書籍目録

『インド誌:インド書簡集』(2作品合冊)

マッフェイ / セルドナーティ(訳)

『インド誌:インド書簡集』(2作品合冊)

イタリア語(トスカーナ語)訳版 1589年 ヴェネツィア刊

Maffei, Giovanni Pietro / Serdonati, Francesco (tr.)

LE HISTORIE DELLE INDIE ORIENTALI; …TRADOTTE DI LATINO IN LINGVA Toscana, da M. FRANCESCO Serdonati Fiorentino. CON VNA SCIELTA DI LETTERE SCRITTE delle Indie,…

Venice, Damian Zanero, 1589. <AB2020182>

Donated

Edition in Italian(Toscanian)

Large 8vo (14.0 cm x 19.5 cm), Title., 29 leaves, 416 numbered leaves(no.1-3, 8[i.e.4], 5-14, 13[i.e15], 16-25, 27[i.e.26], 27-81. 81[i.e.82], 83-105, 10[i.e.106], 107, 108, 111[i.e,109], 110, 112[i.e.111], 112-124, 126[i.e.125], 126-262, 261[i.e.263], 264-279, 278[i.e.280], 281-416), Later card boards.
装丁の一部に傷み、用紙に染みが見られるが概ね良好な状態。

Information

16世紀末から17世紀にかけて大ベストセラーとなり、当時のヨーロッパにおける日本情報の原型を提供した名著のイタリア語(トスカーナ語)訳版

 本書はイエズス会士の著名な著作家であったマッフェイ(Giovanni Pietro Maffei, 1536? - 1603)によって執筆された、ポルトガル(並びにスペイン)による日本を含む「東インド発見」とその歴史を綴ったものです。ヨーロッパ人による東インドへの航海が始まって以降、執筆当時の現代に至るまでの歴史をイエズス会による宣教史を中心に据えて論じたもので、当時のヨーロッパにおける大ベストセラーとなったことで知られる作品です。また、後半には「インド書簡集」として、そのほとんどが日本に関係する、ザビエルによるインド宣教開始から1570年代前半までの間に宣教師が認めた数多くの書簡を収録しており、ザビエルを筆頭にフロイスやアルメイダといった九州や西日本各地で活躍した宣教師たちによるこれらの書簡からは、当時の日本の政治、社会状況を臨場感を持って垣間見ることができる大変興味深い内容となっています。本書は1588年にラテン語で刊行された初版本を底本にイタリア語(トスカーナ語)に翻訳して1589年にヴェネツィアで刊行されたもので、同年にフレンツェで刊行されたイタリア語訳版と並んで最初期の翻訳版と言えるものです。

 マッフェイは、当時のイエズス会を代表する著作家で、特に歴史書の編纂において多大な功績を残した人物として知られています。マッフェイは、日本を含む世界各地のコレジヨの模範となるべくイエズス会によって運営されていた最も権威あるローマのコレジヨで教鞭をとっていたことからもわかるように、その豊かな学識と文体の洗練さにおいて当時から誉れ高く、彼が編纂したイエズス会の歴史関連の作品は、ヨーロッパ各地で広く読まれたため、イエズス会そのものの権威と影響力を高めることにも大いに貢献しました。マッフェイは本書を手掛ける前に、イエズス会によるインド宣教史に関する作品として、『東洋におけるイエズス会に関する1568年までの出来事』(HIstoria Rerum a Societate Iesu in Oriete Gestarum. 初版1571年、1574年まで毎年改訂版が刊行されタイトルも異なる)を刊行していました。この作品は、ポルトガルのイエズス会士ダ・コスタ(Manuel da Costa, 1541 - 1604)が、ザビエルによるアジア宣教の開始以来、イエズス会士に認められた書簡を編纂して『東方布教史』と題してポルトガル語草稿にまとめていたものを、マッフェイが全てラテン語に翻訳し、自身の解説を付して刊行していたものです。この作品は、当時ヨーロッパの多くの人々にとって未知の世界であったインド世界の実情を詳細に伝えた貴重な書物として非常によく読まれ、1574年に至るまで毎年改訂版が刊行されました。しかし、その一方のでこの作品に対しては、当時のイエズス会によるインド宣教の責任者で中心的役割を果たしていたヴァリニャーノ(Alessandro Valignano, 1539 - 1606)によって、その内容に誤りが多いことが指摘され、より正確で包括的な『インド誌』が新たに刊行されることが求められていました。マッフェイ自身は日本はもちろんのこと、インドのいずれの地にも実際に宣教に赴いたことはなく、イエズス会士によって送られてきた書簡を通じてしか現地の知識を得ることができなかったため、その内容に誤りや誤解に基づく解釈があることは決してそれほど責められることではありませんでしたが、マッフェイはこのヴァリニャーノによる批判を真摯に受け止め、本書の刊行に取り掛かることにしました。

 ヴァリニャーノは、自身が実際にインド宣教に赴くようになってから、それまでイエズス会士による書簡等の文書資料から得ていた現地の情報と実態があまりにも乖離していることに強い危機感を覚え、それまで各地各人によって任意の形式で送られていたこれらの書簡を「年報」として改め、その形式、記すべき(記すべきでない)内容、ヨーロッパまでの発送方法と中継地点における確認(検閲)のあり方を定め、より正確で統一的な形式に則った年報が作成されるよう改革に努めました。また、実際のインド宣教に携わっている責任者によってその内容が全て確認、校閲された上で、これまで以上に正確で包括的な『インド誌』が刊行されることが望ましいと考え、マッフェイの執筆作業に全面的に協力し、緊密に連絡を取りました。

「ヴァリニャーノは、ヨーロッパにおいて印刷される書翰集ではインドの状況が誤解されたり、誇張されたりするだけでなく、情報が不足していたり、印刷することを考慮せずに執筆されることもあるので、誤りが多いとしている。それ故、彼は、書翰集を再版する際にはインド管区による検閲制度の導入が必要であると考えている。この場合の書翰集とは、上記のマッフェイの書翰集であること明らかである。」

「こうした状況にあって、マッフェイの『インド史』は、インド管区とヨーロッパ側とが連絡を取り合って作成された著作である。マッフェイは、(イエズス会の;引用者)総長から『インド史』の執筆を命じられており、インドに関する情報の収集にはインド管区からの全面的協力を得ている。」

(浅見雅一「キリシタン時代における日本書翰集の編纂と印刷」『史学』第71巻第4号、2002年所収論文、11, 14-15頁より)

 このように、インドで実際に宣教活動に従事している最高責任者であるヴァリニャーノと、当時のイエズス会で最高の著作家として名高かったマッフェイとが全面的に協力して完成した作品が本書です。本書初版は1588年にフィレンツェで刊行され、翌年1589年にはローマ、フィレンツェ、ヴェネツィア、リヨンなどヨーロッパ各地で再版され、それ以降も17世紀前半にかけて数えきれないほどの再版本が刊行されるという、大ベストセラーとなりました。本書は初版刊行翌年の1589年にヴェネツィアで刊行されたもので、フランチェスコ・セルドナーティ(Francesco Serdonati, 1540 - 1602)によるイタリア語(トスカーナ語)訳版です。イタリア語訳(トスカーナ語訳)版は1589年にフィレンツェでも刊行されており、本書はこのフィレンツェ版と並んで最初期の翻訳版と言えるものです。特徴的なサラマンダーの社章(出版社マーク、デバイス)で知られる Damian Zaneiro による刊行で、同社は本書と同時にラテン語版も刊行しています。このイタリア語訳版は、原著ラテン語版に収録されていたイエズス会創始者ロヨラの伝記が収録されていませんが、その一方で原著ラテン語版にはなかった詳細な索引が設けられていて、事項や、人名、地名などから関係記事を素早く見つけることができるようになっています。

 本書は大きく分けて2つの作品で構成されていて、それぞれが「書(章、Libro)」でさらに細かく分けられています。最初に収録されている部は、マッフェイによる『インド誌』の本体部分とも言うべきもので、全16章(書)で構成されています。ここでは、ポルトガルを中心としたヨーロッパ人と「インド」との邂逅の歴史と現地事情について論じられていて、古代におけるインド知識の概説にはじまって、大航海時代によって飛躍的に知識が増大したインド事情について、その航海の歴史や「発見」の歴史、そしてなによりイエズス会による宣教の歴史が包括的にまとめられています。日本については主に12章(第200葉裏面〜)、ならびに14章(第241葉表面〜)で論じられており、ここでは日本の地理的概況、風土や気候、農林水産物、産出される鉱物資源、人々の気質や風習、文化、宗教、政治状況と統治機構、歴史など、多岐にわたるトピックが解説されていて、当時のヨーロッパにおける日本情報の雛形として絶大な影響を残すことになりました。この影響は、カソリック世界だけにとどまるものではなく、オランダやイギリスといった次第に勢力を増しつつあったプロテスタント各国においても絶大なものがあり、このマッフェイの日本情報に基づいて後進のプロテスタント国による日本接近がなされるようになっていくことになります(この点については、フレデリック・クレインス『17世紀のオランダ人が見た日本』臨川書店、2010年、特に第2章を参照)。たとえば、新興国オランダの東方進出への大きな契機となったことであまりにも有名な、リンスホーテン(Jan Huygen van Linschoten, 1562? - 1611)の「東方旅行記」(1596年)に記された日本情報は、そのほとんどの情報源が本書によるものであることが知られています。

「(前略)リンスホーテン『東方案内記』の記述内容を精査すると、リンスホーテンは日本の章を著すにあたって、ヘリツゾーンから得た情報ではなく、イエズス会士の著作を執筆の指針として利用したことが分かる。その中でもリンスホーテンは特にマッフェイ『インド史』を大いに参照している。マッフェイはイエズス会の歴史家であり、『インド史』の第12章で日本を扱っている。マッフェイは、その情報源としてイエズス会の巡察師ヴァリニァーノやフロイスの記述を利用している。オランダ人に日本についての第一印象を与えたのがこの『東方案内記』であった。」

「日本は寒くて、住みにくい国であり、日本人は質素で我慢強い性質を持っている。慣習は他の民族とまったく違うため、異質な民族である。その起源は中国から流されてきた反逆者であるとされているが、慣習も言語も中国人と異なる。法がとても厳しく、礼儀を重んじる民族である。また、宝石などではなく、茶器や書画、刀を高く評価している。国制は封建的であり、君主は配下に対して絶対的な権力を持っている。イエズス会士は、日本で強い基盤を持ち、長崎という港で銀の貿易を独占している。このような日本観は、当時のイエズス会士の報告を基に形成されたものであるが、リンスホーテンはそれを概略的にオランダの読者に紹介した。
 オランダ人をアジアに導いた『東方案内記』は大きな影響力を持ち、17世紀を通じてオランダにおいてアジアに関する標準書となったことは言うまでもないが、日本に関しても、カロンの『日本大王国志』が1654年に出るまで、『東方案内記』がほとんど唯一の情報源であった。つまり17世紀前半において日本についての情報を知りたいオランダ人は、イエズス会士の記述を情報源としたリンスホーテンを参照したということになる。」
(クレインス前掲書、53-53, 65-66頁)

 このように、本書の最初の部分においてマッフェイによってまとめられた日本情報は、『インド誌』自体が幾度となく再版されることで大きな影響力を持っただけでなく、その記述を典拠とした別の著作がさらに絶大な影響を各地で及ぼすことによって、ヨーロッパ中における日本観を規定する原点となっていきました。

 続いて本書を構成しているのは、「インド書簡集」として全4章からなる部分(第295葉裏面〜)で、この部分は「インド」書簡集とされているものの、(末尾掲載の一部のブラジル関係書簡を除き)実質的にはほとんど全てが日本に関係する書簡で占められています。ザビエルが1549年7月にマラッカから発信した書簡に始まり、1573年7月京都発の書簡に至るまで、数多くの日本関係書簡がマッフェイによってラテン語に翻訳された上で100ページ余りに渡って掲載されていて、前半部においてインド全体の知識、就中日本についての基本情報を得た読者が、イエズス会宣教師らによって現地から発信された書簡を時系列に沿って臨場感を持って読むことができる構成となっています。ザビエルによる日本渡航直前の心情を記した書簡から、実際に日本に到着してからの様子を書き記した書簡、また日本の協力者パウロが認めた書簡、そしてザビエル没後に日本で活躍していく数多くの宣教師たちによって、日本各地から発信された書簡がここには収録されていて、通読することで「日本宣教史」として理解できる内容となっています。本書に収録されている書簡は後年になって別の書簡集に再録されたり、またその一部は現在日本語で読むことができるものも多数含まれていますが、いずれの書簡も単なる宣教報告にとどまるものではなく、当時の日本の政治、社会状況を垣間見ることができる貴重な史料の宝庫となっています。特に九州(豊後)や山口、京都といった西日本各地の情報は、本書が収録年代としている時代に、紆余曲折がありながらも宣教活動が大いに発展した地域だけにその内容が非常に充実していて、時系列に沿ってこれらの地域史を理解することさえ可能となっています。たとえば、豊後を中心に活躍し、五島や平戸、そして天草宣教において大きな貢献を成した宣教師アルメイダ(Luís de Almeida, 1525? - 1583)の書簡だけでも、①1561年10月豊後発、②1562年10月(発信地記載なし)、③1564年10月豊後発、④1565年11月(発信地記載なし)の3本の書簡があり、またフロイス(Luís Fróis, 1532 - 1597)、オルガンティノ(Organitno Gnecchi-Soldo, 1533 - 1609)らといった現在でも非常に良く知られている錚々たる宣教師たちの書簡を本書で見ることができます。

 興味深いところでは、ヴァリニャーノ以前に日本布教の責任者であったカブラル(Francisco Cabral, 1529 - 1609)による1571年10月口之津発書簡があり、この書簡ではアルメイダによって着手された天草布教が大きく実りをもたらし、カブラルによって天草領主天草鎮尚とその長子久種の受洗がなされた際の下記のようなやりとりや出来事が詳細に記されています。

「天草の領主天草鎮尚は、カブラルのもとへ再三にわたって使者を遣わし、人びとがデウスの教えを聴きたがっているので、同地に来て、デウスの教えを説いていただきたいと切に要望した。1571年の初め、カブラルは鎮尚の要請に応じて、アルメイダと、通訳のヴィセンテ洞院を伴って天草を訪れた。カブラルらが最初に到着したのは、本土の城であった(現在、「天草キリシタン館」が建っている城山一帯が本土城主天草種元の城域であった。本土城の出丸であった丘が今の殉教公園で、その本丸跡に「天草キリシタン館」が建てられた。」
「(前略)このころ(志岐;引用者)麟泉は棄教して仏教徒に立ち返り、キリシタンを嫌悪するようになっていた。そして麟泉は、天草鎮尚が自領内にキリストの教えを受け入れないように仏僧らに働きかけ、あらゆる手を尽くして天草氏のキリスト教入信を妨害した。天草氏に海外貿易を横取りされることへの猜疑心と、天草が富国となることを恐れたためであった。この麟泉の策謀によって風向きが変わり、鎮尚の態度が一変し、カブラルを失望させた。」
「このため、カブラルは天草布教を断念して帰途に就こうとしたが、アルメイダは彼をなだめ、天草殿の本拠である河内浦城へと赴いた。(中略)実りを諦めかけていたその予期しないときに、天草鎮尚は大半の家臣を伴ってキリシタンとなった。これに続いて多数の村々がキリシタンとなり、そのうえ、河内浦で偉大な説教師として知られた一向宗の頭の僧侶までが回収した。
 さらに、アルメイダが求めていた天草殿の18歳になる長子久種も受洗した。天草鎮尚はドン・ミゲル、久種はドン・ジョアンという教名を授かった。」
(玉木譲『天草河内浦キリシタン史:イエズス会宣教師記録を基に』真人物往来社、2013年、53-54頁。またアルメイダによる天草布教については第2章を特に参照のほか、108ページから掲載されている「アルメイダ年賦」も参照)。

 また、1570年代に入ってからは、信長と彼の勢力の伸長、イエズス会との関係などを報じたフロイスらによる書簡も本書には収録されていて、実にさまざまな切り口から活用することが可能です。本書を繙くと、マッフェイによるインド事情全般の解説と充実した日本情報記事を見出すことができ、さらにこれらの臨場感あふれる日本から発信された書簡を読むことができた当時のヨーロッパの読者は、ある意味では同時代の日本に暮らす人々よりも、いち早く詳細に同時代の「日本情報」に触れる機会があったのではないか、という感さえ起こります。

 本書はこのように、その内容が非常に充実した作品となっており、当時の日本を含むインド宣教の最高責任者であったヴァリニャーノとイエズス会最高の著作家の1人であったマッフェイとの緊密な共同作業が結実した優れた作品として、数多くの読者を獲得することに成功しました。先に見たようにその影響力は直接的にせよ、間接的にせよ絶大なものがあり、多年にわたってインド情報、とりわけ日本情報の雛形としての役割も果たし続けることになりました。

「イエズス会の布教報告の蓄積とともに、これらに集められた情報を総合した著作の必要性が唱えられ、その任にあたったのが人文主義者マフェイでした。『東方布教史』はもともとコインブラのマヌエル・ダ・コスタがポルトガル語で記したもの、マフェイはその手稿をラテン訳するとともに、いわゆる「日本書簡」を編集した De Japonicis Rebus Epistolarum 等原著の約四倍に及ぶ大量の増補を行いました。
 ところがこれが公刊されると、ダ・コスタをはじめ、イエズス会内部から誤謬の指摘が相次ぎ、マフェイはあらためてイエズス会の布教史編纂に取り組むこととなりました。まず1578年イベリア半島へ赴くと、リスボンで、さらにコインブラやエヴォラのイエズス会文書を調査し、またローマのイエズス会本部からも大量の資料を入手したほか、たとえば晩年のメンデス・ピントにも面会して情報を得ています。また、特に日本については天正遣欧使節が携えてきた、ヴァリニャーノの『東インドにおけるイエズス会布教史』第一部など、新たな文献をそろえ、万全を期しました。このような周到な準備のうえで執筆された『インド史』は、刊行されるとただちに数版を重ね、十七世紀前半までしばしば上木されています。」
(放送大学附属図書館所蔵日本関係コレクション展示会『西洋の日本観:フロイスからシーボルトまで』「32 マフェイ『全集』1747年」解説記事より)


「『東インド史』はザビエルの事蹟に則り、アフリカ、インド、東南アジア、日本での布教、新大陸での布教について紙面が割かれていますが、現地の文化、習慣、地誌といった視点も多彩に盛り込まれています。とりわけ日本については、主に480頁後段から495頁まで記述されています。ポルトガル人イエズス会士ガスパール・ヴィレラ(Gaspar Vilela, 1525~1572)の日本発信書簡や、フロイス執筆の日本年報冒頭に記載されることの多い、下(Ximo)、四国(Xicoco)、都(Meaco)の説明、中国、五島列島との位置関係、気候、山岳と比叡山、植生、家畜の解説にはじまります。マッフェイの日本記述を記載順に端的にまとめますと、以下のようになります。
 日本の文化・習俗の項目(483~486ページ)は、断片的で短い解説が多いのが特徴です。日本人の忍耐力、食事の作法、日本酒(米製ワイン)の飲酒習慣、茶の作法、茶道具の価値、日本刀の価値、比叡山焼き討ちの経緯、日本語についての解説、長刀の使用法、着物、靴、日傘、色彩と歓喜の関連性(喜びの色としての黒と赤、悲しみの色としての白)、臭いの感じ方、白湯を好む習慣、おはぐろ、公での歩き方、乗馬法、敬意を持った態度(靴を脱ぎ、屋内で靴を脱ぐ)、看病(ヨーロッパと違い、病人に塩辛い物を与える)等々、記述が非常に多岐に亘っています。
 次いで487ページから488ページ前半にかけても短く細切れに議論が展開されていきます。まず、日本の爵位について触れ、殿たち(Toni)はヨーロッパと同様にいくつか種類があり、王(Re)、公爵(Duco)、侯爵(Marchese)、伯爵(Conte)のような位階の存在を示唆しています。一方で善悪について議論が移ると、ヨーロッパと日本の善悪の判断基準が似通っている点にも着目しています。
 マッフェイの日本報告は尚も多彩な議論が続き、日本人の性質について多角的に論じていくととなります。488ページ前半では、僧兵をマルタ騎士団のようだと比喩し、学僧の教養について言及したうえで、キリスト教の浸透しやすさを説いています。488ページ後半からは、武士の日常、庶民の生活の解説、商店・技術者の水準の高さへの驚嘆を記したうえで、日本人の性格を詳しく解説していくこととなり、489ページへと引き継がれていきます。まず、優秀で器用な日本人は名誉を重んじる一方、侮蔑を嫌い、互いに敬意を抱くことを常としているため、安価な製品を作る職人にも敬意を払い、そうしないと職人は仕事を放棄すると指摘します。さらには、日本人は自制心があり、腹を立ててもそれを表には出さず、嫌なことや不幸が降りかかっても感情を表に出さないといった点にも着目しています。
 次いでマッフェイは、490ページ前半部において、下克上と権力者の栄枯盛衰について軽く触れたうえで、491ページまで日本の宗教について紙面を割くこととなります。マッフェイは日本の宗教を善悪判断が悲劇的に間違えていると断じてやみません。そして勢いのままに、民衆は坊主(Bonzi)たちの説教を通して阿弥陀や釈迦の教えを理解し、それにより狂気と極悪の間を歩むこととなるとまで言い及んでおり、日本で主に信仰されている仏教をルター派のようだと断じます。次いで神・仏の説明に移り、来世の福を司る仏(Fotoques)とし、現世の福を司るものが神々(Camis)としており、かつて王やその子息、武勇を上げたものが神々(Camis)として崇め奉られることがあると説明しています。しかしながらマッフェイは、これらは馬鹿げた話で、ギリシア神話のジュピター、サトゥルヌス、バッカスのようだという評価を下してます。そして、上記の議論を踏まえながら、日本人のあいだでは、神(Dei)から賜った真理の原理がすでに根絶しているが故に、知識の教え(del magistero della coscienza)を忘れてしまい、羞恥の箍(i serramim della pudicizia)が外れ、節度無く享楽を貪るようになると糾弾するにいたっています。
 ひとしきり日本の宗教について論じてからは、マッフェイの日本報告は再度断片的となります。492ページから493ページ前半までは、刀の使い方等の議論が続き、戦時における村落の破壊、落武者狩り、山賊の所業、水軍について言及しています。次いで貧者、病人の生活、日本人がキリスト教における貧者の喜捨を肯定的に評価している点に触れています。そして、犯罪者の処刑の様子、謀反を企てたものに対する処遇、犯罪者の裁き方等、日本の司法で議論が推移すると、領主に付帯する絶大な生殺与奪権、民衆を顧みない権力者による横柄で恣意的な統治に批判の矛先を向けます。
 さらにマッフェイは日本の司法とそれに伴う領主の絶大な権力を視座しながら、493ページ後半から494ページにかけて、日本の政治状況と統治システムへと議論の焦点を絞っていきます。まず日本の統治では、恐れが物事を支配し、それが憎しみへと繋がり、反乱や一揆が頻発、王座は不安定で継承は稀であると解説します。この流れを受け、具体例として、日本は王(Vo)あるいは内裏(Dair)と呼ばれる唯一の皇帝(Imperatore)のもとで支配されていたものの次第に蔑まされるようになり、軍人(huomini militari)が領主(Signori)を苦しめ、仕えることも軽んじるようになり、各領土は奪い合いとなり細かく分かれていったとしています。そしてついには、内裏に残された唯一の権利は、勢力に応じて名誉の称号(i vocaboli d’honore)を分け与えることのみとなり、それを用いて大金を集め、各権力者から有難がられるような神性(dignità)保持するに至ったと解説しています。そうしたなか、全日本人の間で最も権力を持つものは、天下(Tensa)という名の下、都(Meaco)とその近親諸国を支配するとしており、これらの土地が、当初は暴君(Tiranno)信長に支配されていたものの、2年前に謀反人に殺され、引き続き羽柴(Faxiba)が暴力で以って、その座(天下)についたと綴っています。
 494ページ以降では、「日本の習慣、秩序を理解してもらうには、より多くの紙面を割く必要があるために、これ以上は書かない」と一旦議論は打ち切られます。その上で、モルッカ諸島総督にして年代記記者であったポルトガル人アントーニオ・ガルヴァン(António Galvão, 1490~1557)により、スペイン・ポルトガルの周航や発見の記録として纏め上げられた地理書『諸国新旧発見記』(1563)[6]を、マッフェイは引き合いに出しつつ、3人のポルトガル人が1542年に初めて日本に上陸した旨に言及して、主な日本記述を締めくくっています。
 マッフェイの日本記述で多く見られるのは、その都度、日本とヨーロッパを比較して論じている点にあると言えます。前半部において日本の食事作法や礼儀作法、服装、服飾を取り上げる際には、「ヨーロッパでは帽子をとり、日本では靴を脱ぐ」等の具体例にみられるような、日本人とヨーロッパ人の異なる行動様式を通して、日欧の文化・風習の差異を強調しています。一方、後半部では、前半の相対主義的レトリックを引き継ぎながら、ギリシア神話やヨーロッパの爵位を持ち出したりする等、自らに引き寄せて日本の制度を理解しようとした態度が見て取れます。」
(小川仁「『東インド史』フィレンツェ版(イタリア語訳初版)」解説、国際日本文化研究センター制作のデータベース『日本関係欧文史料の世界』掲載記事より。引用文中のページ番号は本書と版組も異なるイタリア語訳であるフィレンツェ版でのページ番号を指すため要注意。https://kutsukake.nichibun.ac.jp/obunsiryo/book/000676577/)