書籍目録

『世界言語誌宝典』

デュレ / (天正遣欧使節)

『世界言語誌宝典』

第2版 1619年 イヴェルドン刊

Duret, Claude.

THRESOR DE L’HISTOIRE DES LANGVES DE CEST VNIVERS, contenant les Origines, Beautez, perfections, Decadences, Mutations, Changements, Conversions, & Ruines des Langues…(Thresor de l'histoire des langues de cest univers)

Yverdon, Societé Helvetiale Caldoresque, M. DC. XIX. (1619). <AB2020199>

Sold

2nd ed.

4to(16.0 cm x 23.6 cm), Title., 15 leaves, pp.1, 2, 1 folded charts, pp.3-292, 292(i.e.293), 294-310, 31(i.e311), 312-337, 330(i.e.338), 331(i.e.339), 340, 341, 334(i.e.342), 335(i.e.343), 344-362, 36(i.e.363), 364-367, 638(i.e.368), 369-451, 442(i.e.452), 453-888, NO LACKING PAGES, 899-979, 956(i.e.980), 981-1030. 17th Century full leather, skillfully repaired.
一部紙葉上部が印刷当時のUnopenedの状態。一部染みが見られるが判読に問題なく、用紙に大きな損傷なし。刊行当時の装丁を残して綴じ直しがされているため状態は極めて良好。【Cordier: 274-275 / NCID: BA62618695/ Kapitza: 408】

Information

「欧州に於て日本の文字を印刷せる最古の標本の一なり」(大正11年大阪印刷文化展覧会目録268)

1. 本書の概要と日本関係欧文資料としての特異な重要性
 
 本書は、当時ヨーロッパで知られていた55の言語(に加えて動物の鳴き声までもを含む)を網羅的に論じたもので、細かな活字で版組みされた四つ折り判で千ページを越えるという非常に大部の著作です。本書が大変興味深いのは、本書で検討されている55の言語の中に日本語が含まれており、日本文字の翻刻とともに日本語が詳細に論じられていることです。日本の文字の翻刻や日本語研究は、日本で宣教活動を行なっていたイエズス会によって精力的に進められていましたが、その成果は当時のヨーロッパにおいて入手が容易でなかった日本で印刷されたいわゆる「キリシタン版」において主に発表されていたため、多くの読者を得ることは非常に難しかったのではないかと思われます。それに対して本書は、初版本が1613年にケルンで、そして本書である第2版がイヴェルドンで刊行されていることからも分かるように、当時ヨーロッパで広く読まれた作品であることから、日本の文字の翻刻とともに詳細な日本語研究を本格的に展開したヨーロッパにおける最初の作品と言うことができると思われます。本書は、新村出によって昭和初期にその重要性が紹介されていた文献であるにも関わらず、その希少性も災いしてか、それ以降、国内では目立った研究がなされておらず、あたかもその存在すら忘れられてきた感のある稀覯資料です。


2. 新村出による本書の紹介とその後の研究の断絶

 本書は、新村出によって1926年という非常に早い時期に「世界言語志の古版本」(昭和元年12月26日付、昭和2年1月「書物礼賛」『新村出全集』第4巻、筑摩書房、1971年、176頁)と題した記事において紹介されていることが確認できます。新村は、親交の深かった神戸の実業家で愛書家、出版社「ぐろりあ・そさえて」の創業者であった伊藤長蔵から、本書を見せられたこと、また1922年に開催された大阪印刷文化展覧会に、京都帝国大学附属図書館が所蔵する第2版本が出展された(ただし新村が「目録265号に著録」としているのは誤りで、正しくは268号)ことを述べた上で、その詳細について下記のように述べています。

「『世界言語志宝典』とは仏国のクロード・デューレー Claude Duret が世界各国の言語凡そ五十数種について記載を試みた一千頁あまりの細字大冊本であって、諸国民族の言語文字文学の記述のほか、古文献に散見せる鳥獣の音声言辞までも書中に録してある。記述は仏文である。著者はムーランの人で博物家にして博言家を兼ね、土地の法院の学頭などをしたというだけの外、伝記を私は知らない。歿時は1611年9月すなわち我が慶長十六年だということが明らかである。(中略)本題は、THRESOR DE L’HISTOIRE DES LANGUES DE CEST UNIVERS というが、今訳して『世界言語志宝典』とした。私が見た両伊藤本は共に1619年の再版本であるが、初版は1613年に出ている。その初版本は未見であるが、コロンで印刷したらしく、再版本は瑞西のイヴェルドンで印行されたのであった。」

「(前略)すべて一括していうと、18世紀末期より19世紀初期にわたる約30年間に続出した是等学者の博言集にくらべると、この仏国のデューレーの『世界言語志宝典』は、200年以前に博言集の先鞭を着けた点に於て注意されねばならない。分量はよしや小さくとも、ともかく一千余ページを算し、誤解不備が多いながらも55種の言語を網羅しているのであるから、ライプニッツが露帝への進言(Peter Simon Pallas. Linguarum totius orbis Vocabularia comparativa Augustissimae cura collecta. 4 vols. 1787-1791.のこと:引用者注)以前百年の編纂として時代相当に認めてやらねばならぬと思う。」

「(前略)さて私が本誌の紙面を借りて特に述べようと思いたったのは、実は本書の909頁より922頁に渡って第76章をなす所の日本に関する一章十数ページのうち過半にあたる9ページほどの紙面に、日本の文字が甚だ興味深く刻せられているからである。無論文字は木版で摺ってある。
 デューレーが日本の言語と文字とについて記したところは、主として伊国のマッフェー Maffei(1536生1603年死)の『印度志』(第6巻)(Giovanni Pietro Maffei. Ioannis Petri Maffeii Bergomatis e Societate Iesu, Historiarum Indicarum libri XVI, Roma, 1588のこと;引用者注)によったのであるが、此書は1588年刊行された16巻の名著である。(中略)然しマッフェーからばかりでなく、当時の仏国の耶蘇会士や学者及び貴族の手から得た日本文字の標本もまじっておる。
 デューレーは第一に平仮名の伊呂波47文字と一二三の数字を百千万億まで挙げている。数字にはアラビア数字が附記してあるが、それは正確に充ててある。然し「いろは」の方は、僅に末の5字の外全然ローマ字を充て違えておるのは面白い。字体はよく出来ている。次に日本字が短冊形に二行書いてあるのが見えるが、右方の一行に、「賀溜次者不乱左之」とあり、左の一行に、「帝王之御兄弟の御子」とつづき、一句一句拉丁語で語解を施してある。「カルスはフランサの帝王の御兄弟の御子」という義である。次に名高い周防山口の大道寺建立に対する天文二十一年大内氏の免許状の本文の模刻がある。(中略)
 この免許状の最も古く刊本にあらわれたのは、今東京の東洋文庫に蔵せられている1570年葡国コインブラ版の『日本耶蘇会徒書簡集』(Cartas que padres e irmãos da Companhia de Iesus, que ando nos Reynos de Iapão…Coimbra, 1570のこと;引用者注)である。(中略)
 最後にゼスキリシトの恩名と、サンタマリヤの名号と、伴天連エモンド・アウゼル師の姓名と、この3名を左方から右方へ3行に万葉仮名を行書にかいたのを刻した一葉がある。(中略)師は仏人にして1530年の生れで1591年に歿し、マッフェーの拉文を仏訳した人であった(新村が挙げている1588年に刊行されたマッフェイ『印度志』の本書刊行以前の仏訳本はFrançois Arnault de la Boirieによる1604年リヨン版のみが知られており、この訳者は「アウゼル師」ではない。アウゼルは、1588年刊行『印度志』の仏訳者ではなく、それ以前のマッフェイがアコスタの資料を編纂した別の書物、Rerum, a Societate iesu in Oriente...1571 の仏訳者である;引用者注)。(後略)
 以上要するに、日本文字は(1)いろは(2)仏王族カルス(3)山口大道寺免許状(4)アウゼル師とマリヤキリシト、これらの4種であるが、第三の分だけは他の書物の模刻によったために字体が甚だしく崩壊して形が弁ぜられないようになっている。他の3種は筆蹟も明瞭でみごとに出来ている。1580年すなわち天正年度の遣欧使節のうちの者が書いたのか、それとも日本から伴天連がもちわたったのか、その辺は不明である。とにかく慶長十年代に西欧において印刻された文字として立派なものである。(後略)
 (前略)この1620年出版の『小文典』(ロドリゲス Joam RodriguezのArte Breve da Lingoa Iapoa tirada da Arte Grande da mesma Lingoa…Macao, 1620のこと;引用者注)の日本文字より、尚古いデューレーの『言語志』の日本文字は頗る珍重すべきものとせねばならぬ。」

 上記のように、本書で日本語、日本文字研究が掲載されていることの意義が、簡潔ながら極めて的確に指摘されており、昭和初期の時点で本書の重要性が十分に指摘されていたことが見て取れます。しかし、それ以降に本書が本格的に国内で研究の俎上に載った形成は、言語学、対外交渉史研究のいずれにおいても確認することができず、近年に至るまでほとんど忘れ去られていた状態にあったのではないかと思われます。その要因としては、昭和初期の時点においてすら、本書がすでに極めて稀覯であったため、本書を手にして研究することが容易でなかったことが考えられます。新村出が実見した1619年刊行の第2版(すなわち本書と同じ版)伊藤長蔵旧蔵本は現在行方が分からず、当時所蔵されていたはずの京都大学図書館にも(CiNii上では)なぜか確認できません(初版本の所蔵を確認できるのは、天理図書館、国際日本文化研究センターの2点のみ、また第2版の所蔵を確認することができるのは、九州大学図書館長沼文庫、上智大学キリシタン文庫のみ)。早くから重要文献として紹介されていたにも関わらず、久しく本書の研究が進んでこなかったのは、本書の希少性とこうした国内の所蔵状況があったのではないでしょうか。


3. 本書に掲載された日本関係記事に関する最新の研究成果が明らかにする、日本文字の最初期の提供者としての天正遣欧使節

 ところで、本書に掲載されている日本文字の翻刻とその解説は、ヨーロッパにおいて刊行された書物に掲載されたものとしては、極めて早い時期のものであることは間違い無いと思われますが、これらの興味深い日本文字は、いったいどこから、誰がもたらしたものなのでしょうか。この点について新村は「天正年度の遣欧使節のうちの者が書いたのか、それとも日本から伴天連がもちわたったのか、その辺は不明である」としているものの、その確かな出所については明らかにしていません。しかし、ごく最近になって、その謎を解く大きなヒントを与えてくれる2つの論文が発表されています。

・パスカル・グレオレ「いろは歌とアルファベットの邂逅」(小峯和明編『キリシタン文化と日欧交流』勉誠出版、2009年所収)

・Fabien Simon. Collecting Languages, Alphabets and Texts: The Circulation of ‘Parts of Texts’ Among Paper Cabinets of Linguistic Curiosities (Sixteenth-Seventeenth Century) IN Florence Bretelle-Establet / Stéphane Schmitt (eds.) Pieces and Parts in Scientific Texts. Springer, 2018.

 パスカル論文は、本書に対する直接の言及はありませんが、本書に掲載された翻刻日本文字とほぼ同じものが、本書刊行以前の1586年に刊行された別の書物(後述)に掲載されていること、またその出所についての考察が行われています。後者のSimon論文は、パスカル論文において紹介された日本文字が掲載された書物の紹介を行うとともに、その内容についてより詳細な分析に加えて、本書との関係についても論じられています。そして、 この2つの論文において明らかにされたことを組み合わせますと、本書に掲載された日本文やいろは文字といった日本文字は、フランスの王室分書庫に保管されていた資料に由来しており、そしてそれらの資料は、天正遣欧少年使節がフランス王室関係者に直接もたらした資料であるという、非常に興味深い事実が明らかになるようです。以下、両論文を手引きとして紹介します。

 パスカル・グレオレの論文では、「フランスに残存する最も古い『いろは歌』」として、本書よりもさらに早い1586年に出版された『暗号論-秘密の書記法について(Traicté des chiffres ou secréres d’écrire.)』を挙げています。著者のヴィジネール(Blaise de Vigenére, 1523 - 1596)は、外交官として活躍する中で、業務遂行に必須であった暗号式の開発で多大な成果を挙げる一方で、暗号式を技術的に刷新するだけでなく、神が創造した世界そのものを一つの暗号として解釈するようになり、『暗号論』において、その自説を展開しています。このヴィジネールの『暗号論』は、本書と同じく世界各地の言語のアルファベットのサンプルを木版画で掲載しており、日本語についても掲載されるはずでしたが、何らかの事情で掲載が間に合わず、327頁の上部には「日本と中国のアルファベット(Alphabet de la Chine & du Giapan」と記されているものの、紙面は白紙となっています。現在確認することができるヴィジネールの『暗号論』を見てみると、いずれも日本語のサンプルが掲載されておらず、やはり空欄となっています。しかし、ヴィジネールはこれを修正すべく後に「補遺」を作成したようで、この補遺を巻末に備えた1冊が、フランス国立図書館(BNF, Bibliothèque Nationale de France)に所蔵されているようです。このBNF所蔵本は、テキストの末尾に「補遺」として、英数字で327~336(CCCXXVII - CCCXXXVI)までの紙葉番号が振られていて「日本と中国のアルファベット(Alphabet de la Chine & du Giapan」が掲載されており、上記の2論文はいずれもこれを閲覧して紹介しています。Simon論文では、この「補遺」に掲載された「日本と中国のアルファベット」こそが、デュレが『世界言語誌宝典』で掲載した日本文の情報源となったものであることを指摘しています。したがって、ヴィジネールの『暗号論』の「補遺」に掲載された日本文こそが、ヨーロッパの印刷物で紹介された最古の「いろは文字」と言えるのではないかと思われます。ただし、この補遺は実際にはほとんど印刷されなかったようで、「日本と中国のアルファベット」は、現在ではこのBNF蔵本( Collection BNF RES M-V-348)とストラスブール国立大学図書館蔵本(R105361)でしか確認することができないようです。現存する補遺にはいずれもヴィジェーヌ自身の書き込みが見られるということですので、おそらくこの補遺は、ヴィジェーヌが改訂版のために用意したものの、実際にはヴィジェーヌ自身のために数部の試刷が行われただけではないかと考えられます。

 Simon論文では、このヴィジネール『暗号論』補遺に掲載された「日本と中国のアルファベット」とテキストこそが、デュレの『世界言語志宝典』における日本文との解説テキストの直接の情報源と考えられることが指摘されており、つまり、デュレは、ヴィジネール『暗号論』中のテキストと、補遺の「日本と中国のアルファベット」を、ほぼ無断で用いたものと考えられます。ただし、ヴィジネール『暗号論」補遺は、当時ほとんど刊行されなかったと思われること、デュレ自身がテキストに多くの追記を行っていることに鑑みますと、デュレの『世界言語誌宝典』が、当時実際に広く普及した書物において「いろは文字」を紹介した最初期の文献として極めて重要であるということに変わりはなさそうです。

 また、Simon論文では、「日本と中国のアルファベット」が、いったいどこから、誰によってもたらされたのかについてまで踏み込んで紹介と考察がなされています。ヴィジェーヌは「補遺」において「日本と中国のアルファベット」掲載するにあたって、これらの珍しい文字を入手できた経緯や協力者に対する謝辞を述べており、これらの文書のいくつかがフランス国王の文書庫に保管されていた貴重な資料であること、また、その3人の協力者の名前を挙げています。それは、①Monseigneur le Conte de Bouchage 、すなわちアンリ3世の文書庫の管理責任者だった ジョワイユーズ(Henri de Joyeuse, 1563 - 1608)、そして、②Monseigneur le grand prieur de France、すなわちアンリ3世の兄弟であるシャルル9世の庶子である、アングレーム公シャルル・ド・ヴァロワ (Charles de Valois, 1573 - 1650)、最後に、③Monsieur de Roüen、すなわちアンリ3世の家庭教師だった、ヴァンドーム枢機卿ブルボン公シャルル2世 (Charles II de bourbon-Vendôme, 1560 - 1594)の3名を挙げています。

 このうち、②アングレーム公シャルル・ド・ヴァロワは、掲載された日本文中において「Carolus 賀瑠須は Gallia 不乱春の Regis 帝王の Fratris御兄弟の Filius 御子」と記された人物のことと考えて間違いがないようです。天正遣欧使節は、フランスの王室関係者からパリへの来訪を熱心に勧められたものの、日程の関係上パリを訪問することはできませんでしたが、使節が訪ねたイタリアやスペインのいずれかで、フランス王室関係者との面会の場を持ったと考えられていることから、この日本文はその際に使節のいずれかの人物が記念に認め、贈呈したものと思われます。その原文、ないしは写しをヴィジェーヌは王室関係者とのコネクションを生かして入手し、「補遺」に掲載しようとしたものと考えられます。この日本文は、天正遣欧使節がヨーロッパで認めたことが確認されている他の書状の筆跡とも極めてよく似ていることから、使節のうちの誰かによるものである可能性も極めて高いと思われます(筆跡の類似の指摘については、パスカル・グレオレ論文による)。

 また、これらの王室関係者以外の異なる日本文の情報源として、王室との関係が深かったイエズス会関係者の存在が大きかったことも確認できます。まず、大きな手がかりとなるのが、その名前が漢字で「恵問津阿宇是類」で書かれているエドモンド・オジェ(Emond Auger, 1530 - 1591)で、彼はアンリ3世付きの懺悔師でという王室と極めて深い関係があり、漢字でその名が記されていることに鑑みると、エドモンド・オジェは、フランス王室関係者が使節と会談した際に立ち会っていた可能性が極めて高いと考えて良いでしょう。また、彼は、マッフェイ(Giovanni Pietro Maffei, 1536 - 1603)の『東洋におけるイエズス会に関する諸事項の歴史』第3版(Rerum, a Societate iesu in Oriente…1571)のフランス語訳(Histoire des choses memorables…1571)の訳者でもありました。彼がフランス語に翻訳した、マッフェイの『東洋におけるイエズス会に関する諸事項の歴史』は、マヌエル・デ・アコスタ(manuel da Costa, 1541 - 1604)が日本を含むインド方面からの書簡集をまとめていた未刊原稿をラテン語に翻訳して、自身の解説を付け加えた著作として刊行されたものですが、その第3版(初版と少しタイトルが異なる。Historia Rerum a Societate Iesu in Oriente Gestarum…1573)において、「大道寺免許状」を初めて紹介した書物としても名高い書物です。この書状をヴィジェーヌも「補遺」に掲載していることに鑑みると、ヴィジェーヌは、フランスのイエズス会関係者の重鎮であるエドモンド・オジェとの関係を駆使して、フランス王室文書庫の日本文書だけでなく、イエズス会が所蔵する様々な日本情報にもアクセスできたであろうことが推察されます。ヴィジェーヌは、エドモンド・オジェ以外にも、補遺のCCCXXXVvで複数のイエズス会関係者の名前を挙げているようですので、彼とイエズス会とのコネクションは相当に強固なものであったとみて良いでしょう。

 このように、この2つの論文が明らかにしていることを組み合わせますと、デュレ『世界言語誌宝典』に掲載されている日本文は、天正遣欧使節がフランス王室やイエズス会関係者に直接贈呈した文書に由来しており、そのうちの数点については使節のうちいずれかによる直筆文書であった可能性が高い、という非常に興味深い事実が見えてきます。


4. 日本語以外にも多数収録された東西インド諸言語の考察

 本書は、このように日本文字の翻刻と紹介を行った、極めて初期のヨーロッパ刊行書物と言える重要な作品ですが、日本語以外の多くの東西インド諸言語についても考察を行なっています。「東インドの諸言語概論」と題した第76章(p.883)につづいて、第77章「中国語概論」(p.900-909)が掲載されており、上述した日本語論である第76章(章番号は誤植と思われる。p.909-922)、第77章(章番号は誤植と思われる)「インドの哲学者たち」(p.922-930)、第78章「ジャワ語について」(p.930-)、第79章「西インドの諸言語概論」(p.934-967)というように、大航海時代以降にヨーロッパにとって「発見」された新しい地域の諸言語についての考察がなされています。これらの中でも宣教師らによって密度の高い情報がもたらされることが多かった中国、日本、インドの諸言語についての考察が特に充実しており、デュレがアジア諸国の言語に強い関心を持っていたことがうかがえます。


5. 本書の背景にある「ヘブライ語起源論」という強い神学的動機とそのパラドクス

 このように本書は、日本や中国、インドといったアジア地域、そして新大陸である西インドの諸言語までもを対象とにして各国語を比較しつつ論じるという大変ユニークな内容を持った作品ですが、その内容を理解するためには、そもそもこの書物の主題、問題意識がいかなるものであったのかについて理解しておく必要があります。本書は、日本語を含む55もの言語を網羅的に論じようとするものですが、本文上部の余白に「世界のあらゆる言語の起源の歴史」とあるように、言語の起源を探求することを目的としています。これは、ヨーロッパにおいて古代にまで遡る長い歴史を有する「起源の言語」を探求しようとする、いわゆる言語起源論と呼ばれるものです。その背景には強い神学的動機が働いており、言語の分裂をもたらしたとされる「バベルの塔」以前に存在していたという、言語の複数性という概念が成立する以前の唯一の言語、全ての人間が解すことができ、あらゆる事物と直接結びついていた言語を「起源の言語」として探求することによって、神が最初に発した言葉に近づこうとする目的があります。そうした神学的動機を背景にした言語起源論は、やがて「起源の言語」を継承する特別な言語が現存しているのではないかという考えに至るようになり、そうした「起源の言語」としてヘブライ語が位置付けられるという「ヘブライ語起源説」を提唱するようになります。この「ヘブライ語起源説」は16世紀頃に最も趨勢を誇ったとされています。こうした本書を貫く強い神学的動機の独特の様相については、ミシェル・フーコーが下記のように論じています。

「その本源的形態において、すなわちそれが神によって人間にあたえられたとき、言語は、物に類似しているがゆえに物の絶対的に確実で透明な記号であった。(中略)この透明性は、人間を罰するためバベルの塔において破壊された。諸言語が分化し、たがいに両立せぬものとなったのは、言語の最初の存在理由だったこの物との類似が、まず消え去ったからにほかならない。われわれはいま、この失われた相似を基底として、それが消え去ったあとの空虚な空間において話しているのにすぎない。ただひとつの言語だけが、この失われた相似の記憶をとどめている。それは、この言語がいまでは忘れられたあの最初の語彙から直接派生したものだからであり、バベルの懲罰が人間の思い出から消えることを神が望まなかったからであり、この言語が神とその民との古い〈契約〉を語るに役だったにちがいないからであり、そのうえ、神はその声に耳を傾ける者たちにまさしくこの言語で語りかけたからである。だからヘブライ語は、原初における命名の痕跡を名残りとしてとどめている。(中略)だが、それらはもはや断片的な遺物でしかない。他の言語はこれらの根源的な相似を失ってしまい、わずかにヘブライ語だけがそれを保持し、それがかつては神とアダムと原初の大地の動物たちに共通の言語であったことを示しているのにすぎない。

 けれども言語は、その名指す物にもはや直接類似してはいないにせよ、だからといって世界から切り離されているわけではない。それは別の形態のもとに依然として啓示の場であり、真理が顕現しかつ表明される空間にほかならない。なるほど言語は、もはや起源におけるあの可視性をそなえた自然ではなかろう。だがそれは、特権的なわずかの人だけがその力を認識するような、神秘的な道具でもない。それはむしろ、自らの罪をあがないつつ、ついにまことの言葉に耳を傾けはじめた世界そのものの形象である。それゆえにこそ神は、神の教会の言語たるラテン語が、地球上にあまねく広められることを望んだのだ。この征服のおかげで知られるにいたった世界のあらゆる言語が、あいつどって真理の似姿を形成するのもまたそれゆえである。原初における名の配置が、アダムのため神のあたえた物と類似していたように、あらゆる言語の展開する空間とそれらの錯綜は、救われた世界のしるしを浮びあがらせる。クロード・デュレの指摘するするところによれば、ヘブライ人、カナン人、サマリヤ人、カルデヤ人、シリヤ人、エジプト人、ポエニ人、カルタゴ人、アラビヤ人、サラセン人、トルコ人、マウル人、ペルシャ人、韃靼人は、右から左へと文字を綴るが、これは『大アリストテレスによればきわめて完全で一なるものに近い、第一天の日々の運行』に従うものだという。ギリシャ人、グルジヤ人、マロ派のキリスト教と、ヤコボ派のキリスト教徒、コプト教徒、ツェルヴィヤ人、ポスナニヤ人、そしてもちろんローマ人や全てのヨーロッパ人は、『7つの惑星の集まりである第二天の運行』にしたがって左から右へと書く。それに対して、インド人、契丹人、シナ人、日本人は、『頭を人間の上部に、足をその下部にあたえた自然の秩序』に応じて上から下へと綴り、『上記の者たちとは逆に』、メキシコ人は、あるいは下から上へ、あるいは『太陽が黄道上の歩みにおいて一年間に描くような螺旋状の線』に沿って書く。このようにして、『これら5種類の書き方により、世界の十字形の形象と十字架の形態との秘密と神秘、天空と大地の円みのすべてが、的確に示され表現されるのだ』諸言語は世界に対して、意味作用の関係にあるという以上に、類比するものとしての関係にある。というよりはむしろ、言語の記号としての価値と二重化する(=模写する)機能とが重なりあっていると言うべきかもしれない。(中略)言語のうちにはひとつの象徴機能がある。けれども、バベルの厄災以後-わずかな例外を除いて–もはやそれを語そのもののうちに求めてはならぬ。それは、言語の実在そのもののうちに、言語と世界全体との全体的な関係のうちに、言語の空間と宇宙のさまざまな場所や形象との交錯のうちに、求められなければならない。

 16世紀末、あるいは17世紀初頭に現れたような百科事典的企ての形態は、まさにそこから由来する。それは、人の知ることを言語という中性的な場所に反映しようとするのではなく–百科事典における恣意的だが効果的な配列順序としてのアルファベットの使用は、17世紀後半にならなければ見られない–空間における語の連鎖と配置によって、世界の秩序そのものを再構成しようとするのである。(後略)」
(ミシェル・フーコー / 渡辺一民、佐々木明訳『言葉と物–人文科学の考古学』新潮社、1974年、61-63頁より)

 ここで指摘されているような発想は、デュレが参照したヴィジネール『暗号論』にも通底する思考法で、ヴィジネールもデュレと同じく、神が創造した暗号としての世界の謎を解明するために、ヘブライ語を基軸として世界各地の言語のアルファベットを収集することを試みています。こうした系譜にある本書が、当時「発見」されて間もない日本語を含む55もの言語を収集、紹介しつつ、特にヘブライ語の解説に相対的に多くの紙幅を割いているのは、本書刊行の意図が、こうした強い神学的動機に基づいているからだと考えることができます。ヘブライ語起源説を基軸として世界各地の言語を網羅的に収集、紹介することで、神によって創造された世界の根源に迫ろうとうする試みは、16世紀から特に盛んになった考えられていますが、1613年に刊行された本書は、同種の著作としては恐らく最後期に属するもので、その意味では、この系譜に連なる書物の一つの完成形を表しているとも言えます。

 あらゆる言語と同様に比較可能でありながら、それらの参照軸となる特権的地位にある言語として、ヘブライ語を位置付けるという考え方は、ヘブライ語を特権的地位に置くために、あらゆる俗語を網羅的に収集し、分析することに対する非常に強い動機を提供することになりました。しかし、こうして、特権的な「起源の言語」としてのヘブライ語の地位を基礎付けるために、ヘブライ語以外のあらゆる俗語との比較分析を行ったがゆえに、絶対的で比較不可能な「一なる言語」であるべきヘブライ語の地位を結果的に喪失させてしまうというパラドクスが同時に生じてしまうことにもなりました。「ヘブライ語」という特定の言語に「起源の言語」としての特権的地位を見出そうとする試みは、一旦その思考様式が定まってしまえば、原理的には、ヘブライ語以外のあらゆる俗語も「起源の言語」として想定することが可能であるため、次第にその神学的動機が揺らぎ(稀薄化し)始めると、様々な人々が、ヘブライ語ではなく、自身の言語こそがそのような特権的地位にふさわしいのだ、と次々に主張し始めるようになっていきます。その結果、神学的動機よりも、ロマン主義的、ナショナリズム的な動機に基づいて、自身の言語の優位性を各々が主張するという状況を生み出し、結果的に、現代につながる世俗化された歴史言語学や比較言語学が、19世紀以降は特に盛んになっていくようになります(もちろん歴史言語学、比較言語学が発展した要因はそれだけによるものではありませんが)。そして、ついには、特定の俗語を「起源の言語」に位置付けようとすることさえ放棄して、「起源の言語」を人工的に「創出」しようとする試みにまで至るのでした。(こうしたヨーロッパにおける言語起源論の歴史については、互盛夫『言語起源論の系譜』講談社、2014年で非常に詳細に論じられています)。

 こうした意味で、本書は、強い神学的動機を有した言語起源論の探究が、結果的に、(日本語を含む)知り売る限り全ての言語(俗語)を網羅的に論じようという、いわば言語の博物学的探求を可能にし、結果的に後年の世俗化された比較言語学への端緒を切り開くことになるというパラドクスを体現した非常に興味深い書物とも言うことができます。


6. まとめ

 このように、ヨーロッパにおける日本文字、日本語研究の(キリシタン語学研究以外における)原点ともいうことができる、記念すべき書物である本書は、新村出が早くからその重要性を指摘していたように、より詳細な多方面からの研究が今後待たれるものです。ヨーロッパ言語学史上において登場した最初期の日本語研究であると同時に、神学的動機を背景とした言語起源論の文脈において論じられた日本語研究でもある本書は、その希少性にも鑑みますと、ヨーロッパ人による日本関係欧文史料として、極めて独自の高い価値を有する書物であると言うことができるでしょう。

刊行当時のものと思われる装丁を残す形で近年の修復が施されているため状態は非常に良好。
タイトルページ。本書で取り扱われる55の言語が列挙されている。日本語(Iapanoise)は、右端列の上から6番目にある。
目次①ヘブライ語についての記述が相当の分量を占めていることがわかる。
目次②
目次③
目次④909ページから「偉大な日本列島(De la grande Isle du Iapon)」と題して日本語が扱われている。
索引冒頭箇所。
著者による序文冒頭箇所。
本文冒頭箇所。
本書の前半部分はヘブライ語を中心とした聖書世界の諸言語が詳細に論じられている。
第76章「東インドの諸言語概論」冒頭箇所。
「インドのアルファベット」
第77章「中国語概論」冒頭箇所。
漢字についての解説が試みられているようである。
第76章(章番号は誤植と思われる)「偉大な日本列島(De la grande Isle du Iapon)(の言語について)」冒頭箇所。ザビエルの日本渡来に始まり1585年の天正遣欧使節のローマ訪問を中心に取り上げて論じている。
版画で掲載された「いろは」西洋の刊行書籍に掲載されたものとして、おそらく最初期のものと思われる。
仮名文字の横にアルファベットで読み方が記されているが、ちょうど2列ずれてしまっている(2つ左隣のアルファベットが正確な読みに対応する)。漢数字も掲載している。
「次に日本字が短冊形に二行書いてあるのが見えるが、右方の一行に、「賀溜次者不乱左之」とあり、左の一行に、「帝王之御兄弟の御子」とつづき、一句一句拉丁語で語解を施してある。「カルスはフランスの帝王の御兄弟の御子」という義である。」(新村前掲論文より)「フランス」という言葉が使われているので、この文がヨーロッパで作成されたことが分かる。天正遣欧使節のいずれかの人物が記した可能性が極めて高い。
有名な大道寺建立の許可状で、1570年以降複数のイエズス会書簡集などに掲載されてきたものを再掲している。上掲の日本文とは情報源が異なるため、当然筆致も異なっている。
「ゼスキリシトの恩名と、サンタマリヤの名号と、伴天連エモンド・アウゼル師の姓名と、この3名を左方から右方へ3行に万葉仮名を行書にかいたのを刻した一葉」(新村前掲論文より)「恵問津阿宇是類」で書かれているエドモンド・オジェ(Emond Auger, 1530 - 1591)で、彼はアンリ3世付きの懺悔師でという王室と極めて深い関係があり、漢字でその名が記されていることに鑑みると、エドモンド・オジェは、フランス王室関係者が天正遣欧使節と会談した際に立ち会っていた可能性が極めて高い。
第77章(章番号は誤植と思われる)「インドの哲学者たち」冒頭箇所。