書籍目録

[文久遣欧使節オランダ訪問記念銅メダル]

文久遣欧使節 / [ホフマン]

[文久遣欧使節オランダ訪問記念銅メダル]

(銅製メダル) 1862年 [ユトレヒト鋳造]

First Japanese Embassy to Europe 1862 / [Hofmann, Johann Joseph]

[Bronze medal commemorating the visit of the Japanese delegation to the Netherlands 1862]

1862, [Utrecht], <AB20211739>

Reserved

Bronze medal.

3.8 cm,
メダルの記載事項については下記解説参照。

Information

1862年にオランダで歓待を受けた文久遣欧使節一行に贈呈された日蘭友好記念メダル

*メダルの記載事項
(周縁)NIPPON TAI-KOEN-NO SEI-SI HOLANDA NI KITAROE.
(中心)1609(-)1862. 三つ葉葵と日の丸、オランダ国章
(周縁)ONDER DE REGERING VAN WILLEM III KONING DER NEDERLANDEN G.H.V.L.
(中心)両国 親睦 益篤
3.8 cm. 造幣局によるミントマークあり。

 このメダルは、1862年の文久遣欧使節がオランダを訪問した際に、日蘭交流の長きにわたる歴史と今後ますますの発展を祈念して特別に製造されたもので、使節一行に贈呈されたうちの1枚と思われる大変貴重なものです。漢字とローマ字の日本語とオランダ語双方が刻印されている他、オランダ王冠と徳川家の葵紋までもが刻印されていて、幕末の日蘭交流を物語る大変興味深いメダルです。

 文久遣欧使節とは、1862年に江戸幕府がヨーロッパへと派遣した使節のことで、1858年に締結した通商修好条約において約束されていた兵庫などの開港開市が当時の国内における攘夷運動の高まりを背景に非常に難しくなったため、その延期を交渉することを主目的にしていました。フランス、イギリス、オランダ、プロイセン、ロシア、ポルトガルの各国を歴訪し、下賜休暇で帰国中のイギリス駐日講師オルコックの助力もあって、関税低減を認める代わりに開港開市の延期に合意するというロンドン覚書の調印に成功することができました。この使節には福沢諭吉や福地源一郎といった、明治以降にも多方面で活躍する多くの人材が加わっており、交渉成功という直接的な成果だけでなく、訪問地や航路でのさまざまな見聞が人材育成の面でも後世に大きな成果をもたらしました。歴訪したヨーロッパ諸国の中で、使節が特に歓待されたのが200年以上の「特別な関係」にあったオランダで、訪問した各地では市民を巻き込んだ熱烈な歓迎を受けたことが知られています。

 このメダルは使節がユトレヒトの造幣局訪問を記念して作成されたメダルで、日蘭両国の長きにわたる友好の歴史を祝いと、今後一層の発展を願う旨が日蘭領国語で刻印されているという大変興味深いものです。このメダルの一方の面には、日本語文「日本大君の正使オランダに来る」のローマ字表記が周縁を囲み、中心には三つ葉葵と日の丸、オランダ国章が描かれ1609-1862とあります。そして、もう一面には、ウィレム3世統治のもと両国の親善がますます深まることを祈念する旨がオランダ語で記されていて、その中央には「両国親睦益篤」という漢字が配置されています。この巧みな日本語翻訳や漢字表記については、日本使節とウィレム3世との謁見で通訳を務めたホフマン(Johann Joseph Hoffmann, 1805-1878)によるものではないかと思われます。ホフマンは、日本からライデンへの帰国の途にあったシーボルトとアントワープのホテルで偶然出会ったことをきっかけに東洋学研究の道に入り、シーボルトの様々な研究に協力する傍らで研鑽を続けた日本語研究は当代随一のものとなって、オランダ政府の日本語翻訳官に任命され、1855年にライデン大学に設置された日本語学講座の初代教授に就任していました。ホフマンは、この日本語能力が買われて使節のオランダ滞在中に各地で通訳を務めていることから、このメダルの作成や刻印についても監修したということは大いにありうることではないかと思われます。

 このメダルは、金製、銀製と銅製の3種類が製作されたようで、使節の正使には金製、銀製メダルが贈呈され、それ以外の使節関係者らには銅製メダルが贈呈されたと言われています。日本国内では、慶應義塾大学に3種とも残されているようですが、それ以外の多くについては行方がわかっておらず、現存するものはかなり少なくなってしまっているのではないかと思われます。なお、日蘭交流400周年を祝う2009年にはこのメダルの復刻版も作成されたようです。


「このメダルは、一見すると何の変哲もない地味なものと思われるかもしれません。これはおもて面です。ビーズをかたどった輪の中、左側にオランダの王冠と紋章の盾、右側に日本の旗と徳川家の葵紋、上に1609年、下に1862年という年号が刻まれています。文字部分はローマ字で、NIPPON TAI-KOEN-NO SEI-SHI HOLANDA NI KITAROE(日本大君の正使オランダに来る)と書いてあります。うら面を見ると、ビーズをかたどった輪の中に「両国親睦益篤」、オランダ語で「Onder de regering van Willem III Koning der Nederlanden G.H.V.L.(ネーデルラント国王ウィレム3世治下で)」と書かれています。(訳注:漢字の部分とオランダ語の部分をつなげると「ネーデルラント国王ウィレム3世治世下で両国の関係はますます繁栄する」となります)ところが、このたいそう控えめなメダルは日蘭関係史の重要な転換点を表しているのです。このメダルが鋳造されたのは1862年、江戸幕府が送り出した遣欧使節のオランダ訪問を記念してのことでした。そのとき、両国の関係は200年以上に及んでいました。ただ、それはいつもオランダ側が日本に足を運ぶという関係であって、日本からオランダへの正式な使節訪問はこれが初めてだったのです。
 1862年7月15日、使節一行はユトレヒトにある王立造幣局を訪れ、そこでこの記念メダルの贈呈を受けました。幕府は新しい銀貨の導入を検討していたところだったので、オランダの造幣技術に関心をもっていました。晩餐会で使節3人の代表者は銀製のメダルを、その他の団員は全員ブロンズ製のメダルを贈られました。さらに使節は一組の金・銀・ブロンズのメダルと500個ものブロンズメダルが入った箱を受け取りました。それらは日本に持ち帰り将軍に献上されることになっていました。
 ユトレヒトは使節団がオランダで最後に訪れた都市でした。」
(ヤン・デ・ホント、メンノ・フィツキ著、松野明久、菅原由美訳『一本の細い橋 A Narrow Bridge:美術でひもとくオランダと日本の交流史』大阪大学出版会、2020年、169ページ(英文原著:Jande Hond / Menno Fitski. A narrow bridge: Japan and the Netherlands from 1600. Amsterdam: Rijksmuseum / Vantilt Publishers, p.143))


「文久2年(1862)に日本が遣欧使節を派遣した折なども、オランダの一行に対する待遇はいたって鄭重で一例としてオランダ政府は使節一行の名簿を記念に印刷してくれたり、日蘭両国信仰の記念碑をつくっておくってくれたりして歓迎した。この2個のメダルはそのときのもので、金、銀、銅の3種があったうちの銀銅の2種であって、いずれも福沢自身のではないけれども慶應義塾にはこのほか銅のものがもう1個ある。」
(慶應義塾図書館『福沢先生関係資料図書館所蔵古刊本展覧会目録』1965年、5ページより)

「これはおもて面です。ビーズをかたどった輪の中、左側にオランダの王冠と紋章の盾、右側に日本の旗と徳川家の葵紋、上に1609年、下に1862年という年号が刻まれています。文字部分はローマ字で、NIPPON TAI-KOEN-NO SEI-SHI HOLANDA NI KITAROE(日本大君の正使オランダに来る)と書いてあります。」(前掲訳書)
「うら面を見ると、ビーズをかたどった輪の中に「両国親睦益篤」、オランダ語で「Onder de regering van Willem III Koning der Nederlanden G.H.V.L.(ネーデルラント国王ウィレム3世治下で)」と書かれています。」(訳注:漢字の部分とオランダ語の部分をつなげると「ネーデルラント国王ウィレム3世治世下で両国の関係はますます繁栄する」となります)(前掲訳書)