書籍目録

『フランス海軍中将プティ=トゥアール(の生涯):1832年から1890年にかけてのメモと書簡から』(『フランス艦長の見た堺事件』)

プティ=トゥアール / (堺事件)

『フランス海軍中将プティ=トゥアール(の生涯):1832年から1890年にかけてのメモと書簡から』(『フランス艦長の見た堺事件』)

1906年 パリ刊

Petit-Thouars, Bergasse.

LE VICE-AMIRAL BERGASSE DU PETIT-THOUARS D’APRÈS ses Notes et sa Correspondance (1832-1890). Préface du Contre-Amiral DUPONT.

Paris, Perrin et Cie, 1906. <AB20211697>

¥33,000

8vo (14.3 cm x 22.5 cm), Half Title., Front., Title., pp.[I], II-VI, 1 leaf(chart), pp.[1-3], 4-126, [127, 128], double pages map(of Japan), pp.129-415, Original paper wrappers.
刊行当時の簡易紙装丁の状態。所々スポット状のヤケが見られるが全体として良好な状態。透明のフィルムカバー付き。[NCID: BA1430462X]

Information

堺事件、天皇との謁見、函館戦争など数多くの幕末維新期の大事件に立ち会ったフランス海軍将校の貴重な記録

「本書は、政変直後の慌ただしく揺れ動く日本に到着し、たちまち堺事件に巻き込まれて部下を失い、妙国寺での土佐藩士の処刑ではフランス側の総責任者として立ち会い、割腹を目の当たりにし、更迭されたロッシュ公使からウートレー公使への執務引継を見守り、函館に立てこもったブリュネ大尉が無事に脱出して日本を離れるまでをつぶさに目撃した、フランス海軍コルベット艦デュプレクス号の艦長ベルガス=デュ=プティ・トゥアールの偉業を讃えるべく、彼の死後16年を経た1906年に書簡や覚書を集めて編纂出版された記録の翻訳である。原本は准将デュポンの序文が添えられ、パリのべラン書店から出版されたもので、ほぼ半分(第3部)が、約15ヶ月にわたって滞在した日本の記述によって占められており、歴戦の勇士であるベルガスの生涯においても、日本での活躍がいかに重要な意味を有していたかがわかる。」

「ベルガス=デュ=プティ・トゥアールは代々海軍関係者を輩出しているフランス名門の出である。1832年3月23日、ロワレ県のボルドー=レー=ルーシュの城で生まれた。36歳の誕生日に、明治天皇に謁見する運命にあったのも縁と言わざるを得ない。海軍に入隊し、1849年8月二等見習士官となり、デュランス号で南米へ初の航海をする。以後広くオセアニアやアジアを遠征し、1854年海軍中尉に昇進。翌1855年、クリミヤ戦争の際にはセバストポルの包囲に参加し、頭部に傷を負う。1856年には海軍大尉に昇進し、艦長として活躍する。デュプレクス号の艦長に任命され、シェブール港を出港して日本に向かったのは1867年7月28日である。途中サイゴンに寄港し、1868年2月10日横浜に到着。この任務を終了したのは翌1869年8月14日であった。日本遠征当時の階級は海軍中佐であった。(後略)。」

「ベルガス艦長が滞在した当時の日本におけるフランスの立場は極めて微妙であった。フランス本国における外交政策の変更、フランスが支援していた幕府の倒壊、新政府の樹立に伴うその承認問題、イギリスとの関係の見直しなど、政策転換を迫られたフランスの苦悩が読み取れる。ベルガス艦長は、一方でデュプレクス号に明治政府の要人を招待し、フランスが新政府に好意的であることを示し、他方でこれまで薩摩・長門に肩入れしてきたイギリスとの協調関係を回復するため、パークスやミットフォードをはじめとするイギリス外交筋と親しく交わる。そのためにフランス、とりわけロッシュにとっては必ずしも好ましい存在であったと思われないド・モンブランをも抱き込み、必死になってこれまでの孤立の立場から脱却し、これまで通りにフランスの外交上の優位を守ろうと努力をする。ベルガスは全面的にイギリスに与したわけではなかった。日本の伝統・風習・法律を少しも尊重せずに、一方的にヨーロッパの考え方を押しつけるイギリスの外交方針には批判的であり、随所にこれを皮肉ってもいる。」
(プティ・トゥアール / 森本英夫訳『フランスの見た堺事件』新人物往来社、1993年、解説235-237ページより)