書籍目録

『(イエズス会)1582年(実質1581年度)日本年報』

コエリョ

『(イエズス会)1582年(実質1581年度)日本年報』

1585年 ヴェネツィア刊

Coeglio (Coelho), Gasparo(Gaspar).

LETTERA ANNALE PORTATA DI NOVO DAL GIAPONE Da i Signori Ambasciatori Delle cose iui successe l’anno M D LXXXII.

Venice, Gioliti, M D LXXXV.(1585). <AB2020191>

¥440,000

8vo (10.0cm x 15.0 cm), pp.[1(Title.), 2], 3-103, Contemporary ? parchment.
装丁、本文共に良好な状態。小口は三法とも朱色に染められている。[Laures: JL-1585-KB40-169-88] / [Boscaro: 1]

Information

信長の庇護下にあって絶頂期にあったイエズス会による天草はじめ日本各地での布教状況を詳述

 本書は、「1582年のイエズス会日本報告」として、初代日本副管区長コエリョが1582年2月13日に長崎で認めたものです。この書簡が認められた直後の2月20日、巡察使ヴァリニャーノは天正遣欧使節を伴って長崎を発っており、本書の冒頭部分では、使節の4人の少年の概要やその企図するところ、出発時の様子などが描かれていて、天正遣欧使節に関して記述した最初期のヨーロッパ側の文献とされています。また、それに続く各地の布教状況に関する記述は、信長を中心とした有力者の庇護のもとに日本のキリスト教界が最大の活気を見せていた時期の様子、またそうした時期にフロイス(Luís Fróis, 1532 - 1597)からの強い要望を受けて畿内を訪れたヴァリニャーノ(Alessandro Valignano, 1539 - 1606) の様子を克明に描き出しています。このように本書は主に1581年前後の出来事を記した単年の年報でありながらも、本能寺の変によって安土城が焼亡する直前の時期における日本での活気に満ちた布教の状況はもちろん、信長による天下統一が進みつつあった激動する日本の社会、政治状況を詳しく報告しているという、大変密度の濃い記事で構成されています。

 この報告は、1580年に巡察使ヴァリニャーノが定めた三つの布教区(下、豊後、畿内)毎になされています。ヴァリニャーノはそれまでの日本報告が執筆者個々人によって自由な形式で、任意のタイミングで執筆されていたのを改め、執筆されるべき時期や、そこに記すべき項目を定め、上長による確認を経てから発するように命じ、「日本年報」としての形式を整えるようにして、1579年末の報告からこの形式に則って報告が送られるようになりました。本書もこのヴァリニャーノによる方針に則って執筆されており、1581年(関連するその前後の出来事も含む)における日本の状況が整然と報告されています。

「1579年に総長から日本巡察師という資格で日本に派遣されて来たアレシャンドゥロ・ヴァリニャーノは、自分が海外において繙いた日本発信の書簡に基づく知識と、日本に足跡を印して後の見聞とがあまりにも大きく相違していることに驚き、ローマの総長宛の書簡中では、その相違は「白と黒」ほど大きいとまで表現した。そして日本から海外に向けて発信される公開性の通信に関して原則を定めた。
 この巡察師が当初に定めた制度は、各地に分散しているイエズス会員は、上長に、できるだけしばしば駐在地の状況を報告し、各地区の上長は全日本の上長、すなわち初期には日本布教長(スペリオール)、ついで昇格して日本副管区長と称された者に届ける。全日本の会の上長は側近の担当司祭にこれを「年報」として編纂させ、毎年冬期に日本から海外に向かう船に託することにした。その際、やはり3通、同内容のものが、主としてポルトガル語、ついでスペイン語、イタリア語に訳されたり、原文が後者である場合にはポルトガル語訳文が作成された。周知のように1580年から1640年までは、スペイン国王がポルトガル国王を兼ねていたので、日本からの「年報」はやがて4通作成されるようになり、2通はゴア経由、2通はマニラ、メキシコ経由でヨーロッパに送付されることになった。
 巡察師ヴァリニャーノは「年報」はかくあるべしとて自ら指導して1579年12月1日付の総長宛年報をフランシスコ・カリオンをして執筆させたが、それは先ず、日本におけるイエズス会の一般状勢、国内状勢、ついで肥前、肥後、筑前、筑後、豊後、京都、山口等の各地方の布教活動に及び、短い結語をもってするものであった。この形式の年報によって、従来の混乱や誤謬は、日本の事情に通暁する者、および上長の権威と判断によって是正され、受信者が日本の過ぐる一ヵ年の情勢を容易かつ的確に理解できるようになったことは明らかである。」
(松田毅一監訳/ E・ヨリッセン協力 / 家入敏光ほか訳『16・17世紀イエズス会日本報告集:第一期第一巻、同朋舎出版、1987年、解説viii-ixページより) 

 この形式に従って、本書ではまず最初に1581年中のイエズス会全体の情勢や日本の社会状勢一般が報告されています。ここでは先に述べたように、ヴァリニャーノによって天正遣欧使節のローマ派遣が決められた経緯や、その人選の理由などについても述べられていて、ヨーロッパで刊行された書籍において天正遣欧使節のことが初めて伝えられた記事として大変重要なものです。

 これに続いて、「下(Ximo」布教区である、長崎(Nangasache)、大村(Omura)、当時セミナリオ(Seminario、イエズス会による中等教育機関)のあった有馬(Arima)、平戸(Firando)、天草(Amacusa)といった、各地の詳細が述べられています。これらの地域ごとの報告は、その地域に置かれていたイエズス会施設の状況やそれを中心とした信者や地域社会の状況が詳しく報告されていて、大変興味深い内容となっています。たとえば、天草における報告(25ページ〜)では、下記で紹介されているような事柄が報じられています。

「1581年9月の初め、五畿内視察を終えたヴァリニャーノは豊後に到着した。そして10月末、豊後から下教区に向かったが、今回は九州南部を船で巡回した。豊後を出帆して日向、ついで薩摩の幾つかの港に立ち寄り、11月の半ばごろ天草(河内浦)に赴いた。フロイスは、薩摩から先、ヴァリニャーノが天草へ来たことには全く触れていないが、1582年2月15日付、長崎発信、ガスパル・コエリョのイエズス会総長宛、「天草の修道院およびキリシタン宗団について」の項で、次のように記述されている。

 『天草の島は入海によって肥前国から隔てられた肥後国にあり、同島は目下、薩摩国王と同盟している5人の領主によって分割されている。その内、主だった者は天草の領主であり、彼の所領においては多数の町村におよそ1万5千人のキリシタンがいる。倒置法にはかつて3つの司祭館があったが、今ではただ一箇所に減り、司祭2名および修道士2名が駐在し、他の司祭館と同様に彼らの助けとなるより多くの人手を待ち望んでいる。本年、数カ所に教会が建てられ、龍造寺および薩摩の戦によって司祭たちは大いに妨害を受け恐怖を懐いていたとはいえ、キリシタン宗団を教導し保持する上で多大な成果が得られた。』(後略)」
(玉木譲『天草河内浦キリシタン史:イエズス会宣教師記録を基に』新人物往来者、2013年、93-94ページより)

 ところで,上掲引用文には「1582年2月15日付」とありますが、本書は「1582年2月13日付」となっています。これは、上掲引用文が参照したのが、本書ではなく、いわゆる『エーヴォラ版・日本書簡集』(Iesus, Cartas Que Os Padres E Irmãos da Companhia de Iesus escreverão dos Reynos de Iapão & China…Evora, 1589)に掲載されたコエリョ書簡であるためです。『エーヴォラ版・日本書簡集』に収録されているコエリョ書簡はポルトガル語で書かれており、玉木氏が記されている通り確かに「1582年2月15日(quinze de Fevereiro do anno de 82)」(同書第2部17葉)とあります。この違いは、上掲の松田毅一氏による解説文にもある通り、同じ書簡が4通作成されて異なるルートでヨーロッパにもたらされていたことによるものと思われ、本書と『エーヴォラ版・日本書簡集』に収録されたコエリョ書簡の日付が異なっているのは、異なる情報源によっているためと考えられます(あるいは、当時の刊本では数字の3と5を取り違えて誤植されることが多々あったため、たんなる誤植という可能性ももちろんあります)。なお、このコエリョによる書簡は2月13日付のものも、2月15日付のもののいずれも、ローマのイエズス会文書館に所蔵されている日本・中国関係文書(Jap.Sin.)の中には含まれていないようで、最も近い時期のコエリョ書簡としては1582年1月12日付のポルトガル語書簡(Jap. Sin. 9I, 76-80v)しかありません(店主未見)。

 さらに、本書と『エーヴォラ版・日本書簡集』収録書簡との間にはこうした日付の相違だけでなく、内容そのものにも少なくない相違が見られ、この天草の記述だけでも大変興味深い事例を確認することができます。すなわち、玉木氏は上掲引用文に続いて下記のように記されていますが、この記述は『エーヴォラ版・日本書簡集』に収録されたコエリョ書簡にだけ見られる内容で,本書にはこのような記述は見当たりません。

「(『(前略)当地(天草のこと:引用者)の領主は我らに深い喜悦と安堵をもたらしつつ国を治めているが、政治を青年の子息に譲り、日本の慣例通りに隠居した。キリシタンたちは子息の彼らに対する態度が父のそれと大いに異なるのを見て彼(の隠居)を惜しんだ。しかし、巡察師が都からの帰途、彼の所領を通った時、諸人が彼を歓待し青年は自らの誤りに気づいたので、(巡察)師に許しを請い、これまでの行いを改めて以後は司祭たちに従い、キリシタンの柱となり、これを擁護することを約束した。』

 こうして、コエリョの報告によれば、家督を相続したドン・ジョアンはあまり信仰に熱心でなかったが、巡察師が同地を訪れた際、諸人が彼を歓待する姿を見て自らの誤りに気づいて回心し、キリシタンの信仰に目覚めたとある。しかしドン・ジョアンはそれ以前に誓願を立て、信仰に殉ずることを公言しているので、ここはコエリョのヴァリニャーノに対する「ヨイショ」と見るべきだろう。」
(玉木前掲書94ページより)

 この「コエリョのヴァリニャーノに対する「ヨイショ」」に相当する記述は、『エーヴォラ版・日本書簡集』に収録されたコエリョ書簡だけに見られるもので、このことは、両書の情報源の相違だけによるものはなく、書簡を公刊するに際しての両書がとった編集方針の相違に起因する可能性も考られる大変興味深いことです。書簡執筆当時により近い「リアルタイム速報版」として1585年に本書刊が行される際には、何らかの理由でこの箇所の記述が適当でないという判断がなされ、削除されることになった一方で、より後年の1589年になって「書簡集」として刊行された『エーヴォラ版・日本書簡集』にコエリョ書簡が収録される際には、そのような削除がなされず「コエリョのヴァリニャーノに対する「ヨイショ」」が記述そのままに掲載された可能性もあるのではないかと考えられます。イエズス会日本書簡集の古典的名著として名高い『エーヴォラ版・日本書簡集』に収録されたコエリョ書簡と、速報版としての性質が強い本書の内容の相違は、単年あるいは数年分の速報性の高い「日本年報」と、それらを一定の期間分大量にまとめて編纂した「書簡集」が、それぞれ公刊に際してどのような情報源に基づいているのか、またどのような方針に立って編集がなされているのかを考える上で大変興味深い一例とも言えるでしょう。

 天草の記述に続いては、「豊後(Bungo)」布教区である、当時ノヴィシャド(Novitiato、イエズス会による初等教育機関)のあった臼杵(Vsuchi)、コレジョ(Collegio、イエズス会による高等教育機関)のあった府内(Funai)といった、下布教区以外の九州各地の状況が詳細に報告されます。

 そして「都(Meaco)」布教区内の中心である、京都(Meaco)や、当時セミナリオが置かれていた安土(Anzuchyama)、高槻(Tacasuche)、河内(Cauaci)といった近畿地方各地の状況を詳細に報告しています。畿内各地におけるイエズス会は信長の熱い庇護の下、まさに絶頂期にあったと言え、本書における記述も将来に対する大きな期待に満ちた記述となっています。コエリョは戦乱の状況にある日本各地での苦労や困難を報告しつつも、着実にキリスト教信者となるものが増えつつあることや、各地で活動するイエズス会士の人数などを細かに伝えており、当時の日本の社会状況を知る上での大変貴重な情報を提供しています。

「まさに、この1578年(天正6年)から信長暗殺の1582(天正10)年が、日本キリスト教の絶頂期をかたちづくる。そしてこの絶頂期にヴァリニャーノは日本に来て、信長に会い、使節を連れて去ったのである。思えば、天正少年使節とは、この絶頂期が生み出したものであった。」
(若桑みどり『クアトロ・ラガッツイ:天正少年使節と世界帝国』文庫版上巻、集英社、2008年、395ページより)

「1582年2月15日付けでコエリョがイエズス会総長宛に長崎から発信した報告書である。本書に「安土山の修道院および司祭館について」の記事があり、織田信長が本能寺で亡くなる前の安土の様子が記されている。信長は、近江国安土山の市に居住し、この市は、日本中で最も壮麗で建物の豪華さは他の市をしのいでいる。信長の城は、7層の天守を持つ驚くべき建築様式で,城内には黄金で装飾の施された豪荘かつ優美な家々があると紹介されている。」
(神崎順一「197 コエリョ『1581年度日本年報』ヴェネツィエア 1585年刊(解説)」天理大学附属天理参考館・天理大学附属天理図書館『大航海時代へ:マルコ・ポーロが開いた世界』2020年所収記事、155ページより)

 しかしながら、この希望にあふれた報告の直後に本能寺の変が生じたことによって、近畿地方各地の布教(のみならず日本の社会状況全般)は劇的に変化を余儀なくされることになります。信長暗殺については、本書である1582年日本年報の補遺として、フロイスが速報板として報じたことでヨーロッパでも広く知られるようになりますが、本書における記述はその直前の安土をはじめとした近畿各地の状況を伝えたものとして、その直後の報告とのコントラストも含めて大変重要なものと言えるでしょう。

 なお、本書は単年の日本年報としては、かなりよく読まれたようで、本書が刊行された1585年だけでもローマ版、ミラノ版、本書とタイトルが異なる別のヴェネツィア版と、本書を含めて4種の異なる版が刊行されているだけでなく、翌年1586年にはフランス語訳版、ドイツ語訳版までもが刊行されています。当時これだけ多くの版や翻訳版が刊行された背景には、1585年にローマ教皇グレゴリウス13世と謁見を果たした天正遣欧使節が巻き起こした一大センセーションも関係しているのではないかと思われます。そのため、天正遣欧使節に関するヨーロッパで当時刊行された書籍を集めた文献目録(Boscaro Adriana. Sixteenth Century European printed works on the first Japanese mission to Europe: A descriptive bibliography. Leiden: Brill, 1973. )においても、本書は冒頭を飾る第1番として掲載されています。

刊行当時、あるいは少し後年に施されたと思われる想定で,本文含め良好と言える状態。
タイトルページ。
本文冒頭箇所。1581年中の日本における布教状況、社会状況の概説から始まっている。
下(Ximo)
有馬(Arima)
大村(Omua)
平戸(Firando)
天草(Amacusa)
豊後(Bungo)
臼杵(Usuchi)
府内(Funai)
京都(京、Meaco)①
京都(京、Meaco)②
安土山(Anzuchyama)
高槻(Tacasuche)
河内(Cauaci)
本文末尾。「1582年2月13日」とあり、『エーヴォラ版・日本書簡集』に収められているコエリョ書簡の日付(同年2月13日)とは異なっている。