていたその時期に日本における最初期の西洋式帆船として活動を始めていますので、ホームズとは何かしらの関係があったのかもしれません(開成丸については、佐藤大介ほか編『仙台藩の洋式帆船開成丸の航跡:幕末の海防構想と実践の記録』東北大学災害科学国際研究所、2022年を参照)。

 本書は上述の通り全70ページとそれほど分量が多くないため、目次などは設けられていませんが、ホームズによる1859年2月の長崎訪問にはじまって、1860年4月にロンドンに向けて神奈川(横浜)を出港して帰国するまでの間の出来事が綴られています。ホームズは自身が艦長を務めるトロアス号で1858年8月に上海に到着しますが、当地において多くの船舶が傭船を求めて停泊中であったことからその中での過当競争に巻き込まれることを避け、新たなビジネスチャンスを求めて日本へと赴く決意をします。彼が上海に到着する直前にイギリスと日本との間で通商条約が締結され、1859年6月に長崎、神奈川(横浜)、函館の三港が開港することが決まっていたものの、当時まだ日本の公式な開港はなされておらず、そもそも日本に民間商船が上陸できるのかどうかも全くわからない状況であったことをホームズは述べており、だからこそホームズはそこに新しい可能性を見出しました。ホームズは、上海のジャーディン・マセソン商会を訪ねてこの計画を打ち明け、同商会からの傭船契約を得ることに成功し、200トンの砂糖だけを積んで長崎へと向かいました。ホームズは、当時は日本近海の海図が非常に不完全で、航行には非常に注意を要したことも述べています。砲撃を受けることすら覚悟して長崎へと向かったホームズですが、到着してみると意外なことになんらの妨害や攻撃を受けることもなく、長崎出島への入港に成功し、早速訪ねた出島におけるオランダ人の様子(かなり批判、皮肉的に記している)や、長崎の街、人々の様子を観察しています。

 ホームズの当時の日本を見る視点は非常にユニークなもので、当初はオリエンタリズムに満ちた視点を投げかけようとするものの、実際に日本に到着して人々と出会う中で、比較的早くにそうした先入観にもとづいた視点を放棄したようで、「郷にいれば郷に従え」とも言える姿勢で、ありのままに物事を見つめようとしています。

「私たちはこの橋(出島と長崎市内を結ぶ橋のこと:引用者)をわたって自由に市街にはいり、この驚くべき人たちについての最初の印象をうけることができた。すべてのものが西洋の思想や習慣とはことなるだろうと期待していたが、非常に驚いたことに、最初にみたものは、多くの子供たちが次のような仕方で楽しんでいる様子だった。男の子は独楽をまわし、凧をあげ、竹馬にのり、女の子は羽根つきをして遊んでいた。これは驚きだった。というのは、独楽や凧や羽子板はすべて、私が子供のときに遊んだものよりもよくできていたからである。」
(前掲訳書18頁、本書p.12)

「長崎奉行所は私の行動をまったく制限しなかったので、街の住民と知り合いになるのに時間をかけた。日本にくる前は、外の世界がどのようになろうと気にせずに、みずからをとざして隔離された生活をおくっている純朴な人々に出会うだろうと思い込んでいた。しかし、このような考えが完全にまちがっていることが、すぐにわかった。私はすぐに自分が、高度の文明をもつ、気の利いた精力的な民族で、かつみずからの強さと能力を十分に信じている、驚くべき人々のなかにいることをさとった。「私たちはあなた方西洋人が、対等の人格として上陸することを認めましょう。もし私たちに何かを教えてくれることがあれば、私たちから学ぶものもあると思います。そのために私たちは開港するのですから」というように、勝手な行動は許されないことがすぐにわかった。」

「商売人として、日本人は鋭敏で、熱心で、ぬけ目がなく、しかも非常に企業心にとんでおり、世界の貿易に参加して卓越した位置をしめしてもおかしくない。日本人は、全能のドルの価値にきわめて敏感である。鎖国によっても、金銭にたいする欲望はなくならなかった。」
(前掲訳書26頁、本書p.20)

 ホームズは、当時来日することができた外国人の大半を占めていた外交官や宣教師のようになんらかの外的な「使命(mission)」を負っていたわけではなく、かといって後年の行きずりの旅行者のように気ままに旅をしたわけでもなく、「パイオニア」の商人として開港前夜の日本を訪れた非常に数少ない人物の1人でした。ホームズの眼差しは、まるで文化人類学者のフィールドワークの際のそれのようで、未知の社会に溶け込み、すこしでもその社会に馴染もうとしつつ、冷静にその社会を観察しようとする姿勢に基づいていて、民間商人ならではの大変ユニークな視点から当時の日本の様子を描いています。もちろん本書には、商人であったホームズが貿易のための品々をそれこそ抜け目なく探し回る(そのためにも現地社会にいち早く馴染む必要があったと言えます)様子や、金銀比価の相違によって莫大な利益を上げたこと(これも後年大問題となりました)、日本の商人とのやりとりといった、開港前後の貿易活動の様子も非常に詳細に描かれています。

 長崎訪問に成功し、将来的なビジネスチャンスを確信したホームズは、1859年4月に一旦香港に戻ったのち、日本貿易の可能性に強い関心持つ多くの人々から質問攻めに合い、日本で入手した品々を売却することで大きな利益を得ることができました。それからホームズはジャーディン・マセソン商会と改めて傭船契約を結び直し、以降1860年4月まで上海と主に神奈川(横浜)を往復し続けることになりました。したがって、本書に記されたホームズの日本での商業活動の記録は、当時のジャーディン・マディソン商会の最初期の日本貿易の記録でもあり、本書は、日英貿易最初期の当事者の記録としても高い評価を受けています。

 このように本書は、最初期の日英貿易の当事者による貴重な商業活動期として、またホームズならではのユニークな視点から描かれた日本見聞記としても大変興味深い作品と言えますが、国内における所蔵研究機関は非常に限られており、また古書市場に本書が出現することもほとんどありません。おそらくその理由は、本書が商業目的で大量に販売することが目的とされておらず、半ば私家版的な書物として、ごく少ない部数だけが印刷された作品であった可能性が高いことに由来するのではないかと思われます。本書は通常の書物に用いられる用紙よりもかなり厚みのある用紙に印刷されていて、また当時の書物によく見られる染みや酸化による劣化もあまり見られない非常に高価な用紙が用いられており、70頁ほどの作品としては大変豪華な造本がなされていることが見てとれます。こうした高級紙をあえて用いていることから見ると、本書は限られた関係者だけに配布された作品であったのではないかと推察されます。

 さらに本書が非常に興味深い1冊であるのは、この1冊がまさに著者ホームズその人の旧蔵書であるという点にあります。本書の見返しにはホームズの蔵書票が貼り付けられており、そこには彼の当時の住所と思われる「6, CROMARTIE ROAD, HORNESY RISE, LONDON, N」と記されています。この住所は前掲訳書解説において、ホームズが亡くなった際の住所ではないかと推定とされている住所とまったく同じです。

「「ヘンリー・ホームズ」という名前は、かなりよくある名前といってよい。イングランドの出生・結婚・死亡登録簿の保管されているロンドン、オルドヴィッチにある「ジェネラル・レジスター・オフィス」の死亡登録簿で、1904年から1920年に死亡した数百人の「ヘンリー・ホームズ」をさがしてみた。これらの条件にもっとも近い「ヘンリー・ホームズ」は、1913年10月5日にロンドンのクロマーティ・ストリート6番地(現在ではロンドンのN19番地)で、94歳で死亡している「ヘンリー・ホームズ」である。」
(前掲訳書「解説」161ページ)

 本書は大変美しく、また丁寧に施された装丁がなされていますが、見返しに貼られたホームズの蔵書票のインクが反対ページに一部写っているため、この装丁もホームズ自身が依頼したものであると思われます。オリジナルの厚紙装丁もそのまま残す形で改装が施されていて、この作品に対する強い愛着が感じられる1冊となっています。本書は、国内における所蔵も極めて少なく、また古書市場に出現することも滅多にない作品ですが、ホームズ自身の旧蔵(愛蔵)の1冊であることは、余本でもって代え難い唯一無二の価値を本書に与えてくれていると言えるでしょう。