書籍目録

「日本(の本州)が(蝦夷と切り離された)島であるかについての書簡」

カッシーニ

「日本(の本州)が(蝦夷と切り離された)島であるかについての書簡」

(雑誌『ジュルナル・デ・サヴァン』1700年(5月31日)第28号所収論文) 1701年 アムステルダム刊

Cassini, Giovanni Domenico.

Troisieme Lettre du S. De Lisle à M. Cassini sur la question que l’on peut faire si le Japon est une Isle. [IN] JOURNAL DES SAVANS, POUR L’Année M.DCC. TOME VINGT ET HUITIE’ME.

Amsterdam, Waesberge, Boom, & Goethals, M. DCCI.(1701). <AB2020208>

Sold

12mo(7.5 cm x 13.2 cm), 1 leaf(blank), pp.[1(Title.), 2], 3-578, 597[i.e.579], 580-815, [816], 8 leaves(Table), 19 leaves(Bibliography), Contemporary vellum.
刊行当時のものと思われる装丁だが、背表紙の皮革が剥がれて無くなっている他、小口部分の革にも傷みや欠落が見られる。本体の綴じは特に緩みもなく比較的良好な状態。

Information

日本の北方と蝦夷周辺の地理情報を当代随一の地理学者が考察

 本書は、フランス最古の文芸総合科学雑誌として名高い『ジュルナル・デ・サヴァン』の1700年号で、この年に刊行された全号、並びに索引と文献目録が1冊に収録されています。1665年に創刊された『ジュルナル・デ・サヴァン』は、時代によって変化しつつも、フランスのみならず各時代のヨーロッパにおける最新の人文・社会・自然科学の各分野における学術記事、新刊書評記事を掲載した一流の文芸総合科学雑誌として高い評価を受けています。本書が興味深いのは、当時のヨーロッパで話題となっていた、日本と蝦夷との地理的関係をめぐる問題を論じた小論が掲載されていることです。

 この論文は1700年5月31日号に掲載されたもので、著者カッシーニ(Giovanni Domenico Cassini, 1625 - 1712)は、ルイ14世が創設したパリ天文台の初代天文台長を務めた当時のフランスを代表する天文学者、地理学者として著名な人物で、カッシーニ家は以後100年以上にわたってフランス国王付きの地理学者を輩出する名門家であり続けました。カッシーニは、この論文の前に2本の世界地理に関する論考を本書に寄せており、当時のヨーロッパにおいて世界地理学上の問題、謎となっていたことを詳細に論じていて、この論文では日本と蝦夷との地理的関係を取り上げています。

 日本の北方にある蝦夷に対しては、17世紀の前半からすでにイエズス会宣教師らによって注目が集まっており、1618年にイエズス会士アンジェリス(Jeronymo de Angelis, 1567 - 1623)が実際に蝦夷を探索してその地を東はアメリカ大陸まで、西はユーラシア大陸まで広がる巨大な大陸であると推定し、続いて1620年に蝦夷を訪ねたイエズス会士カルヴァーリョ(Diogo Carvalho, 1578 - 1624)も同様の判断を下しました。アンジェリスは1621年にも再び松前を訪ねて現地で情報を集めた結果、蝦夷は巨大な陸地ではあるもののユーラシア大陸とは繋がっていない島であると判断を修正し、その報告書はイエズス会による日本年報として1624年に公刊されました。このアンジェリスによる蝦夷報告は、幕府によるキリシタン弾圧が激化する中で、新たな宣教地を開拓するためになされたものではありましたが、結果的にヨーロッパにおける蝦夷地に対する関心を集めることにもなりました。

 また、蝦夷の東方には豊富な金と銀を算出する金銀島が存在するという伝説が当時のヨーロッパでは信じられており、スペイン人航海士ヴィスカイノによる探索を嚆矢として、日本との関係を急速に深めつつあったオランダ東インド会社もこの島々の探索に強い関心を示すようになります。そして、1643年にオランダ東インド会社によって、蝦夷地の日本との地理的関係、並びに蝦夷地の政治的、経済的状況の把握、そして金銀島の探索などをその使命とする探索船団が1643年に派遣され、フリース(Maerten Gerritsz Vries, ? - 1647)を中心として日本北方海域における本格的な測量調査が初めて行われることになりました。

「(前略)オランダの航海者フリース一行は、1643年6〜9月に日本北辺地域の海上を航行して北海道、南千島、サハリン島の沿岸を調査し、その後、日本の東方海上で虚しく金銀島を探索したのであった。その結果作成された地図は、その後18世紀末までの約140年以上もこの海域に(千島を除いて)欧州の探検船が現れなかったので、ヨーロッパでは日本北辺地域に関する唯一の実測地図として長い間権威のある典拠となった。」
(秋月敏幸『日本北辺の探検と地図の歴史』北海道大学図書刊行会、1999年、54ページより)

 カッシーニはこの論文においてこうしたヨーロッパ人による蝦夷周辺探索に関する当時の最新情報をきちんと把握しており、情報源の信憑性にも注意を払いつつ、この論文では蝦夷が日本と地続きであるのかどうか、また蝦夷とユーラシア大陸、アメリカ大陸、さらには現在の千島列島との地理的関係について、これらの情報を整理しつつ自身の見解を展開しています。加えて、蝦夷地において日本の実効支配が及んでいるのかどうかという政治、経済的な問題にも強い関心を示しており、オランダ東インド会社関係者やイエズス会士の報告書などを用いながら、松前藩の蝦夷地におけるプレゼンスや日本(幕府)との関係性などについても論じています。カッシーニは、フリース一行らがもたらした情報だけでなく、当時のヨーロッパにおける最大の日本情報をもたらしたカロンによる報告(地図)や、同時代の地理学者ダッドレーによる地図など、あらゆる関連情報を手際よく捌いています。最終的にカッシーニは、日本と蝦夷地との間に海峡は存在せず、その間の海域は湾であろうと推定しており、もし仮に湾ではなく海峡であったとしても、実質的には航行が不可能なくらいの狭い海域であるだろうと述べています。

 本書に掲載されたこのカッシーニの論文は、蝦夷地に対する当時のヨーロッパの強い関心を示すものとして、さらに当時のフランスのみならずヨーロッパを代表する天文学者、地理学者であったカッシーニによってこの問題が論じられた作品として、小論ながらも大変興味深い、貴重な論文であると言えるでしょう。