書籍目録

『日本の殉教者であるパウロ三木、ディエゴ喜斎、ヨハネ五島の 1597年2月5日、長崎における栄光ある死についての短報:日本準管区長ペドロ・ゴメスによるイエズス会総長宛1597年書簡より』 

ペドロ・ゴメス / (日本二十六聖人殉教事件)

『日本の殉教者であるパウロ三木、ディエゴ喜斎、ヨハネ五島の 1597年2月5日、長崎における栄光ある死についての短報:日本準管区長ペドロ・ゴメスによるイエズス会総長宛1597年書簡より』 

初版 1628年  ローマ刊

Goméz, Pedro,

BREVE RELATIONE Della gloriosa morte DI PAOLO MICHI, GIOVANNI GOTO, E GIACOMO GHISAI Martiri Giapponesi Della Compagnia di GIESV Seguita in Nangasachi alli 5 di Febraro 1597. Cauata da una lettera del P. Pietro Gomez…l’anno 1597.

Roma, Zanneti, 1628. <AB2020200>

Sold

First edition.

Small 8vo(9.0 cm x 15.0 cm), pp.[1(Title.), 2], 3-14, 1 leaf(blank), Original or slightly later card boards.
[JL-1628-3]

Information

日本二十六聖人殉教事件で犠牲となった3人のイエズス会士を題材にした多くの作品の原点となった重要作品

 本書は、1597年2月に生じたいわゆる日本二十六聖人殉教事件の犠牲者のうち、パウロ三木(Paolo Michi)、ディエゴ喜斎(Giacomo Ghisai)、ヨハネ五島(Giovanni Goto)の三人のイエズス会士に焦点を当てて論じたもので、1627年にウルバヌス8世によって二十六人が列福されたことを受けて1628年にローマで刊行されています。事件当時に日本準管区長であったペドロ・ゴメスによって1597年に認められた書簡を典拠にしていることをうたっており、パウロ三木ら3人の履歴や事件当時の様子が詳しく記されています。また、事件以降の文脈、特に彼らが殉教者としてローマで正式に認められ福者となったことを踏まえて新たに書かれた作品でもあることから、事件発生以降のイエズス会における事件の認識の変遷を示す資料としても大変興味深い内容となっています。わずか14ページの小著ながら当時は非常によく読まれたようで、同名のタイトルを持つ異刷が少なくとも2点、また本書がもとになっていると思われる作品やその翻訳版が6点も1628年中に刊行されています。本書はイエズス会出版物刊行の中心的役割を担っていたローマのザネッティ社から刊行された初版と思われる1冊で、こうした数多くの異刷、翻訳版、類似作品、さらには19世紀半ばに至るまで数多く生み出されることになったパウロ三木ら3人を主題とした数多くの著作、版画作品の原点になったと言える重要な版であるだけでなく、国内所蔵が皆無であることはおろか、世界的にも僅か数点しか現存が確認できない大変希少な作品でもあります。

 二十六聖人殉教事件は、日本における本格的なキリスト教弾圧の嚆矢に数えられる事件ですが、当時宣教活動にあたっていたイエズス会やフランシスコ会に与えた衝撃は非常に大きく、事件直後から数多くの報告書が執筆、刊行されています。事件直後に刊行された代表的な作品としては下記のようなものが挙げられます。

①フィリピン総督グスマン報告(1598年)
Guzmán, Francisco Tello de.
Relacion que Don Francisco Tello, governador…
Seville(他多数), 1598.

②イエズス会士フロイス報告(1599年)
Fróis、Luís.
Relatione della gloriosa morte di XXVI. posti in croce per comandamento del Re di Giappone, alli 5. di Febraio 1597….
Roma(他あり),1599.

③フランシスコ会士サンタ・マリア報告(1599年)
Santa Maria, Juan de, O.F.M.
Relación del martirio que seys Padres Descalços Franciscos, y veynte Japones Christianos padecieron en Japón.
n.p. 1599.

④フランシスコ会士リバデネイラ報告(1600年)
Ribadeneyra (Ribadeneira), Marcello de.
Historia de las islas del archipelago, y reynos de la gran China, Tartaria, Cuchinchina, Malaca, Sian, Camboxa y Jappón, y de lo sucedido en ellos a los Religiosos Descalços, de la Orden del Seraphico Padre San Francisco, de la Provincia de San Gregorio de las Philippinas.
Barcelona, 1601.

 事件で犠牲となった26人のうち23人がフランシスコ会関係者であったことから、事件直後からフランシスコ会による報告書類の出版が相次いでおり、上掲中②のフロイス報告を除く3点はいずれもフランシスコ会関係者によって出版されています。この事件は日本における布教方針をめぐるイエズス会とフランシスコ会の対立も背景にあったことから、それぞれの修道会が自身の立場から事件を解釈して著作を刊行しており、事件背景の解釈や事件そのものの評価については、両会の間で異なる点も多く、双方の作品をあわせ読む必要があるとされています。

 フランシスコ会は事件直後から犠牲者を「殉教者」、しかもアジアにおける記念すべき「最初の」「殉教者」として捉え、彼らの顕彰(列福や列聖)を見据えた出版活動を展開していくのに対して、ローマのイエズス会本部は事件の意義を認めつつも、彼らを公式に「殉教者」とみなすことや、列福や列聖といった顕彰を求める活動を行うことに対してはかなり慎重な姿勢をとっていたといわれています(この点については、小俣ラポー日登美「聖性の創り方:いわゆる日本二十六聖人の列福過程(1627)」(名古屋大学文学研究科附属人類文化遺産テクスト学研究センター編『HERITEX』第3号、2020年所収論文等を参照)。しかしながら、この事件が両修道会にとって衝撃的な大事件であったということや、犠牲となった人々が信仰のゆえに処刑された模範的信徒であったという認識においては、事件直後の両会の見解は一致しており、事件を論ずるに際しては、後年の同種の著作に見られるように所属修道会毎に犠牲者を分断して論ずる(本書がまさにそうした例の一つですが)ようなことは、少なくとも事件直後の刊行物にはまだ見られません。

 このことはイエズス会とフランシスコ会の対立が、この時点では後年ほどに激化していなかったことも要因と思われますが、両会の著者のいずれもが、日本で宣教活動に従事していたり、あるいは事件の目撃者、あるいは直接の関係者から生々しい報告を受けた人物であったりと、事件発生前後のただならぬ空気とそれに対処せねばならないという緊迫感をリアルに共有していたことも非常に大きかったのではないかと思われます。犠牲者を公式な「殉教者」と認定することに慎重だったイエズス会にしても、実際に現地で宣教活動に従事しつつ事件を目の当たりにしたフロイスをはじめとした現場の宣教師にとって、この事件を自身でどのように受け止め、また日本の信徒たちにその意義をどのように解釈して伝えるべきか、ということは非常に切迫した問題であったと考えられます。

「1597年の26人の処刑により、宣教師は改めて殉教に対する覚悟と心構えをキリシタンに教え諭す必要を実感した。準管区長ゴメスは、この事件によるキリシタンの動揺を鎮め、堅信のためにマルチリヨに関する書き物を作成し、これを日本語に訳して印刷することを命じた。その書き物ではマルチリヨの誉れと有効性、マルチリヨに要求される条件、迫害の時代に持つべきマルチリヨへの意向とそのための準備について述べられた(「1598年度イエズス会日本年報」)。これは、1615年以降に作成されたとされる「マルチリヨの勧め」「マルチリヨの心得」(『耶蘇教叢書』)の原型を成すものであった。」
(五野井隆史「キリシタンと「殉教」の論理:キリスト教伝来の意味と殉教への道」『日本思想史学』第40号、2008年所収、23ページ)

 「マルチリヨ」が初期教会において見られた歴史上の出来事ではなく、まさにそれを彷彿とさせる形での現実的問題として生じ、また今後も生じうることを、1597年の26人の処刑という大事件はイエズス会、フランシスコ会双方に突きつけることになり、この事件の犠牲者を公式に「殉教者」と認められるようローマに働きかけるかどうかはともかくとしても、「マルチリヨ」をどのように解釈すべきかという喫緊の課題は、少なくとも事件直後からしばらくの間は、修道会間の対立よりも相対的に重要な問題となっていたのではないかと思われます。上掲4点をはじめ事件直後に数多く執筆、刊行された作品郡は、修道会間の対立を背景に孕みつつも、眼前で生じた殉教事件をいかに解釈し、宣教の現場において伝えていくか、というアクチュアルな喫緊の課題に取り組むことを共有していたとも言えるでしょう。

 これに対して、本書は事件直後に認められたペドロ・ゴメスの書簡を典拠にしているものの、実際に事件が生じてから30年余りも経過した1628年に、犠牲者の列福がローマによって公式になされたことを受けて刊行されたという背景を有する作品であることから、上掲のような事件直後に刊行された作品とは異なる性質も帯びていることに注意が必要と思われます。本書において犠牲者26人全員が扱われるのではなく、イエズス会士であった3人だけに焦点が当てられていることは、その30年余りの間にイエズス会とフランシスコ会の対立が激化していったことを反映したもので、当初は犠牲者の列福や検証に慎重であったイエズス会も、フランシスコ会に対立する形で自身の関係者の顕彰活動を積極的に進めるようになり、その結果、イエズス会とフランシスコ会のそれぞれが、自身の関係者だけを分別する形で事件を論じるようになっていったことがその背景にあります。そのため、本書はいうまでもなくイエズス会による公式の出版物であることから、フランシスコ会関係者については(事件の概要を伝えるために最低限の紹介はするものの)ほとんど論じることはなく、イエズス会関係者である3人だけに焦点を当てて論じる内容となっています。パウロ三木、ディエゴ喜斎、ヨハネ五島の3人の名前がタイトルページに明記され、しかも彼らがはっきりと「日本の殉教者(Martiri Giapponesi)」として紹されている本書は、彼らがイエズス会の関係者であり、しかも日本における最初の殉教者に数えられる名誉ある模範的信徒であったことを殊更に強調し、それ以外のフランシスコ会士たちの存在を背後に押しやることで、イエズス会の日本宣教の成果を引き立たせようとする意図が強く感じられます。こうした態度は、フランシスコ会による同時代の出版物にも同様の傾向が見られ、彼らによる出版物はイエズス会士3名を除外した23名のみが論じられています。このように同じ事件の犠牲者を所属修道会ごとに分断して扱おうとする姿勢は、版画や絵画などの視覚作品にまで及んでおり、1862年の列聖後に至るまでこうした姿勢のもとに製作された作品が数多く生み出されることになりました。本書は、イエズス会における出版物としてこうした姿勢を明確に示した最初の作品であると考えられることから、数多く生み出されることになった同種の作品群の原点と言えるものです。

 本書はタイトルページにも示されているように、事件当時に日本準管区長であったペドロ・ゴメスによって1597年に認められた書簡をもとにして執筆されているようで、このペドロ・ゴメスの1597年の書簡というのは、1597年3月14日付、長崎発のポルトガル語書簡(Jap.Sin. 52 270-304)のことではないかと考えられます。この書簡は、フロイスによる1597年3月15日付、長崎発スペイン語書簡(Jap. Sin. 53 1-71v)をもとにして、ヴァリニャーノの指示のもと整理、訂正、編纂を施したもので、事件直後の1599年に刊行された上掲の②イエズス会士フロイス報告の原本となったと考えられています。

「それ(ペドロ・ゴメスの1597年3月14日所管のこと;引用者)はヴァリニャーノ神父が手を入れたフロイスの記録のポルトガル語訳といってもさしつかえない。
 ところがフロイスの記録には数奇な歴史がある。同3月中旬に記録はマニラ経由とマカオ経由で送られた。マニラへスペイン語、マカオへはポルトガル語の原文が送られたが、マカオではヴァリニャーノ神父はそれを手元に置き、ある程度まで整理して他の手紙の史料も加えて出来上がった文章をその修訂を託したペドロ・ゴメスの名の下にローマに送った。同時にヴァリニャーノは、マニラの管区長ファン・デ・リベラ宛の手紙では、フロイスが直接書き送った年報と殉教記を燃やして、そのかわりに自分が修訂した記録をローマに送るように頼んだ。
 幸いフロイスの原文はマニラから送られていたので無事にローマに届いた。数ヶ月後、ヴァリニャーノの要約した記録と総長宛の手紙がローマに届いたのでフロイスの記録は棚上げされ、ヴァリニャーノの文章は各国語への翻訳や伝記の叙述に利用された。」
(結城了悟訳・解説 / ルイス・フロイス『日本二十六聖人殉教記』日本二十六聖人殉教記念館、1996年、12ページ)

 つまり、本書がその典拠としているペドロ・ゴメスの1597年書簡というのは、フロイスの報告書を原本にヴァリニャーノの指示のもと訂正、編集を施したもので、事件直後に刊行された上掲②フロイス報告の底本となった書簡であると言えます。訂正前のフロイス書簡原本の日本語訳である引用上掲本と、事件直後に刊行された上掲②フロイス報告とを比較してみると、確かにフロイス書簡原本にあったいくつかの章が、刊行された②フロイス報告では削除されていたり、随所で訂正がなされていたりするのを確認できます。つまり、1597年3月付のフロイス書簡原本と、フロイスの名の下に1599年に刊行された上掲②フロイス報告との間には、少なくない相違点があり、両者を区別して読解する必要があると言えます。本書がその典拠としているペドロ・ゴメスの1597年書簡原本(Jap.Sin. 52 270-304)については、店主は未見ですが、上述の通りフロイス書簡現本をベースにヴァリニャーノの指示に基づいて訂正、編纂が加えられ、刊行された上掲②フロイス報告の底本となったことが指摘されていますので、フロイス書簡原本よりも、むしろ刊本である②フロイス報告により近い内容ではないかと推測されます。

 ただし、本書はペドロ・ゴメスの1597年書簡の一部を抜粋しているわけではなく、刊行された1628年の文脈に合わせる形で、編纂、加筆、訂正等がなされていることに大きな特徴があります。本書の内容は、大坂(Ozaca)でパウロ三木ら3人のイエズス会士が捕縛されるところからその記述が始まっていますが、続いて3人の経歴が紹介されており、特にイエズス会士としての活動期間が長く著名でもあったパウロ三木については非常に詳しく紹介がなされています。天草のコレジヨ(Collegio di Amacusa)で学んだことなどもここには記されていて、こうした記述は、少なくとも事件直後に刊行された上掲②フロイス報告には見られないものです。3人の経歴紹介に続いては、おおむね事件の時系列に沿って記述がなされていて、京都(京、Meaco)においてフランシスコ会のマルティノ(Fra Martino)らが捕縛され、秀吉より捕らえられた者たちの耳を削ぐよう命じられた石田三成(治部少、Ibunoscio)がそれを緩和しようと努めたことをはじめ、オルガンティーノ(P. Organtino Soldo)ら現地のイエズス会士の動向などが描かれています。イエズス会士らの名が挙げられる際には「京のコレジオ、並びに大坂のカーザの上長(allora Superiore del Collegio di Meaco, e della Casa di Ozaca)というように、当時の役職と合わせて記されていて、こうした記述も上掲②フロイス報告には見られないものです。事件発生当時のイエズス会関係者にとっては周知の事実であった宣教師の役職なども、30年余りが経過して本書が刊行された1628年の読者にとっては(場合によってはイエズス会関係者にとってすら)あまり馴染みがなかったことを考慮して、事件の背景や経過を読者に正しく理解してもらうために欠かせないこうした役職の記述が本書では追記されたのではないかと思われます。また、事件の経過を論じた後の末尾には、彼らが日本宣教の種を蒔いたザビエルに連なる日本のイエズス会士であることが強調されていて、教皇ウルバヌス8世によって3人が福者として公認されたことの意義や、読者が彼らから学ぶべきことなども論じられています。

 したがって本書は、その典拠を1597年のペドロ・ゴメス書簡としつつもこうした独自の追記が随所になされており、また記述そのものも新たに書き直されていることから、実質的にはある程度独立した別の著作として見做すべき作品であると言えます。事件直後に刊行された上掲②フロイス報告とは異なり、イエズス会士であった3人だけに焦点を当てられていることや、随所に追記がなされていること、彼らが列福されたことの意義や殉教者としての重要性が強調されていることなど、同じ事件を論じたイエズス会の作品であっても、両書の間には大きな相違があり、これらの相違は事件直後とそれから30年を経て犠牲者が列福された時点とのイエズス会の事件に対する評価、解釈の相違を反映したものであると考えられることから、大変興味深いことです。

 ただし、上記で引用した五野井隆史らによって指摘されているように、ペドロ・ゴメスは日本の信徒のために「マルチリヨ」の心得を解く作品の執筆に深く関与していたことが知られており、本書の殉教の意義に関する記述において、どこまでがペドロ・ゴメス自身の見解であるのか、あるいは、どこまでが本書編纂者の見解であるのかを見極めることも非常に重要かつ、大変興味深いテーマと言えます。その意味では、「マルチリヨ」を巡る問いに応えることが切実に求められる宣教現場に身を置いていた事件直後のペドロ・ゴメスの視点と、それから30年後に彼らをローマ公認の福者として積極的に顕彰していこうとする後年のイエズス会の視点とが、同じ書物の中で複雑に交錯していることが、本書の大きな特徴(魅力)であると考えることもできるでしょう。

 上述の通り、事件の犠牲者が1627年に列福されたことを受けて、1628年には事件を論じた書物の刊行が多数なされており、本書もこうした事件に対する再注目の機運が高まる中で刊行された作品の一つに数えられます。事件直後に刊行された上掲②フロイス報告も1628年に再刊がなされていますが、本書はそれよりもはるかに多くの異刷、翻訳版が刊行されていて、本書と同名の作品が少なくとも3点、また本書を底本にしたと思われる作品やその翻訳版が少なくとも6点も1628年中に刊行されていることから、本書は、いわば列福を受けてのイエズス会による事件の公式見解としての位置付けが与えられていたことがうかがえます。こうした1628年中に数多くの異刷、翻訳版が刊行された中でも、本書はその初版と考えられているもので、ローマにおいてイエズス会出版物刊行の中心的役割を担っていたことで知られるザネッティ社(Zanetti)から刊行されています。このザネッティ版は国内における所蔵が皆無であるだけでなく、世界的に見ても数点(3点?)の所蔵しか確認できません。当時、異刷、翻訳版も含めて数多くの読者を得た作品とはいうものの、本書はわずか14ページの小著であったことから、長期間にわたっての保管、所蔵がなされず、その結果、現在では非常に希少な作品になってしまったものと考えれます。

 本書は、日本二十六聖人殉教事件とその受容史に関する基本文献であるという内容上の重要性に加えて、ならびに世界でもほとんど所蔵が確認できないという希少性の点においても大変貴重な書物ということができるでしょう。


 なお、本書をはじめ、日本における殉教事件を主題とした出版物については、下記文献が大変参考になります。

Rady Roldán-Figueroa.
The Martyrs of Japan: Publication History and Catholic Missions in the Spanish World (Spain, New Spain, and the Philippines, 1597-1700). (Studies in the History of Christian Traditions 195)
Leiden: brill, 2021.

Hitomi Omata Rappo.
Des Indes lointaines aux scénes des colléges: Les reflets des martyrs de la mission japonaise en Europe (XVIe - SVIIIe siécle)(Studia Oecumenica Friburgensia 101).
Münster: Aschendorff Verlag, 2020.

小型の八つ折り本で僅か14ページほどの小著である。本書であるザネッティ版は国内における所蔵が皆無であるだけでなく、世界的に見ても数点(3点?)の所蔵しか確認できないことから、その希少性においても大変貴重。
タイトルページ。パウロ三木らの名前が「日本の殉教者(Martiri Giapponesi)」として大きく掲げられている。本書は同年に複数刊行された、異刷、翻訳版、類書のなかでも、ローマにおいてイエズス会出版活動の中心的役割を担っていたザネッティ社(Zanetti)による初版本である。
本書冒頭箇所。大坂(Ozaca)でパウロ三木ら3人のイエズス会士が捕縛されるところからその記述が始まっているが、続いて3人の経歴が紹介されており、特にイエズス会士としての活動期間が長く著名でもあったパウロ三木については非常に詳しく紹介がなされている。パウロ三木が天草のコレジヨ(Collegio di Amacusa)で学んだことなどもここには記されていて、こうした記述は、少なくとも事件直後に刊行された上掲②フロイス報告には見られないもの。
京都(京、Meaco)においてフランシスコ会のマルティノ(Fra Martino)らが捕縛され、秀吉より捕らえられた者たちの耳を削ぐよう命じられた石田三成(治部少、Ibunoscio)がそれを緩和しようと努めたことをはじめ、オルガンティーノ(P. Organtino Soldo)ら現地のイエズス会士の動向などが描かれている。イエズス会士らの名が挙げられる際には「京のコレジオ、並びに大坂のカーザの上長(allora Superiore del Collegio di Meaco, e della Casa di Ozaca)というように、当時の役職と合わせて記されていて、こうした記述も上掲②フロイス報告には見られない
事件の経過を論じた後の末尾には、彼らが日本宣教の種を蒔いたザビエルに連なる日本のイエズス会士であることなどが強調されている。
教皇ウルバヌス8世によって3人が福者として公認されたことの意義や、読者が彼らから学ぶべきことなども論じられている。
本書刊行以降、19世紀半ばに至るまで、パウロ三木ら3人のイエズス会を主題にした著作や版画作品が数多く刊行され続けることになったが、本書はこうした一連の出版物、芸術作品の原点となった作品と言える。