書籍目録

『大中国、韃靼、コーチシナ、マラッカ、シャム、カンボジア、そして日本という諸島、諸王国について、フィリピンのフランシスコ会による聖グレゴリオ管区において生じた様々な出来事について:同管区出身で日本における栄光ある殉教者の同僚にして事件の目撃者である著者による記述』

リバデネイラ / (日本二十六聖人殉教事件)

『大中国、韃靼、コーチシナ、マラッカ、シャム、カンボジア、そして日本という諸島、諸王国について、フィリピンのフランシスコ会による聖グレゴリオ管区において生じた様々な出来事について:同管区出身で日本における栄光ある殉教者の同僚にして事件の目撃者である著者による記述』

初版 1601年 バルセロナ刊

Ribadeneyra (Ribadeneira), Marcello de.

HISTORIA DE LAS ISLAS DEL ARCHIPIELAGO, Y REYNOS DE LA GRAN CHINA, TARTARIA, CVCHINCHINA, MALACA, SIAN, CAMBOXA Y IAPPON, Y de lo sucedido en ellos a los Religiosos Descalços, de la Orden del Seraphico Padre San Francisco, de la Prouincia de San Gregorio

Barcelona, Gabriel Graells / Giraldo Dotli, M. DCI(1601). <AB20211710>

Sold

First & only edition.

Large 8vo (14.0 cm x 19.1 cm), Title., 5 leaves, pp.1-576, 589[i.e.577], 578-588, 579[i.e.589], 590-725, 1 leaf(Tabla), Modern parchment, skillfully restored.
比較的近年のものと思われる丁寧な修復と再装丁が施されており、状態は良好。[Laures: JL-1601-KB6-253-151]

Information

来日して数多くの活動に携わった後に殉教事件の目撃者となったフランシスコ会士による、イエズス会とは異なる立場から記された「日本教会史」

 本書は、1594年から1597年にかけて日本に滞在して宣教教活動に携わった、フランシスコ会士リバデネイラ(Marcelo de Ribadeney(i)ra,)によって書かれたもので、日本をはじめとしたフランシスコ会の宣教活動の歴史をまとめた作品です。全6部と補遺で構成されている作品ですが、第4部以降は全て日本関係の記述に当てられており、フランシスコ会による「日本教会史」ともいうべき内容となっています。また、リバデネイラは、1597年に生じた「日本二十六聖人殉教事件」において、同僚や信徒たちが多数犠牲になるという痛ましい事件を目の当たりにするという悲劇に見舞われており、本書は、事件の当事者であり目撃者でもあった著書が、その経過と意義を詳細に報じる報告書としての側面も有しています。当時出版されていた欧文日本関係書の大半がイエズス会による、あるいはイエズス会の情報による作品であったのに対し、本書はそれとは異なるフランシスコ会の立場から記されていることに大きな特徴があり、しかも実際に日本での滞在、活動経験を有する人物が帰国後すぐに日本の状況について記した作品であることに大きな価値があります。

 リバデネイラが所属していたフランシスコ会は、ポルトガルを拠点にしていたイエズス会とは異なり、スペインを拠点とする托鉢修道会の一つで、したがって、彼らの活動の背景を理解するためには、日西関係の展開を念頭に置いておく必要があります。日欧関係の端緒を開きその主たるアクターとなったポルトガルは、ゴアとマカオを拠点として日本へと渡航し、イエズス会が宣教の中心的役割を担っていましたが、これに対して、メキシコのアカプルコを経由して太平洋を横断してアジアへとやってきていたスペインは、1571年にフィリピンを征服してアジア交易の拠点を確保したことで、徐々に日本との交渉を活発化させていきました。初期の日西関係は基本的にフィリピンのマニラを基軸としたもので、1571年にスペインがフィリピンを征服する以前から倭寇による貿易ネットワーク等を通じて、すでに16世紀半ばには日西関係の萌芽が生まれていました。スペインによるフィリピン占領はこの動きを一層加速化させることになり、秀吉がいわゆるバテレン追放令を発した1587年頃には天草崎津にスペイン船が初めて渡来、また平戸の松浦鎮信、大村純忠らがフィリピンとの交易を図って書簡を送るなど、徐々に交易を目的としてフィリピンを基軸として日西関係を構築しようとする動きが徐々に活発化していきます。こうしたフィリピンを基軸とした日西関係の進展に呼応して、スペインと親和性の高い、フランシスコ会をはじめとする托鉢修道会による日本宣教に向けた活動も、次第に高まりを見せていくことになります。

 このように16世紀後半を通じて徐々に深まりつつあった日西関係は、秀吉が1591年にフィリピン総督に日本に対する服従を要求する高圧的な書簡を送ったことによって、暴力的な形で急進させられることになります。この服従要求書簡が送られることになったのは、原田喜右衛門がマニラに来航した際に、現地のスペイン統治の状況を観察し、その防御の脆弱性から日本侵攻が成功する可能性が高いことを秀吉に進言したことに端を発しています。この書簡を受け取ったマニラ総督ダスマリーニャスは、兼ねてから日本の朝鮮侵攻は実はフィリピン攻略の口実に過ぎないとの情報を得ていたこともあって、日本がフィリピンに侵攻してくる危機が迫っていると理解し、スペイン本国に至急の支援を要請する一方、秀吉からの書状に対しては、使節の身分確証が定かでないことを口実に、正面からの回答を避け、逆にフィリピンから使節を日本に送ることで、時間的猶予を確保することを決めます。

 こうした緊迫したやり取りを行う中で、フィリピンからの2度目の遣日使節として派遣されたのが、フランシスコ会士バウティスタ(Pedro Bautista, 1546 - 1597)です。フランシスコ会はかねてから日本宣教を熱望していましたが、1585年に天正遣欧使節を歓待したグレゴリオ13世によってイエズス会による日本宣教の独占が認められていたため、日本への渡航を禁じられていました。フランシスコ会士らは、秀吉によるバテレン追放令は日本におけるイエズス会の宣教活動の失敗を証するものと解釈し、日本宣教を改めて強く求めていました。こうした時に、フィリピンからの遣日使節としてバウティスタが派遣されることになったことは、フランシスコ会にとって日本宣教の端緒を開き、イエズス会による宣教の失敗を挽回する千載一遇の機会となりました。

 バウティスタは1593年に秀吉との謁見を果たし、そのまま日本にとどまることを希望し、これが認められたことからフランシスコ会による日本宣教が認められたものと解釈して、1594年には京都で教会と修道院、病院を設けることに成功します。これ以降、それまで日本宣教を独占していたイエズス会と異なる、フランシスコ会による日本宣教活動が始められることになり、京都と長崎を中心にしてその活動が精力的に展開されていくことになります。本書の著者であるリバデネイラは、こうしたフランシスコ会による日本宣教にその初期から携わっており、1594年に第3回遣日使節として派遣されたへスース(Jéronimo de Jesús de Castro, ? - 1601)と共に来日しています。したがって、本書に記された日本におけるフランシスコ会の活動の記録や、日本のさまざまな状況についての報告は、彼自身が体験したこと、あるいは彼と共に日本で活動していた人物から聞いたことを直接的な情報源としており、その情報の密度は非常に高いことがわかります。

 本書第4部では、フランシスコ会が日本へと赴くことになった経緯から記されており、上述したような秀吉とフィリピン総督との書簡のやりとりが採録され、バウティスタが日本に派遣されることになった事情、バウティスタと秀吉との謁見の際のやりとり等が詳しく記されています(第4部の各項の見出しについては下記参照)。その上で、バウティスタ到着以降に日本で展開されたさまざまな宣教活動の様子が極めて具体的に記されており、また彼らが見聞した日本社会や日本の人々、宗教事情についての見解などが論じられています。これらの記述は、宣教師による活動成果を喧伝するという一定の目的に基づいたものであるということを差し引いても、実際に当時日本を訪れ、数年にわたって滞在しながらさまざまなことを体験した西洋人による日本社会の記録として、大変重要な価値を持つものです。

 しかしながら、こうしたフランシスコ会の精力的な活動は、1587年に秀吉が発したバテレン追放令が依然として有効な社会情勢下においてなされていたことから、これに背く形での公然とした宣教活動は日本内外の関係者らの危機感を惹起することにもなりました。それまで日本宣教活動の中心を担ってきたイエズス会は、フランシスコ会の宣教活動を秀吉をはじめとする日本の権力者の怒りを招き、それまでの日本宣教によって培われてきたキリスト教界の破滅を招くことになりかねないとして、フランシスコ会に活動の自重を求めますが、フランシスコ会はこれに反発し、精力的な活動を続けました。こうした不穏な状況下において、1596年10月、マニラを出港したサン・フェリペ号が日本に漂着した事件をきっかけに、秀吉は京都において活動していたフランシスコ会士を中心とした関係者全員を処刑することを命じ、日本二十六聖人殉教事件とよばれる痛ましい事件が引き起こされることになりました。

 本書第5部では、この事件のあらましと関係者らが殉教に至るまでの経緯を詳細に述べたもので、事件の最大の当事者であったフランシスコ会の立場から見て、この事件がどのように認識されていたのかを伝える第一級の史料として高い価値が認められているものです。リバデネイラ自身はこの事件によって処刑されることは免れたものの、同僚や信徒たちが殺害されるという痛ましい事件の一部始終を目の当たりにすることになりました。共に来日したヘスースらとマカオへと追放されることになったリバデネイラは、この事件の目撃者として事件の詳細をスペイン王、ならびにローマ教皇への報告するための著作執筆を命じられ、自身の体験と多くの他の目撃者や関係者らの証言を集めて本書を書き上げました。
 
 事件の詳細を報じた第5部に続く第6部では、事件で犠牲となった26名全員の生涯と殉教時の様子、また彼らに関連する賞賛すべき出来事や奇蹟などが、一人一人について詳細に述べられていて、この事件の当事者のプロフィールを伝える最重要の情報源となっています。本書第6部に掲載された犠牲者各人の伝記は、後年にこの事件を主題にした著作に大いに参照されただけでなく、彼らが列福、列聖される際の証拠史料としても用いられることになりました。

 このように本書では、フランシスコ会による日本宣教の開始から、日本二十六聖人殉教事件と呼ばれる悲劇的な出来事に至るまでの詳細な活動記録が記されています。こうした作品を事件直後に出版することができた大きな要因は、いうまでもなく当初からの主要な当事者の1人であった著者リバデネイラが事件直後に多くの証言資料を集めながらスペインへと帰国することができたことにあります。ただし、こうした要因に加えて、イエズス会とフランシスコ会との間にあった日本宣教をめぐる意見の対立、また事件に対する評価の違いといった事情も本書が生まれる大きな要因となっていたことに注意が必要です。リバデネイラが事件の詳細な記録を残し、また犠牲となったフランシスコ会士らが捕縛後に心境を述べた書簡を書き残していたのは、そもそも秀吉による処刑が、信仰を理由とした迫害の結果生じたものであるという強い意識があったことや、事件勃発当初から自分達が信仰に殉じた「殉教者」となることを甘受し、またそうなることを望んでさえいたということが指摘されています(小俣日登美ラポー「聖性の創り方:いわゆる日本二十六聖人の列福過程(1627)」(名古屋大学文学研究科附属人類文化遺産テクスト学研究センター編『HERITEX』第3号、2020年所収)参照。また、同氏による単著『ヨーロッパにおける日本宣教の殉教者ー遠き「インド」から学校演劇まで(16~18世紀)』(Rappo, Hitomi Omata. Des Indes lointaines aux scénes des colléges: Les reflets des martyrs de la mission japonaise en Europe (XVIe - SVIIIe siécle)(Studia Oecumenica Friburgensia 101). Aschendorff Verlag, 2020. ISBN:9783402122112)も大いに参照)。したがって、本書の記述の背景には、フランシスコ会による日本宣教活動がいかに優れたものであり、殉教事件がまさにその聖性を証明する事件であったことを強調しようとする目的があったことを理解しておく必要があります。こうした殉教を賞賛し、殉教に封じることが信仰の勝利の証であるという認識は、フランシスコ会に強く見られるものですが、キリシタン迫害が激化していく1610年代半ば以降はイエズス会においても明確に見られるようになっていき、日本における宣教活動がほとんど絶望的になっていった1620年代以降に数多く刊行されることになるいわゆる「殉教録」と目される作品により一層強く引き継がれていくことになります。

 しかしながら、本書が後年の「殉教録」と目される作品と大きく異なるのは、後年の作品の著者が実際に日本に赴いたことがなく、現地からの書簡等に基づいて間接的に記されているのに対して、本書の記述は実際に活動の当事者であり事件の目撃者であった著者によって、しかも事件から間もない時期に執筆されているという点にあります。上述の通り、リバデネイラはフランシスコ会による日本宣教に最初期から携わり、活動の中心的な役割を担った人物の1人であり、日本での数年にわたる滞在と活動経験を経た上で、最終的に悲劇的な事件に巻き込まれることになりました。この点は、本書の記述に見られる臨場感とリアリティに決定的な影響を及ぼしており、本書がいかに殉教事件を賞賛するという目的を有したものであったとしても、実際に日本での活動に携わり、痛ましい事件を目の当たりにせざるを得なかった著者ならではの独自の眼差しが宿る、唯一無二の価値を本書は有しています。

 本書が刊行された1601年には、イエズス会による「日本教会史」の決定版とも目されるグスマンの『東方伝道史』が刊行され、またフロイスらがまとめた殉教事件の報告書も刊行されていましたが、前者は来日経験のない著者による作品であり、また後者は事件だけを報じた作品であるのに対して、本書は、フランシスコ会による日本宣教の端緒から事件に至るまでの、フランシスコ会独自の「日本教会史」としての性質を有しつつ、実際に日本で活動と事件に関与した当事者が執筆した報告書としての性質も有するという点で、既存のイエズス会による日本関係書には見られないユニークな価値を有していると言えます。

 また、リバデネイラは殉教事件を記述するに際して、後年にこの事件を扱った事件に見られるような、犠牲者をイエズス会とフランシスコ会とに分けていずれか一方についてしか論じない、という態度は取っておらず、もちろんフランシスコ会関係者について詳しく論じてはいるものの、イエズス会関係者であるパウロ三木らについても公平に論じている点も注目されます。この事件についての著作は、後年になってイエズス会とフランシスコ会の対立が一層激しくなっていくにつれて、いずれの立場から論じられるかによって、いずれか一方の関係者にしか言及しないという態度が一般化していくようになります。このため、「二十六聖人殉教事件」という現在の呼称とは裏腹に、フランシスコ会の立場から論じられる際には同会関係者の23名だけが、イエズス会の立場から論じられる際には同じく3名だけが論じられる、という有様で、こうした姿勢は、同事件を描いた版画作品などにおいても徹底されています。本書における事件の記述は、こうした後年にみられる所属修道会による犠牲者の過度な分離は見られず、こうした記述姿勢は、著者リバデネイラ自身の良心を反映したものとも、当時は両修道会の対立がまだそれほど激化していなかったことを反映したものとも、いずれにも解釈できる大変興味深いものです。

 このように本書は、来日してから数多くの宣教活動に従事した後に痛ましい事件を目撃した著者によって認められた大変貴重な日本関係欧文図書と言える作品です。本書は類書にない独自の価値を有する重要な作品として早くから注目されており、また20世紀に入って翻刻版が刊行されるなど、初期の日西関係史、二十六聖人殉教事件を理解するための第一級の史料として高く評価されてきました。その一方で、20世紀前半の時点ですでに入手が著しく困難な作品となっていたようで、スペインの名門古書店Vindelが1911年に発行したカタログ(Biblioteca Oriental,,,Tomo I.)において「重要かつ希少(Importante y raro)」と記されており、これを反映して、同カタログにおける本書の価格は、上述したグスマン『東方伝道史』と比べると実に4倍にもなる設定がなされています。こうした希少性を反映してか、国内において確認できる所蔵機関も4機関ほどと著しく少なく、高い評価にもかかわらず、原著を具に調査すること大変難しくなってしまっているのが現状です。その内容の重要性はもちろんのこと、こうした希少性の点に鑑みても、本書は高い価値を有する一冊ということができるでしょう。

 なお、本書著者の同時代人に、イエズス会の優れた著作家であるリバデネイラ(Pedro de Ribadeneira, 1527 - 1611)がおりますが、もちろんフランシスコ会士である本書著者とは異なる人物です。


*本書における日本関係記事(第4部のみ各項見出しを記載)


第4部:フランシスコ会の修道士たちが、いかにして日本へと送られたかについて、ならびに彼らが当地において聖なる福音を説く際に携えていた慎み深さと、彼らがもたらした偉大な果実について

1. 日本王国についての概略(pp.349)
2. フランシスコ会の修道士たちが日本へと赴く主たる理由(日本とフィリピン総督との往復書簡収録)(pp.355)
3. マニラにおいてフランシスコ会の修道士が日本へと赴くことがいかにして決定されたか(pp.361)
4. マニラからフランシスコ会の修道士(のちの祝福された殉教者たち、以下同)が日本へと送られ、到着したこと、ならびに日本国王へと使節を派遣したこと(pp.363)
5. 日本国王にフランシスコ会の修道士が語ったこと、ならびにそこで生じた出来事(pp.366)
6. フランシスコ会の修道士が京都(Miaco)へと連れて行かれ、滞在を命じられたこと(pp.368)
7. フランシスコ会の修道士が京都の街に教会と住まいとを設置したこと(pp.370)
8. フランシスコ会の修道士たちが受けた祝福について(pp.373)
9. フランシスコ会の修道士たちが修道院において成した多くの出来事(pp.377)
10. フランシスコ会の修道士たちが、最初に教会に加わった信徒がごくわずかであったところから、どのように教会を発展させていったか(pp.380)
11. どのようにして、聖なる使徒たちが長崎(Nagasaqui)へと赴き、そこで修道院を設置したか(pp.383)
12. どのようにして、修道士たちが京都の教会の隣に二つの病院を設けたか(pp.387)
13. 修道士たちの説教によって、いかに多くの異郷人が改宗されるにいたったか(pp.389)
14. 受洗した信徒たちが、いかに強い熱意をしめしたか(pp.391)
15. 日本王国における主要な宗派について(pp.395)
16. 懺悔を装う日本の人々、ならびに他の坊主たち(Bonzos)のいくつかの欺瞞について(pp.398)
17. 日本におけるさまざまな偶像とその様相、ならびに死者の埋葬について(pp.401)
18. 日本における偶像を崇拝する幾つかの教団について(pp.405)
19. 修道士たちの悔い改められた生活によってもたらされた特別な効果について(pp.408)
20. 修道士たちが多くの人々に唯一の神とは誰であるのかを理解させたことによってもたらされた自由について(pp.411)
21. 修道士たちの模範にならって、信徒たちが病院において行った慈善的奉仕について(pp.413)
22. 病院における貧者たちに見られた救済の徴について(pp.415)
23. 日本の王が述べたこと、日本における来世の考え方、ならびに修道士たちが(あえて)貧困に暮らしていることについて(pp.418)
24. 修道士たちがもたらした教義に備わる徳と献身(的態度)とによって、いかに多くの信徒が育まれたか(pp.422)
25. いかにして修道士たちが教会において秘蹟を授けたかについて(pp.424)
26. 信徒たちが修道士たちに示した偉大な献身について(pp.426)
27. 高貴な、そして(一般の)多くの信徒たちが修道士たちに示した特別で偉大な慈悲の態度について(pp.431)
28. 信徒たちが(フランシスコ会の象徴である)縄帯と福音の教えに対して示した特別な情熱について(pp.435)
29. 修道士たちが改宗を進めるに際して示した慎み深さについて(pp.437)
30. 高貴な坊主(Bonzes)さえも修道士たちとの対話を厭わなかったことについて(pp.441)
31. 高貴な人々が修道士たちに対して成した、いくつかの矛盾する行いについて(pp.444)
32. 修道士たちが説いた慎み深さとは、聖人たちがかつて示した慎み深さとまさに同じものであったということについて(pp.446)
33. いかにして、(のちに聖なる殉教者となった)ゴンザロ修道士が困難を抱えながらも、大阪(Vsaca)において改宗を成し遂げたかについて(pp.449)
34. (のちに聖なる殉教者となった)アッセンシオン修道士とブランコ修道士がいかにして日本へと赴いたかについて(pp.454)
35. 当時日本において数多く生じた驚異的な出来事について(pp.456)
36. この頃、どのようにしてマニラからの船が日本に到着したかについて(pp.460)
37. 当時長崎にいた修道士たちに生じた出来事について(pp.468)


第5部:日本における、26人の祝福された殉教者たちの偉大な勝利と殉教について(pp.471)
→殉教事件の勃発と経過について詳細に記述

第6部:26人の聖なる殉教者(一人一人の)特別な生涯について(pp.595)
→事件犠牲者ついて26人全員の経歴、殉教時の様子、関連する軌跡などを個別に記述。

補遺(殉教事件についての補足資料を掲載)(pp.713)