書籍目録

『日本輿地路程全図に基づく日本列島地図』

[長久保赤水] / [シーボルト] / [ホフマン] / [郭成章]

『日本輿地路程全図に基づく日本列島地図』

(『NIPPON』第4回配本から、ないしは『日本叢書』第5巻) [1835年] [ライデン刊]

Nagakubo, Sekisui / Siebold, Philipp Franz von / Hoffmann, Johann Joseph / Kuo, Ch’en-chang.

INSULARUM JAPONICARUM TABLAE GEOGRAPHICAE SECUNDUM OPUS NIPPON Jo TSI RO TEI SEN TSU.

[Leiden], [1835]. <AB2020180>

Sold

(Extracted from 4th distribution of ”NIPPON” or Bibliotheca Japonica 5)

4 folded maps. 56.3 cm x 69.3 cm, Contemporary colored.
刊行当時の手彩色が施された4枚の地図で、いずれも良好な状態。

Information

日本の地名と日本語表記を学習するために精巧に翻刻されてヨーロッパに伝えられた、江戸後期を代表する日本図

 本図は,江戸後期を代表する日本地図である長久保赤水による『改正日本輿地路程全図』を、シーボルトと、その弟子で当時のオランダのみならず、ヨーロッパを代表する東洋学者であったホフマン(Johann Joseph Hoffmann, 1805 - 1878)、さらにシーボルトのもとで中国語やマレー語の読解に尽力した郭成章が、原図を四分割する形で精緻に翻刻してライデンで刊行したものです。シーボルトの大著である『NIPPON』の第4回配本の付属図として、また、『日本叢書』(後述)第5巻に相当する単独作品として、1835年に刊行されています。日欧合作地図とも言えるこの地図は、江戸後期を代表する長久保赤水の『改正日本輿地路程全図』がヨーロッパでも大きな注目を集めていたことを示す、大変興味深いユニークな地図といえます。

 長久保赤水は水戸藩で活躍した地理学者で、農民出身ながら勉学に秀で研鑽を重ねたことで江戸中期を代表する地理学者となり、現在では伊能忠敬の先駆者としても高く評価されています。彼の代表作の一つと目されているのが本図の原図となった『改正日本輿地路程全図』で、1779年に初版が刊行されてから瞬く間に人気を博し、改訂版、縮尺版等が繰り返し刊行され続け、江戸後期を代表する日本図として庶民の間にも広く親しまれました。『改正日本輿地路程全図』は、詳細に地名を記し、輪郭線をより正確に描くことに努め、また緯度を記載して緯度線を記すなど、それまでの日本図の代表作であった石川流宣による日本図が「絵図」的な側面が強かったのに対して、現代的な意味での「地図」により近い日本図となっていることに特徴があります。長久保赤水自身は伊能忠敬のように自身で測量を行ったわけではありませんが、地理学、天文学の見識を縦横無尽に駆使して、既存の膨大な数の地図を整理、編纂しながら本図を制作したものと考えられています。その意味では、伊能忠敬のように十分な測量機会がないままにこれだけの地図を作成し得たことは驚嘆に値すると言えるでしょう。また、伊能忠敬による全国測量に基づく日本図は『改正日本輿地路程全図』を含む既存の日本図を刷新する画期的な日本図となった一方で、その成果は幕府中枢の機密扱いとされ、当時の庶民はその存在を知ることすら困難でありましたが、長久保赤水の『改正日本輿地路程全図』は繰り返し再版され続けて広く庶民の間で親しまれたことから、当時最も多くの人々に日本の地理情報を提供した地図と言えます。

 このように広く庶民の間でも親しまれていた(流通していた)からこそ、『改正日本輿地路程全図』は当時来日した西洋人にも入手する機会があったものと思われ、その刊行直後からオランダ商館関係者の手を介して、あるいは蝦夷沿岸付近の測量を行い非公式に松前藩との交渉を持ったイギリスの航海士ブロートンのように直接日本から持ち帰ったりする形でヨーロッパにもたらされました。こうして持ち帰られた『改正日本輿地路程全図』は、ヨーロッパにおける日本図政策に大きな影響を与えることになり、この図をもとに描かれた新しい形の日本図が制作されることになりました。

 本図制作のイニシアティブを取ったシーボルトも、自身の来日時に『改正日本輿地路程全図』を入手する機会に恵まれたものと思われますが、シーボルトたちは、他のヨーロッパ知識人が行ったように『改正日本輿地路程全図』を用いて新しい日本図を制作するのではなく、本図を見てわかるように、むしろ改変を一切加えることなく、原図をその日本語表記も含めてほぼそのまま再現する形で複製して出版したことにその独自性があります。これは、彼らにとって『改正日本輿地路程全図』は、その重要性が十分に認められるものの、それが最新の日本の地理情報をもたらす唯一の情報源ではなく、それまでのヨーロッパにおける知識人たちが試みたようにこの図をベースに自身の日本図を制作することには関心を持っていなかったことが背景にあるものと考えられます。それでは、彼らはなぜあえて最新の日本地理情報として十分ではないと看破していたにもかかわらず、本図の制作を試みたのでしょうか。

 その理由は、シーボルトらが本図を優れた日本語、ならび日本で記載された地名の理解、習得に大いに役立つと考えたことにあります。先にも触れたように、本図は『日本叢書、あるいは日本の文字を解さない人々が用いるため(に役立つ)日本と中国の作品選集』(Bibliotheca Japonica, sive selecta quadam opera Sinico-Japonica in usum eroum, qui literis Japonicis vacant…)の第5巻に相当する作品として単独でも刊行されていますが、この叢書は、シーボルトが持ち帰った、あるいはそれまでのオランダ商館関係者が持ち帰っていた和書、漢籍、朝鮮本を活用して、日本語の読解の手助けとなるような作品を選び出し、それらの翻刻と解説を試みた企画で、単なる日本語の解説だけでなく、当時のヨーロッパでは著しく入手が困難であった和書、漢籍、朝鮮本の翻刻を試みていることに大きな特徴がありました。『改正日本輿地路程全図』は地名の記載が非常に豊富なことでも高く評価を得ていましたので、シーボルトらはこの点に着目して、日本の地名学習、しかもそれを日本語表記のままで学ぶための生きた教材としての価値を『改正日本輿地路程全図』に見出し、本図を制作したものと考えられます。この点については、これまでの研究においても下記のような指摘がなされています。

「3、4回配本は1835年の1月と2月にそれぞれ出たという。(中略)
 4回配本では、本文として『NIPPON I』の日本への旅行記が出され、図版にはシーボルトが測った長崎港の水深図や景観図、長久保赤水の『改正日本輿地路程全図』が出た。図版数は他の配本に比べて少なく、11枚であるが、手彩色による4枚の地図(『日本輿地路程全図』)が添えられた。
 4枚の地図のタイトルは、漢字で『日本輿地路程全図』と印刷されている。原図のタイトルは、表紙に『改正日本輿地路程全図』(内題『新刻日本輿地路程全図』)とあり、水戸藩の『大日本史』編纂にも関係した儒者・地理学者である長久保赤水の作である。作図は、長久保自身の踏査結果や当時の官撰図類、地理・天文学書の比較考証によるもので、後の伊能図のように実測ではないが、均整のとれた沿岸線の輪郭など図形の正確さにおいて画期的であり、江戸時代後半に何度も版を重ねた。
 シーボルトは『NIPPON』本文のなかで、この地図は書店で売っており、教養ある日本人は持っていると述べている。初版は1779(安永8)年、2版は1791(寛政3)年であり、シーボルトは1811(文化8)年の3版を持ち帰っている。ライデン大学図書館には、10点の同系統の日本地図があり、その中にはシーボルト以外の人物による収集も含まれている。そのうちの1点(No.UB220C)の表紙に『56 改正日本輿地路程全図 常州水戸長玄珠子玉父 1811』という付箋が貼られている。この付箋は、収集した図書類をシーボルトが助手のホフマン、郭成章とともに整理して、1845年に刊行した目録を切り貼りしたものであり、筆跡は完全に一致する。
 文化8年版をもとに、『NIPPON』用の石版画を描いたのは郭成章であり、シーボルトは本文のなかで『中国の書写生の郭成章に忠実な複写の石版を作らせ』たという。シーボルトは地名を日本語のまま写させた。彼は、赤水の地図に緯度・経度はあるが、正確ではないと見抜いており、地名集として刊行したという。彼が意図したところは、

『漢字と日本語で書かれている地名を見つけ出し比較するのに誰にも喜ばれるであろう。このような地図が一般に役立つことを否定するものではないだろう。現在は漢字と日本文字を読んだり翻訳する機会もあるのだから、地名集としても非常に役立つのは明らかである。』

と述べる。確かに、現地では翻訳された地図よりも、その地の言葉で書かれた地図のほうが便利である。シーボルトは、日本の漁民や船乗りは誰でもこの地図を読むことができ、水先案内が可能であるという。原図の『改正日本輿地路程全図』は、縦85cm x 横1370cm の大きさであり、これを4つに分割して描かせたのも地名を読むことができるようにするためであろう。『NIPPON」のなかの『日本輿地路程全図』は、ファン・ヘルダー社から購入された紙を裁断せずに印刷されている。通常の『NIPPON』図版に比べると、倍の大きさになるので、見開き図または折り込み図として製本されている。
 彩色について見てみると、原図は国ごとに色分けされている。『NIPPON』でも国ごとに色分けしており、多少の違いはあるが、原図に沿っている。(後略)」
(宮崎克則『シーボルト『NIPPON』の書誌学研究)花乱社、2017年、31-33ページより)

 本図が、上掲の研究で明らかにされているように『NIPPON』の第4回配本の図版として出版されたものなのか、あるいは『日本叢書』の第5巻として刊行されたものなのかは、いずれであっても全く同じ図であるために、図そのものだけを見る限りでは特定が困難です。本図には紙の断面の一部に箔押しがなされていることから、何らかの形で綴じられることを企図していた、あるいは実際に綴じられていた可能性がありますが、単独で綴じられる可能性もあるため、やはり『NIPPON』第4回配本図なのか『日本叢書』第5巻なのかを決める手がかりにはなりません。いずれにしましても、非常に高い細かく描きこまれた地名を克明に再現する高い技術の石版印刷によって、上述のファン・ヘルダー社による高品質の厚紙に印刷されている本図は、シーボルトたちがユニークな着眼点によってヨーロッパの人たちに広めようとした興味深い日本図として、大変価値ある作品と言えるでしょう。