書籍目録

『描き記された日本諸島(テイシェイラ日本図)』

[オルテリウス] / テイシェイラ(テイセラ、テイセイラ) / [モレイラ] / (マッフェイ)

『描き記された日本諸島(テイシェイラ日本図)』

初版(『世界の劇場』[第6版]より) 1595年 [アントワープ(プランタン社)刊]

[Ortelius, Abraham] / Teixeira, Luís (Teisera, Ludoico) / [Moreira, Ignacio] / (Maffei, Giovanni Pietro).

IAPONIAE INSVLAE DESCRIPTIO.

[Antwerpen], [Christopher Plantin], 1595. <AB20211689>

Currently on loan.

First ed.(Extracted from 1595 ed. of Ortelius’s Theatrum Orbis Terrarum)

43.3 cm x 54.0 cm, 1 contemporary hand colored map, explanation text (written in Latin) printed on verso,
刊行当時のものと思われる手彩色が施されている。裏面には地図と日本について解説したテキストが印刷されている。[Hubbard: 006]

Information

17世紀以降のヨーロッパにおいて絶大な影響力を持った「日本図」の原点とも言うべき記念碑的日本地図と質の高い日本情報をもたらしたラテン語テキスト

本図の意義とその概要

 この「日本図」は、1595年にアントワープで刊行された地図帳『世界の劇場』に収録されていたもので、ヨーロッパで刊行された本格的な日本地図として最初の作品とされている大変重要な地図です。刊行当時のものと思われる美しい手彩色が施されており、実用的側面だけでなく美的側面においても優れた作例となっていることが特徴的です。また、裏面に記されたラテン語のテキストは、当時のヨーロッパにおける最新の日本情報をまとめた興味深い内容を有するもので、ヨーロッパにおける日本観の形成に多大な影響を及ぼしたと考えられる内容となっています。


オルテリウスの生涯と時代背景

 本図が収録されたのは、当時を代表する地図製作者、古代史研究者でもあったオルテリウス(Abraham Ortelius, 1527 - 1598)によって製作された世界地図帳『世界の劇場』(Theatrum Orbis Terrarum…Antewerpen, 1595)の第6版にあたる1595年版においてのことです。オルテリウスは16世紀にアントワープで活躍した人物で、地図装飾家、販売人としてのキャリアを積む中で、ヨーロッパ各地を頻繁に旅行し、当時流通していた様々な地図、古地図、古銭などを収集し続けるとともに、それらを用いて地理学や古代史、地誌についての研究を重ねていきました。当時のアントワープは大航海時代以降にもたらされた「新世界」の情報が行き交う国際都市で、また北方ルネサンスと呼ばれる新しい知的文化やさまざまな芸術活動が花開く黄金時代を迎えていました。またアントワープは、現在もその工房が現存しており世界遺産となっていることでも知られる「プランタン社」(オルテリウスの『世界の劇場』も後年版は同社から出版されている)をはじめとした当時のヨーロッパを代表する出版社が集う印刷、出版活動の中心地でもありましたが、このような国際都市アントワープにあってビジネスを成功させ、多くの知識人、政治家、芸術家との交際を深めたオルテリウスは、有能なビジネスマン、あるいは蒐集家としての活動だけでなく、自分自身でも地図作成と印刷を始めるようになります。当時のヨーロッパにおいてはすでに、ポルトラーノと呼ばれる中世から用いられてきた羊皮紙に手書きの海図が流通していただけでなく、活版印刷技術を最大限に活用した印刷地図が多数流通していましたが、各地域や、海域、都市ごとに個別に製作されているだけで、現在では当たり前になっている「地図帳」のように世界全体の地図を一つの書物に集約したような書物はほとんどありませんでした。プトレマイオスを中心とした古代地理学とルネサンス以降の地理的発見を結合して、世界全体の地誌を描こうとする「コスモグラフィー」と呼ばれるような書物は確かに存在していましたが、それらは印刷地図を含むものの、テキストの叙述が中心で、テキストと地図とを組み合わせて、しかも世界全体をカバーするような書物というものは、当時まだ存在していませんでした。また、印刷された個別地図を組み合わせて地図帳として販売するような試みは、すでにイタリアでも行われていましたが、これはあくまで既存の地図を手作業で綴じ合わせたものというべきものであって、一人の監修者によって、独自の地図とテキストを組み合わせたようなものではありませんでした。


本図が収録された『世界の劇場』について

 このような状況にあってオルテリウスは、自身が多年にわたって収集した膨大な地図コレクションを活用し、これらをもとに最新の情報を盛り込んだ地図を新たに制作して世界全体をカバーする総合的な地図集を編み、それらを解説するオルテリウス独自のテキストを組み合わせることで、一つの書物で世界を一望できるような書物を作成すること、すなわち世界地図帳を制作することを構想するようになりました。このような構想はオルテリウス一人によるものというより、当時の時代精神に呼応するものだったと考えられており、たとえばオルテリウスの親しい友人で、「メルカトール図法」の考案者として名を残す当代きっての地理学者メルカトール(Gerardus Mercator, 1512 - 1594)も同様な着想を持っており、両者は親しく情報と地図を交換しながらこのような構想の実現に協力していくことになります。こうして1570年に初めて世に送り出されたのが、『世界の劇場』で、この初版本には53枚の地図を収録し、その裏面にはラテン語で記された当該地域の解説テキストが掲載されていました。『世界の劇場』は、当時の印刷職人の月給分に相当するような高額品であったにもかかわらず瞬く間に売り切れ、4回も増刷されるほどの大きな反響を呼び、大成功を収めることになりました。

 この『世界の劇場』(Theatrum Orbis Terrarum)という、現代ではやや奇異な感をもつ書名は、「世界(または地球)(Terrarum)」の「劇場(または舞台)(Theatrum)」という意味するものです。それぞれの単語はキケロをはじめとした古典著作の中に登場する語で、ヨーロッパ上流社会では伝統的によく知られたラテン語単語でしたが、これらが組み合わされた『世界の劇場』というタイトルには、大航海時代以降に新たにヨーロッパ人に開かれた「新世界」を包含する世界全体を、人々がそれぞれの生の営みを演じる「劇場」に見立て、『世界の劇場』という一つの書物の中に体現させるというオルテリウスの壮大な意図が込められています。このような世界観は、人間が生きる世俗世界が永遠不変の天上(神の)世界とは異なる仮構に過ぎないという悲観的、諦念的な世界観と、それにもかかわらず、人々が世界(という劇場)においてこそ、自らの主体性を発揮できるのだという積極的で、人間中心主義的な世界観とが結合した、ルネサンスの人文主義に特徴的な世界観で、シェイクスピアをはじめとした当時の文学作品にも通ずるオルテリウスが生きた時代に固有の世界観でもありました。

「ルネサンス期イングランドにおいて、世界は舞台と観じられていた。「この世」はたとえばアウグスティヌスが想起した「神の国」とは異なる人間の世界であり、「すべて」は舞台の上の仮構にすぎない。このような劇場的世界観は、中世の普遍的キリスト教共同体の規範が崩壊した価値喪失の時代、あるいは新たに近代の世俗的主権国家がヨーロッパ史に姿を現してくる揺籃の時代、すなわち錯雑した「ルネサンス」の時代状況を象徴する一つの共通認識であった。当時の史料を繙けば、1599年に完成した「グローブ座」の舞台はもとより、この「世界劇場(Theatrum Mundi)」の主題があたかも執拗低音のように繰り返し出現していたことを容易に観察できる。」
「ここで政治思想の観点から特筆すべきは、この人文主義者たちが、ルネサンス期の政治世界を「虚構の劇場」と認識しながらも、常にその舞台に立ち続けた政治エリートでもあったことであろう。(中略)たとえばベイコンは、政治的な義務の遂行を目的とする「活動的生活(vita activa)」が、孤独な知的営為としての「観想的生活(vita contemplatia)」に優越することを強く主張して、次のように明言した。
「ところで、この人間が生活する劇場では、観客はただ神と天使たちだけであることを人々は知らねばならない。」
 人文主義者にとって「この世」はまた、活動的生活の舞台でもあった。世界は擬制であるがゆえに、逆に、人間による作意の領域にもなりうるのである。」
(木村俊道『顧問官の政治学:フランシス・ベイコンとルネサンス期イングランド』木鐸社、2003年、16, 18頁より)

 オルテリウスをルネサンス期の人文主義者と呼ぶかどうかについては、議論の余地があるかもしれませんが、数多くの地図を収取し、それらを校合しながら最善の地図を作り出そうとする原史料の客観的解釈を重んじる姿勢や、古代地理学や歴史に深く通じ、古代世界と「現代世界」とを時間的、空間的に接続しようとするオルテリウスの態度は、同時代にみられた人文主義者に共通するものであったと考えることができます。オルテリウスは『世界の劇場』において、自身が依拠した地図や、文献、同時代の地理学者の名前といった情報源を明記する編集態度を貫いており、こうした方針もまた、オルテリウスの人文主義者的な側面の現れとも言えるでしょう。こうしたオルテリウスにあってこそ、『世界の劇場』というユニークなタイトルは、彼が生きた時代精神を象徴的に反映した深い含意を蔵するものであったと考えることができます。


『世界の劇場』主要諸版の変遷と「日本図」

 オルテリウスは初版刊行後に寄せられた情報や、新たに発見した地図を用いて増補改訂を繰り替えし、『増補版(Additamentum)』とそれらを反映させた改訂版の刊行を刊行を続け、1598年に亡くなる3年前の1595年までの間に5回の増補版の出版と第6版(版表記については下記参照)までの改訂版の出版を成し遂げました。また、それと同時に各国語への翻訳版の出版も行っており、オランダ語、ドイツ語、フランス語、スペイン語、イタリア語、英語の各版が並行して繰り返し刊行され続けました。さらにオルテリウスの没後も1612年まで再版が行われ、実に夥しい数の諸本がヨーロッパ中に広まることになりました。これらの主な変遷をまとめますと下記のようになります。
 
『世界の劇場』初版ラテン語版(1570年)から最終版(1612年)までの主要な変遷
(C.クーマン / 船越昭生監修 / 長谷川孝治訳『近代地図帳の誕生:アブラハム・オルテリウスと『世界の舞台の誕生』臨川書店、1997年をもとに制作。上記の解説文も基本的に同書による。[第2版]等の版表記は、原著タイトル等に版表記の記載はないものの、実質的にそう見なすことができることから、[ ]で表記。ただし、補遺版については原著表題に明確に記載あり。)

1570年:ラテン語初版(53図)
1571年:オランダ語訳版(53図)
1572年:ドイツ語訳版(53図)
    : フランス語訳版(53図)
*以降、ラテン語版の改訂に伴って各国語版も順次改訂版が刊行されていく。
1573年:第1補遺版(Additamentum I)(18図)
    : ラテン語[第2版](70図)
*以降、補遺版の刊行と同年に、それを反映させた改訂版が刊行されていく。
1579年:第2補遺版(23図)
    : ラテン語[第3版](93図)
1584年:第3補遺版(24図)
    : ラテン語[第4版](114図)
1585年:スペイン語訳版(114図)
1590年:第4補遺版(23または25図)
    : ラテン語[第5版](134図)
1595年:第5(最終)補遺版(17図)
    : ラテン語[第6版](オルテリウス生前最終)版(147図)
*第5補遺版とそれを反映させた[第6版]において、初めて単独の「日本図」(本図)が収録される。
*また、1595年以降に刊行されたすべての版(全16種)に「日本図」が収録される。
1598年:オルテリウス没
1606年:英語訳版(160図)
1608年:イタリア語訳版(167図)
1612年:ラテン語最終版(158図)

 上記のように、ラテン語版を中心に主要な版だけを追ってみても、1570年の初版刊行から、オルテリウス没後の1612年の最終版刊行までの間に、夥しい数の版が刊行され続けていたことがわかります。

 本図である単独の「日本図」が初めて登場するのは、1595年に刊行された、第5補遺版と、その成果を反映させて改訂されたラテン語第6版のことで、オルテリウス生前最後の版になってようやく「日本図」が収録されたことになります。とはいえ、この1595年のラテン語版刊行以降、オルテリウス没後もさまざまな版が刊行され続け、各国語訳版も含めると全16種類にも及ぶことがわかっています。しかも、その間、この「日本図」は「1595年」という表記も含めて全く変更が施されないまま同じ原版で制作され続けたため、地図面だけを見ても、それが一体何年のどの版に収録された「日本図」であるのかを判断することができません。そのため、欧米の古書店の一部の表記などでは、地図面に記載された「1595年」を典拠にして1595年刊としているケースが見受けられます。しかしながら、この「日本図」は、1595年から1612年にかけて刊行された、少なくとも16の異なる版に収録されていますので、より厳密にその刊行年を特定するためには、後述するように、裏面テキストから判断する必要があります。


本図の特徴と制作背景、原図提供者について

 このように、刊行当時のヨーロッパにおいてセンセーションを巻き起こし、「世界地図帳」というジャンルを新しく生み出すことになった偉大な作品である『世界の劇場』に、本図である「日本図」が収録されたということは非常に興味深いことであると言えます。前述の通り、「日本図」はオルテリウスが生前最後に行った増補改訂版において初めて登場したものですが、この「日本図」はそれまでヨーロッパで刊行されたあらゆる日本地図よりもはるかに正確性を高めたもので、現代の目から見てもすぐにそれが「日本図」であることがわかるものとなりました(逆に言うと、それまでのヨーロッパ製日本地図は一見しただけではそれが日本を描いたものであるとは認め難いものでした)。

「この地図が出るまで、地理学の知識に基づいた日本の地図としては、キサトゥスの地図とピッカリーア&モンテの地図があっただけで、極めて不正確であり、普及していなかった。1595年、オルテリウスが Additamentum Quiuntum にこの地図を含め、同年続いて Theatrum のラテン語版を出したことで状況が変わった。地図は改変されることなく、少なくとも1612年のスペイン語版まで Theatrum に所載され続けた。」
(ジェイソン・ハバード / 日暮雅道訳『世界の中の日本地図:16世紀~18世紀 西洋の日本の地図に見る日本』柏書房、2018年、154頁)

 本図にはその製作者として「テイシェイラ(Ludoico Teisera)」の名前が掲げられていることから、通称「テイシェイラ日本図」とも呼ばれていますが、上掲のハバード氏の研究によりますと、テイシェイラ自身が原図を制作したのではなく、「テイシェイラは誰かが描いたものをオルテリウスに送ったと推察できる。だがそれにもかかわらず、その作者はテイシェイラとされた」と考えられています。テイシェイラはイエズス会士の地図製作者でスペイン王室にも使えており、1573年にスペインのフェリペ2世によって「陛下の地理学者」の称号を得ていた(当時アントワープはスペイン王支配下にあったため)オルテリウスとの関係が深かったことが容易に推察できる人物です。テイシェイラがオルテリウスに渡した原図は、日本宣教のために現地で活動していたイエズス会士によって提供されたものと言われており、1584年から翌年にかけて日本に滞在していたポルトガル人のイエズス会士モレイラ(Ignacio Moreira)が関与した可能性が高いと考えられています。モレイラ自身が制作した日本図は現存しておらず、彼の日本図の姿を最もよく伝えるとされているブランクス(Christopher Blancus)による日本図(Iaponia. Roma 1617)が唯1枚のみ現存(ゼンリン・ミュージアム所蔵)していることが知られています。このブランクス日本図の旧蔵者にして、同図の研究者でもあるハバード氏は「モレイラの最初の日本滞在時期(1584-85年)からすると、地図がリスボンに到着し、それから1592年にオルテリウスの手元に改装される時間の余裕はあっただろう。当時日本の島々を訪れたという地図製作者はほかに知られていないので、少なくともモレイラがこの地図の制作に関与した可能性はある。」としています。

 この「日本図」を見てみますと本州は大きくJAPONIAと記されていることや、主要な都市名が具体的に書き込まれ、西洋風の城郭を表すマークが配置されていることが目につきます。本州の中心に描かれているひときわ大きな城郭のマークは、MIACOと記されており、これは「都」すなわち京都を示しています。四国は、TONSA(土佐)、九州はBVNGO(豊後)と記され、当時日本を訪れていたイエズス会士が知り得た都市名が随所に記されています。イエズス会士やポルトガル、スペイン航海士にとって重要であった九州西部は、Firando(平戸)をはじめとして特に詳細に地名が詳細に書き込まれています。また、地図の外周には緯度と経度が記されていて、一見すると経度が全く不正確なように思われますが、これはこの図が採用している子午線が、現在のようにグリニッジにではなく、古代にプトレマイオスによって世界の果てとされていた、カナリア諸島のフェロに置かれているためです。フェロ子午線はグリニッジを子午線とすると西経約17度とされていますので、この点を考慮すると、本図に示された経度はかなり正確な数値であると言えます。当時は経度測定が緯度測定に比べると格段に難しかったことにも鑑みると、この数値は驚くべき精度と言えるものです。日本列島の西部に目を転じますと、朝鮮半島が島のように不正確に描かれているのが目につきます。これは当時、朝鮮半島が島であるのか、それとも半島であるのかについてヨーロッパではほとんど知られていなかったためで、中国経由でヨーロッパに伝えられた(誤った)地図の影響を受けて描かれたものであると考えられています。また、現在の北海道にあたる地域は本図には全く描かれていませんが、このことも、この地域、海域についての地理情報が当時のヨーロッパ(並びに日本)において皆無に近いものであったことを反映しています(この地域の地理情報が最終的に明らかになるのは19世紀半ばのことです)。地図の右上海上部分にはこの地図の刊行年(出版特許取得年)として「1595年」とあり、この表記は1595年以降に継続して増刷された際にも残されたままだったため、前述したように実際の刊行年を特定する際に混乱を生じさせる原因ともなりました。ともあれ、当時のヨーロッパにおいて画期的な日本図となった本図は、初版刊行以降3,000部あまりが印刷されたと言われており、また本図に範をとって様々な模倣図が17世紀を通じて繰り返し製作され続けたため、本図は、17世紀ヨーロッパにおける日本図を代表する地図として絶大な影響を持つことになりました。


『世界の劇場』地図裏面テキストの二つの重要性①:当時のヨーロッパにおける貴重な日本情報としての価値

 このように当時のヨーロッパに多大な影響をもたらした「日本図」ですが、上述の通り、オルテリウスの『世界の劇場』1595年版以降に刊行された全ての版に同図は全く変更を加えられることなく印刷され続けたため、この図が一体いつの、どの版に収録された図であるのかを特定することは、地図面だけを見ていては不可能となっています。この特定に際して大きな手がかりとなるのが、先に論じた裏面のテキストです。この点から見て本図がどの版に当たるものかについては後述しますが、まずこのテキストが、書誌学的観点から見た重要性だけにとどまるものではなく、その内容から見ても極めて重要な意味を有するものであることに注意が必要です。本図裏面テキストを含む『世界の劇場』に収録されている地図裏面のテキストは、オルテリウスが多年にわたる地図収集と、メルカトールをはじめとする各分野の専門家との幅広い交流を通じて培ってきた研究成果を反映させて自ら執筆したもので、地図に描かれた当該地域の最新の地理情報、測量情報だけでなく、当該地域の文化や風習にまで言及されていて、まさに『世界の劇場』と称するにふさわしい充実した内容となっています。『世界の劇場』は、どうしても表面の地図だけに注目が集まりやすく、また展示が行われる際には、地図面が優先されることが常で、裏面であるが故にテキストはその存在自体がほとんど意識されることがありませんが、実はこのテキストこそが、オルテリウスの『世界の劇場』が当時のヨーロッパにおいて画期的な作品となるための非常に重要な要素の一つであったことに注意が必要です。

「(前略)『世界の舞台』の特色をなす点は、それがテクストと地図という2つの部分を、分かち難い全体を成しながら包含していることである。現在に至るまで、歴史地理学者たちは『世界の舞台』のテクスト的要素にほとんど注意を払ってこなかった。オルテリウスの業績を評価する立場にたつには、人文主義的文化が古典地理学と近代地理学との間の関係を大いに重視したということを、とくに理解しなければならない。この関係は、オルテリウスが自らの近代地図を、とりわけ古代作家たちに言及することによって説明したことで、理想的に示された。かれ以前には、こうしたことを誰も行わず、それゆえ、この結果としてかれの優れたテキストについては、少なからぬ賞賛の声がわき起こった。かれはまたテクストだけを分離して出版するようにも求められたのである。」
(クーマン前掲書、45頁)

 この「日本図」裏面のテキストはラテン語で記されていますが、そこには細かな文字でフォリオ判大の用紙2面に渡ってびっしりと日本情報が記されています。このテキスト自体が当時のヨーロッパに日本情報を伝えた重要な日本関係記事と言えるもので、しかも『世界の劇場』が初版刊行以降も繰り返し再版され続け、日本に特段の関心を有さない読者層にまで広く読まれたことに鑑みると、このテキストには看過し得ない重要性があることは明白です。

 このテキストにおいて、オルテリウスはまず自身の日本情報についての主要な情報源として、イエズス会士の著作家マッフェイ(Giovanni Pietro Maffei, 1536? - 1603)の名とその著作『インド誌』(Historiarum Indiarum Libri XVII, Firenze, 1588)第12章に綴られた日本関係記事を挙げています。オルテリウスの『世界の劇場』の大きな特徴の一つとして、上述したように収録地図の情報源と当時の地理学者の名前をきちんと明記し、その情報源を明らかにすることに大きな注意を払っていることが挙げられます。この日本関係記事冒頭でオルテリウスが、マッフェイとその著作の日本関係記事の名を明記していることは、自身の情報源を明記するという『世界の劇場』の人文主義的な編纂方針が、そのテキストにおいても一貫していることを示しています。オルテリウスが日本情報の典拠としたマッフェイの『インド誌』は、当時のイエズス会士の著作家の代表的存在であったマッフェイが、イエズス会士によって各地から発信された書簡などをもとにして、ザビエルに始まるインド宣教から執筆当時に至るまでのヨーロッパ人が目にしたアジア地域の歴史を紡いだ書物で、1588年の初版刊行以来ヨーロッパ各地で幾度も再版が繰り返されたベストセラー作品です。マッフェイは、当時日本をはじめとするインド管区宣教の中心を担っていたヴァリニャーノと連絡をとりながら『インド誌』を執筆しており、その内容の信憑性の高さからも同書は当時のヨーロッパにおけるインド情報の最大の権威書の一つとして大いに読まれることになりました(マッフェイ『インド誌』の概要とその執筆経緯については、浅見雅一「キリシタン時代における日本書翰集の編纂と印刷」『史学』第71巻第4号、2002年所収論文等を参照)。オルテリウスはこの『インド誌』にいち早く注目し、そこに記された日本情報の重要性を理解して、このテキストの執筆に活かしたものと思われます。

 したがって、オルテリウスによる日本を紹介するテキストの内容は、概ねマッフェイ『インド誌』第12章に記された日本関係記事の内容に準じたものとなっています。まず、日本が主として3つの大きな島々で構成される島国であることを述べ、その最も大きな島にある「京(Meacu)」がその中心都市であること、第二の「下(Ximen)」島には「臼杵(Vosuquin)」、「府内(Funaium)」という都市が「豊後国(regni Bungesis)」にあること、第三の島である「四国(Xicocu)」には「土佐(Tosa)」という大きな都市があるという、日本の地理的な情報の解説から記事が始まっています。また、その長さや推定される緯度や軽度、中国やフィリピンなど他国の(ヨーロッパ人にとっての)拠点から日本までの距離などが論じられており、「五島列島(Insulam Gotum)」までの距離や方角が解説されています。続いて、日本の気候や農産物、鉱物資源、動植物などの記述に移り、日本は過ごしやすいものの寒さが厳しく、あまり豊穣とは言えない土地であるとしつつも、豊富な農産物が収穫できること、ヨーロッパの農産物との違いなどについて論じています。ヨーロッパのような葡萄酒(ワイン)がない代わりに米から作った酒を飲用することや、「茶(Chia)」と呼ばれる粉末を湯に混ぜて飲む特殊な飲料が好まれていること、またそれに関する器が珍重されていることなど、かなり詳しく日本の食文化が紹介されています。これらの記述に合わせて日本の人々の気質や特徴についても論じられていて、勇敢であらゆる逆境に耐えうる忍耐を有することなど数多くの美点を併せ持つ一方で、残忍で、国内での戦争が絶えないことが紹介されています。また、多くの島々からなる国であっても、用いられる言語は基本的に同一のもので、地域によってかなりの差異があるとは言え、同じ言語が用いられているとされています。社会階層については、最上位に「殿(Tonos)」と呼ばれる支配階層、次に「坊主(Bonzij)」と呼ばれる聖職者階層があり、彼らは大学のような研究機関を有していることが紹介されています。その下に市井の人々が第三階層として存在するとしています。日本の宗教については、数多くの宗派(セクト)があるとしていて、「阿弥陀(Amida)」、「釈迦(Xaca)」、「仏(Fotoquos)」、「神(Camis)」といった様々な崇拝対象があると述べています。日本の歴史ついてもその概要を簡単に論じており、日本は本来「王(Vo)」あるいは「内裏(Dair)」と呼ばれる全国を統べる唯一の統治者が「京(Meacum & Meaco)」に存在していたが、その後国内で内乱状態になり、京都を中心とした「天下(Tensam)」を占領すべく、僭主「信長(Nubunanga)」が現れ、それに続いて「羽柴(Faxiba)」が現れたとしています。テキストの最後では、日本とヨーロッパの交流の起点として、ガルヴァン(Antonio Galvan)の『古今発見記(Tratado dos Descobrimentos antigos, e Modernos,...Lisbon, 1563)』を情報源に、1542年にポルトガル人が嵐によって日本に漂着した出来事を挙げています。これらの記述は基本的にマッフェイ『インド誌』の記述に沿った内容をコンパクトにまとめたものと言える内容ですが、地図裏面に記される日本情報として、非常に充実した日本情報と評価しうるものと言えるでしょう。


『世界の劇場』地図裏面テキストの二つの重要性②:数多く存在する同一の「日本図」の刊行年特定の手がかりとしての価値

 こうしたテキストの内容の重要性に加えて、先に言及したようにこのテキスト面は本図の刊行年を特定する上でも重要なヒントを提供してくれるものです。この「日本図」は1595年に刊行された『世界の劇場』の第5補遺版と、それを受けて刊行されたラテン語改訂版(実質的な第6版)において初めて登場したものですが、それ以降に刊行されたドイツ語訳版や、フランス語訳版、イタリア語訳版、英語訳版、オランダ語訳版と様々な翻訳版にも収録されました。従って、まずこのテキストがラテン語で記されていることに着目することで、本図の刊行年を特定するにあたって、ラテン語版の変遷だけを追えばよいことがわかります。ラテン語版は1595年の刊行以降、1601年、1603年、1609年、1612年に刊行されていますので、1595年に最初に刊行された第5補遺版、第6版とを合わせて全6種のラテン語版のいずれかに、本図が収録されていたと推測することができます。次に、テキスト面下部に記された「107」という番号に着目することで、ここからさらに収録版を特定することが可能になります。この番号は、地図番号を記したもので、同じ「日本図」であっても版によって、何番の地図番号が与えられるかについては異なっていたことがわかっていますので、ラテン語版で「日本図」に「107」という地図番号を付した版を特定することで、収録版をさらに特定することができます。すなわち、ラテン語版で「日本図」を「107」番としているのは、1595年の改訂第6版、ならびに1601年版だけですので、本図はこれらのいずれかに収録されていたものであることが特定できます。ここから最終的な決め手となるのは、テキストの版組やキャッチワード(次ページ冒頭の単語をテキスト余白下部に記したもの)の有無となります。1601年版は、キャッチワード「princi-」がテキスト右下余白にあることがわかっていますが、本図にはそれがないこと、またテキストの版組の特徴から見て、1601年版とは異なっていることが見てとれることから、本図は1595年の改訂第6版に収録されていた「日本図」であることがわかります。つまり本図は、実質的に、この「日本図」が最初に発表された1595年に刊行された、(同年に刊行された第五補遺版収録図と同じく)初版と呼ぶことができる日本図であると言うことができます。

まとめ

 「テイシェイラ日本図」とも称される本図は、ヨーロッパで刊行された本格的な日本図の嚆矢となった記念碑的な作品として、これまで非常によく知られている作品ですが、それぞれの所蔵図の刊行年の特定や、裏面のテキストの重要性の再検討など、まだまだ研究すべき課題は残されており、今なお重要な研究価値を有する作品であると言えます。また、本図は刊行当時になされたと思われる手彩色が非常に美しい状態で残されているもので、裏面テキスト冒頭の飾り文字にまで彩色が施されており、展示活用などにおいても価値ある貴重な日本図ということができるでしょう。

 なお、オルテリウス『世界の劇場』が絶版となった後も(正確にはそれ以前に並行して)、メルカトールの地図帳の版権を取得してその後継者となったヨドクス・ホンディウスによって、本図に酷似した「日本図」が17世紀後半に至るまで繰り返し再版されており、時折ホンディウスによる日本図とオルテリウスによる本図とを混同している例が見受けられるため、注意が必要です。


「アブラハム・オルテリウス(1527-98年)は、ギリシア語、ラテン語、数学を学んだ多才な学者だった。このバックグラウンドが彼の人文主義哲学の礎となり、1558年頃、プランタンと知り合うきっかけにもなった。2人は仕事上、互いに有益な関係を築いていた。オルテリウスは、書籍や地図の販売や地図製作者として活躍していたが、その名を世間に知らしめたのは、なんといっても1570年に出版した『世界の舞台』である。これは、メルカトルに先んずること20年、しかも地図帳という形で刊行された初めての世界地図だった。彫版はフランス・ホーゲンベルクが手がけている。プランタンは本書を印刷しなかったが、紙の手配で協力している。それはー実際には9年後のことにはなったが、いずれは自分がこれを印刷するチャンスを見越してのことだったのかもしれない。
 オルテリウスの『世界の舞台』は大評判をよび、年内に4度も増刷された。さらに、1570年から1612年にかけて42版が、ラテン語、ドイツ語、フランス語、オランダ語、スペイン語、英語、そしてイタリア語の7言語で出版されている。16世紀の地図出版事業としては、破格の成功であった。オフィシーナ・プランティニアーナでは本文のみを印刷していた。『世界の舞台』が息の長い成功を収めている間、オルテリウスは地図の彫版や印刷の指示をし、製本や配本が必要になると、印刷された地図をプランタンのもとに自ら届けていた。その意味では、プランタン自身がこの出版で果たした役割はかならずしも多くはなかった。
 また当時の地図出版は、他人の成果を盗用するのに等しい状態だったが、オルテリウスは既存の地図を使用するにあたっては、必ず個々の地図製作者の名前を記すことでオリジナルの出所を明らかにした。これは彼が初めて行ったことである。
 オルテリウスは常に厳密な仕事を旨とし、「世界は“とるに足らないもの”ー広大な宇宙の中の単なるひとつの点に過ぎない」と言明することで、時代の先端をゆく人でもあった。そのお陰で私たちは、当時すでに強固で広い世界観を持っていた宗教と、まだか弱く未熟ではあったが科学によって証明されつつあった事実との幸せな融合を、今日なおここに見ることができるのである。」

「日本列島の主要な3つの島ー本州、九州、四国からなる、当時としては極めて精緻な地図。16世紀末、蝦夷と呼ばれていた現在の北海道は、日本の北にある隣国と考えられていたため、省略されている。
 ポルトガル人イエズス会士ルイス・ティセラが制作した、当時としては正確な日本の地図をオルテリウスは『世界の舞台』に採用したのである。またこれは、北緯30度から40度の間に日本を正確に位置付けた最初の地図でもあった。
 朝鮮が島として描かれている点も注目される。この頃メルカトルは、朝鮮はアジア大陸と地続きの半島であるという説を発表し、それまでの島説を覆そうとしていた。」

(スコット・リッチー「『世界の舞台』1570年版」解説、ならびに「〈日本図〉(『世界の舞台』所収)」解説、印刷博物館『プランタン=モレトゥス博物館展:印刷革命がはじまった:グーテンベルクからプランタンへ』図録、凸版印刷、2005年所収、100, 101頁より)

刊行当時のものと思われる美しい手彩色が施されており、保存状態も良好と言えるもの。
西経約17度とされるフェロ子午線を採用していることを考慮すれば、かなり正確な経度を記している。日本の輪郭を実像につかい形で初めてヨーロッパに伝えた日本地図として記念すべき作品。
朝鮮半島が島であるのか、半島であるのかについては、当時のヨーロッパではほとんど知られていなかったため、島のような形で朝鮮半島が描かれている。
イエズス会士の活動が盛んであった九州(BVNGO)や西日本については地名表記が充実している。
四国は「Tonsa(土佐)」と呼ばれている。西日本は地名表記がかなり充実しているのがよくわかる。
MEACO(都、京都のこと)は一際大きく表現され、本州は「IAPAON」と記されている。
西日本に比べて東日本の情報は相対的に少ないが、それでもかなりの情報量と正確さと言える。
製作者とされているイエズス会士テイシェイラ(Ludoico Teisera)は、当時の地図製作家として著名な人物で、オルテリウスとも親しかったと思われるが、実際に本図の原図を制作したわけではなく、イエズス会士によってもたらされた何らかの日本図をオルテリウスに提供したと考えられている。
制作年(特許取得年)として「1595年」と明記されているが、後年に刊行された版にもこの表記がそのまま残され続けたため、実際の刊行年の特定に際して混乱を生じさせる一因ともなっている。
地図の裏面には、地図との解説として日本について論じたラテン語記事が細かな文字でびっしりと印刷されている。染みのように見えるのは、地図面の朝鮮半島を塗った緑色の塗料が裏写りしたもの。
イエズス会士マッフェイの著作を参照にして記された記事は、コンパクトながらも多岐にわたるトピックを論じていて、当時のヨーロッパにおける日本関係記事として非常に興味深い。また、ページ下部の「107」という番号や、テキストの版組の特徴は本図の刊行年を特定する際の重要な手がかりとなる。テキストは、日本が主として3つの大きな島々で構成される島国であることを述べ、その最も大きな島にある「京(Meacu)」がその中心都市であること、第二の「下(Ximen)」島には「臼杵(Vosuquin)」、「府内(Funaium)」という都市が「豊後国(regni Bungesis)」にあること、第三の島である「四国(Xicocu)」には「土佐(Tosa)」という大きな都市があるという、日本の地理的な情報の解説から記事が始まっている。
テキスト後半では日本の歴史ついて簡単に論じており、日本は本来「王(Vo)」あるいは「内裏(Dair)」と呼ばれる全国を統べる唯一の統治者が「京(Meacum & Meaco)」に存在していたが、その後国内で内乱状態になり、京都を中心とした「天下(Tensam)」を占領すべく、僭主「信長(Nubunanga)」が現れ、それに続いて「羽柴(Faxiba)」が現れたとしている(最後2番目のパラグラフ後半部分)。テキスト末尾は1542年のポルトガル人の日本漂着が日欧交渉の起点であると論じている。