書籍目録

『韃靼、ならびに中国主要図』

デ・ウィット

『韃靼、ならびに中国主要図』

1680年頃 [アムステルダム刊]

De Wit, F(rederik).

TABULA TARTARIÆ et majoris partis REGNI CHINÆ.

[Amsterdam], [Frederik de Wit], [c1680]. <AB20211738>

Reserved

51.8 cm x 59.0 cm, Contemporary colored map,
[Daniel Crouch. Mapping Japan:The Jason C. Hubbard Collection. Part 3: 534]

Information

17世紀後半のオランダを代表する地図製作者による苦心作

 本図は、17世紀後半にアムステルダムで活躍した地図製作者、出版社であるデ・ウィット(Frederik de Wit, 1629? - 1706)が手がけた中国、日本図です。地図に刊行年表記などは見られませんが、デ・ウィットが精力的に地図帳を刊行していた1680年頃の作品と考えられています。地図全体にわたって非常に細かく地名が書き込まれており、当時のヨーロッパにおける同地域に関するの地理情報の様相を伝えてくれるだけでなく、刊行当時のものと思われる美しい手彩色が施されていて、感傷にも耐えうる地図となっています。

 本図に描かれた日本近辺を見てまず不思議に感じられるのは、現在の北海道にあたる蝦夷と呼ばれる周辺地域が非常に奇妙な形で描かれていることです。ヨーロッパ人による蝦夷近辺の探索航海は、オランダ人航海士フリース(Maerten Gerritsz de Vries, 1589 - 1647)による1643年の調査が最初であると考えられていて、フリースの航海によって、それまで未知とされていた蝦夷北東部の測量情報がもたらされ、現在の択捉島と得撫島の(一部の)確認ならびに両地のオランダ東インド会社とオランダ国家による領有宣言などが行われました。この情報に基づいて蝦夷近辺を描いた地図が17世紀後半から出現するようになり、本図もそうした成果をいち早く取り入れた作品の一つに数えられます。フリースが測量することができた蝦夷北東部の輪郭が描きこまれている反面、北西部や南部についての情報が全くなく、蝦夷が本州と繋がっているのかどうかや、他の諸大陸、半島との位置関係も不明瞭なままになっています。当時ヨーロッパで製作された同地域を描いた地図は、地図製作者がそれぞれ独自の情報源や解釈に基づいてこの空白地帯をなんとか描こうと苦心しており、さまざまなパターンが生み出されたことが知られていますが、デ・ウィットは、確定し得ない地域については空白のまま残すという、ある意味真摯な態度で本図を描いたと言えます。

 本州以南の描き方については、いわゆるブランクス・モレイラ図の系統に属すると思われるもので、直接的には当時のフランスにおける地図製作において最も著名で王室付き地理学者でもあったサンソン(Nicholas d’Abbeville Sanson, 1600 - 1667)によって製作された日本図あたりを参照したのではないかと考えられます。デ・ウィットは当時のヨーロッパにおいて信頼できる情報源と見做されていたサンソンによる日本図を参照しつつも、アジア図に落とし込むに際してある程度のデフォルメを施しつつ、フリースによる蝦夷近辺の最新測量情報を描き足してこの独自の地図を製作したようです。デ・ウィットは、本図をさらに拡張する形で描かれた壁掛け大型アジア図も製作しており、その図においても本図に見られる日本や蝦夷の輪郭を踏襲しています。デ・ウィットが描いたこのアジア図は18世紀に入ってからも他の地図製作者によって再版されており、結果的に本図に描かれた日本の情報は半世紀近くにわたって影響力を保つことになりました。