書籍目録

「1854年6月8日、ペリー提督と艦隊士官が(日本)帝国委員との面会のために下田に上陸する図(ペリーの下田上陸図)」

ハイネ / ブラウン

「1854年6月8日、ペリー提督と艦隊士官が(日本)帝国委員との面会のために下田に上陸する図(ペリーの下田上陸図)」

(超大型彩色リトグラフ)(『日本遠征画集』全6作品のうちの1枚) ペリー自身の旧蔵、以降ペリーの娘キャロラインとその子孫によって近年まで継承 1855年 ニューヨーク刊

Heine, Wilhelm / Brown Jr., Eliphalet M.

LANDING OF COMMODORE PERRY, OFFICERS & MEN OF THE SQUADRON, TO MEET THE IMPERIAL COMMISSIONERS AT SIMODA, JAPAN. JUNE 8. 1854. To Commodore M. C. Perry, Officers of men of the Japan Expedition...

New York, E. Brown Jr, 1855. . <AB20211688>

Sold

(Illustrations of the Japan Expedition)

Elephant folio hand colored lithographic print, Contemporary ? wood framed.
画面に焼け、シミが見られるが概ね良好な状態。製作当時?の木枠ガラス額縁入り。

Information

見物に詰めかけた日本の市井の人々や画家ハイネ、写真家ブラウン自身の姿も描きこまれたユーモアあふれる作品、 ペリー自身の旧蔵品にして歴代の子孫によって継承されてきたという驚くべき来歴を有する1枚

本作品は、ペリー(Matthew Calbraith Perry, 1794-1858)による日本遠征における1854年6月8日の下田上陸の場面を描いたものです。同年3月8日から横浜で行われた日米交渉において、下田と函館がアメリカ船の補給や避難のための港として開港されることになりました。これを受けて、下田の実況見分のためにペリーらは下田を訪れ、測量や現地の役人との会談を行いました。本作品は、このペリーらの下田上陸の場面を主題にしたもので、遠征隊に随行した画家ハイネ(Wilhelm Heine, 1827 - 1885)による水彩画をもとにして、同じく遠征隊に随行した写真家で優れた石板印刷(リトグラフ)技師であったブラウン・ジュニア(Eliphalet M. Brown, Jr., 1816 - 1886)が彩色リトグラフで製作した作品です。ペリーによる日本遠征を描いた印刷作品として最大のもので、遠征を記念してペリーと士官のためにわずか100部のみが制作されたことが記録されていて、極めて有名な作品である一方で、現在では入手が著しく困難な作品としても知られる貴重な一枚です。しかも、本作品は、ペリー自身がかつて所蔵し、ペリー没後はペリーの娘に遺贈され、直近に至るまで代々にわたって大切に継承され続けてきたことがわかっているという、驚くべき来歴を持つ作品です。

 本作品はハイネとブラウンによる超大型彩色リトグラフ作品の中でも、緊張感あふれる交渉をすでに終えた後の場面を主題としている作品のため、他の作品には見られないような日本の市井の人々の姿が活写されている点に大きな特徴があります。また、スケッチを行う画家ハイネや、写真撮影を行うブラン自身の姿が作品中に描かれていて、全体的に一定の緊張感を伴いつつもユーモアあふれる作品となっています。

「遠征隊を率いて下田に上陸するペリーを画題としたこの石版画には、画面真中下辺りに、群衆に混じってスケッチをしているハイネ自身の姿が描かれている。また画面左端には、従軍写真家として遠征に随行したエリファンレット・ブラウン・ジュニアが、記録のための写真撮影を行なっている姿も描かれている。このときブラウンが撮影に使用していたのは、ダゲレオタイプ(銀板写真機)であり、日本には嘉永元(1848)年に渡来している。なおこの石版画と同じ場面を描いた挿絵が、『日本遠征記』にも収められているが、こちらにはハイネとブラウンの姿が描かれておらず、その違いが見られる。」 
(印刷博物館編『開国150年記念展「西洋が伝えた日本/日本が描いた異国」図録』印刷博物館、2004年、148頁より)

 ペリーは日本遠征に際して、外交上の成果を上げることはもちろん、のみならず遠征中にあらゆる分野の学術調査を行い、それらを公開することも目的としていました。日本遠征による成果は、アメリカ議会の公式文書として刊行された有名な『日本遠征記 (Francis Lister Hawks(ed.). Narrative of the Expedition of an American Squadron to the China seas and Japan,... 3 vols. Washington, 1856)』において余すことなく公開され、国内外に広く伝えられました。この『日本遠征記』は、同じ内容で上院版と下院版との2種類が印刷され、その発行部数については議論がありますが、概ね3万部から4万部と言われていることからもわかるように、アメリカの国家的プロジェクトを記念する出版物として大量に刊行されました。このような出版物の刊行は、当時の欧米において国家的プロジェクトとして遂行された航海に際して頻繁に行われており、こうした出版物の公刊において、その航海の内容が誇らしげに喧伝されるだけでなく、偉大な航海を遂行するだけの高度な技術力を自国が有することを誇示し、また外交力に加えて、文化的、学術的水準の高さといった総合的な国家の力量が喧伝されるという状況にありました。ペリーの日本遠征に、ハイネやブラウン・ジュニアといった画家、写真家が随行していたのも、帰国後の遠征成果の公表において不可欠な、各地の風景、人物、出来事を描いた図版を制作するためで、彼らの作品は、上述の『日本遠征記』第1巻を彩る数多くの図版において見ることができます。

「1819年に至って西欧諸国は探検航海にその国の著名な画家を参加させ、画家たちは、引き続く探検報告書の作成で多大な貢献をした。ペリーが日本遠征隊を組織した1852年(嘉永五)当時、遠征艦隊に画家が同行する習慣がすでに定着していた。遠征の報告書には文章による叙述ばかりだけでなく、挿絵の入った遠征記が、国や政府から大きな期待を寄せられていたのである。
 そこでペリーに選ばれたのが、ウィリアム・ハイネとエリファレット・M・ブラウン・Jrであった。二人とも一級の腕前をもつ専門家たちであった。(中略)ハイネはすでに米国で名の知られた画家であったし、将来を嘱望された若者であった。一方でブラウンは精密画や絵画を専門とし、銀板写真家の草分けでもあった。日本遠征でブラウンは絵画も描いているが、主として銀板写真に専念している。ハイネは動物学の標本を集め、その多くは鳥類であったが、それらを描いて記録に残した。ハイネとブラウンは探検家や地図の作成者たちと多くの時間を共にし、ハイネがその分野の絵画や精密画を描く中心となった。彼らは世界航海と日本開国の厳しさを共に分かち合い、その中で友情が深まっていった。1855年に米国へ帰還したブラウンは、ハイネが米国の永住権を取得する際の保証人になっている。」
(フレデリック・トラウトマン / 座本勝之訳(ペリーとともに:画家ハイネがみた幕末と日本人』三一書房、2018年、32, 33頁より)

 ペリーによる日本遠征に関係する記録、図版の出版は(実際にはそれを逸脱する出版物が頻発したとはいえ)原則として、全てペリーによる公式の許可を得ない限り公刊することが許されていませんでした。従って、遠征中の記録としては、アメリカ議会による公式の報告書である『日本遠征記』がほぼ独占的な地位を占めることになっています。ただし、関係者が個別にペリー(並びにアメリカ議会)の許可を得ることができた際には、独自に出版物を刊行することも可能で、画家であるハイネは自身の10作品をリトグラフで再現した画集『日本遠征石版画集(Graphic Scenes in the Japan Expedition. New York, 1856)』を独自に刊行しています。このハイネの『日本遠征石版画集』は、『日本遠征記』よりもその発行部数ははるかに少なかったものと思われますが、それでも現在の古書市場でもしばしば目にすることがありますので、一定数が流布したものと思われます。

 本作品も、Entered according to Act of the Congress in the year 1855 by Heine & Brown in the Clerk’s Office of the District Court of the Southern District of New York. と記されていることからもわかるように、ブラウン・ジュニアがペリーと議会の許可を得た上で1855年に刊行されたものですが、そのサイズがべらぼうに巨大、かつ細部は極めて精密に描かれている、他の出版物とは一線を画した異色の作品です。『日本遠征記』も四つ折り版 (約22 cm x 30 cm)と立派な書物で、多くの彩色リトグラフを収録した非常に豪華な出版物として知られ、先に述べたハイネの『日本遠征石版画集』も約51 cm x 37 cm という大型の彩色リトグラフ集でしたが、本作品は、約66 cm x 91 cmという規格外のサイズを誇っています。これだけ巨大なリトグラフを制作するためには、原画であるハイネの水彩画を石版の原版に落とし込んで印刷し、さらに精密な手彩色を施すという、途轍もない技術とコストが必要とされます。そのため、本作品は、当時の印刷技術の限界に挑戦するような試みだったのではないかと思われますが、本作品の出来栄えと圧倒的な迫力を見る限り、その試みは大きな成功を収めたということができるでしょう。

 ただし、このように非常に高度な技術力とコストを要するこの作品は、議会報告書である『日本遠征記』のように数万部も大量に製作することは到底不可能だったと思われます。また、そのコストのゆえに発行部数が限られていたハイネの『日本遠征石版画集』と比べてさえ、より一層少ない製作数であったということは、本作品の作りから容易に想像できます。しかも、ブラウンは、本作品だけではなく、他にも下記の5作品(いずれも本作品と同じ巨大なサイズ)をひとまとめとして、全6作品からなる『日本遠征図集(Illustrations of the Japan Expedition)』として刊行していますので、そのコストが膨大なものだったことは間違いなく、本作品が、大量に印刷され一般に流布させることを目的として制作されていないことは明白です。

1. 「琉球首里城訪問からの帰還」(Return of Commodore Perry, Officers and Men of the Squadron from an Official Visit to the Prince Regent at Suri, Capital of Lew Chew, June 6th 1853)
2. 「ルビコン川を渡る(江戸湾侵入)」(Passing the Rubicon, Lieut. S. Bent in Mississippi’s First Cutter Forcing His way Through a Fleet of Japanese Boats While Surveying the Bay of Yedo, Japan, July 11th 1853)」
3. 「久里浜上陸」(First Landing o Americans in Japan, Under Commodore M. C. Perry at Gore-Hama July 14th 1853)
4.「横浜上陸」(Landin of Commodore Perry, Officers & Men of the Squadron, To meet the Imperial Commisioners at yoku-Hama, Japan March 8th 1854)
5. 「下田の寺院での演習」(Exercise of the Troops in Temple Grounds, Simoda, Japan in Presence of the Imperial Commissioners, June 8th 1854.)

 ブラウン・ジュニアによるこの『日本遠征図集』が一体どれほどの部数が制作されたのかについては、はっきりとした記録がないようで、ブラウン・ジュニアが公刊許可を得るに際して、ペリーに100部を贈呈し、それらがペリーを通じて士官に配布されるものと約したという記録があるのみと言われています。このペリーに贈呈した100部以外にも制作されたのかについては、全く不明のままですが、本作品の作りと現存流通状況を見る限り、おそらく制作されたとしても極めて少部数であったのではないかと思われます。『日本遠征図集』は本作品と上掲5作品の計6作品からなりますが、G. W. Lewis とSarony & Co.、Boell & Michelin という3つの異なる印刷会社が作品ごとに分担して印刷を担っていることがわかっており、このことからも一つの印刷会社で全ての作品の印刷を担えないほどの労力を必要とする作品であったことは明らかで、こうしたことにも鑑みますと、やはり発行部数は100部ほどだったと考えるのが妥当ではないかと思われます。

 このように、本作品はペリーの日本遠征の象徴的場面を描いた大変重要な作品で、しかも極めて少部数のみしか製作されなかったと思われる非常に貴重なものですが、さらに驚くべきことに、この1枚はペリー自身がかつて所有し、しかもペリー没後はその娘であるキャロラインに遺贈され、それ以降子孫代々にわたって直近に至るまで継承されてきたという確かな来歴を持つ1枚です。先に触れたように、この作品はブラウンによって刊行された際に、100セットがペリーに提供され、ペリーはそれを海軍士官はじめ自身や日本遠征に関係の深い人々に寄贈したことが伝わっていますが、この1枚は、ペリー自身がこの作品を愛蔵していたという大変興味深い事実を明らかにしてくれるものです。この作品は前述の通り全6枚からなる作品ですが、中でもこの1枚(並びに弊店HPで紹介しているもう1枚)は、ペリー自身がそれとわかる形ではっきりと描きこまれている作品であることから、特にペリー(とその娘キャロライン以降の継承者たち)が特別な思い入れを持って所有していたことがうかがえます。ペリー自身は日本遠征から帰国して間も無くして亡くなっていますが、その後のこの1枚が受け継がれた系譜を簡単に示しますと下記のようになります。


初代:ペリー(Matthew Calbraith Perry, 1794 - 1858)

第2代:キャロライン(Caroline Slidell Perry Belmont, 1829 - 1892)
*夫:ベルモント1世(August Belmont I, 1813 - 1890)

第3代:ベルモント2世(August Belmont II, 1853 - 1924)
*妻:エレノア・ロブソン(Eleanor Robson, 1879 - 1979)

第4代:ベルモント3世(August Belmont III, 1882 - 1919)
*妻:アリス・ウォール(Alice Wall, 1881 - 1926)

第5代:ベルモント4世(August Perry Belmont, 1908 - 1995)
*妹:セシリア・ルイス・ベルモント(Cecilia Lewis Belmont, 1913 - 1972)

第6代:セシリア・ベルモント・ジル(Cecilia Belmont Gill)
*ベルモント4世の姪

第7代(前所有者):ジェニファー・ワース (Jennifer Worth)
*セシリア・ベルモント・ジルの孫

 ペリー没後にこの1枚は、ペリーの娘であったキャロラインに遺贈されました。キャロラインはペリーの四女に当たる人物で、ニューヨークの金融、実業界でめざましい活躍を見せていたベルモント1世と1849年に結婚しています。キャロラインは父ペリーの日本遠征を非常に誇りに思っていたようで、ペリー夫人(キャロラインの母)から自身の息子に贈られた日本遠征記抄録版や、グリフィスによるペリーの伝記を有していたことが知られており、キャロライン旧蔵洋書の一部は横浜開港資料館に所蔵されています(横浜開港資料館編前掲書、92頁)。キャロラインの夫となったベルモント1世はヨーロッパ政財界において絶大な影響力を持つロスチャイルド家のニューヨークにおけるエージェントして、August Belmont & Company を創立するなど実業界で大いに活躍した人物で、二人の結婚以降、ペリー・ベルモント家はニューヨークを代表する名家となり、以降ベルモント4世に至るまでその事業と遺産を継承してきました。またベルモント3世の妻であるアリス・ウォールは当時のニューヨークを代表する女優として活躍したことでも知られるなど、ペリー・ベルモント家は多彩な人材を輩出しながら、それぞれの時代の多様な遺産の継承がなされて行ったようです。この1枚もペリー・ベルモント家の遺産のひとつとして代々継承されてきたことがわかっており、ベルモント4世の没後はその妹の娘(ベルモント4世の姪)であるセシリア・ベルモント・ジルに継承され、そこからセシリアの孫であり、直近の所有者であるジェニファー・ワースへと継承されました。実に7世代上にわたる継承によってこの1枚は大切に継承されてきたわけですが、それだけ初代ペリーによる日本遠征を同家の誇りの一つとしてきたことがうかがえるもので、ただでさえ貴重なこの作品の、ペリー自身の旧蔵品が現代に至るまで伝えられてきたことには驚きを禁じ得ません。

「ペリーの帰還(メキシコ戦争からの;引用者注)から1年ほどたって、20歳になる娘キャロラインが、ニューヨークで最も裕福で相手として申し分のない独身男性オーガスト・ベルモントと結婚した。彼は遠戚にあたるロスチャイルド家の代理としてニューヨークにきたユダヤ系ドイツ人で、到着と同時に1837年の恐慌の荒廃ぶりを目の当たりにすることになった。ニューヨークの不況にもかかわらず、金と信用を有する数少ない人間の一人であったため、建築敷地だろうと銀行手形だろうと必需品だろうと手に入るだけのものを底値で購入して財産を築き、すぐにニューヨーク三代銀行家の一人に数え上げられるようになった。訛のある英語を話す洗練されたヨーロッパ人で、浪費家だという評判を楽しんでいた。足を引きずって歩くことになったのは、ある美貌の既婚女性との不倫を非難した男と決闘した結果だった。ベルモントは熱心な民主党員であり、ポーク政権を支持し、アメリカ政府とメキシコ政府双方に貸付を行なった。当時、メキシコは先の戦争で支払い不可能なほど賠償金が膨れ上がっていたからである。ベルモントとキャロライン・ペリーの結婚は、新聞や社交界でもてはやされたが、それは、目もくらむような財産家と「勇名を馳せた海軍士官の娘」の縁組みだったからだった。結婚の贈り物としてベルモントは妻にニューヨーク市で最高価格の不動産を2ブロック以上プレゼントした。」
(ピーター・ブース・ワイリー / 興梠一郎(訳)『黒船が見た幕末日本:徳川慶喜とペリーの時代』株式会社ティビーエス・ブリタニカ、1998年、75ページより)

 このように非常に貴重な本作品ですが、日本国内の研究機関においては、店主の知る限りでは印刷博物館が本作品を含む『日本遠征図集』全6作品を所蔵していることが確認できます。これ以外に一体どれだけの所蔵機関があるのかについては、不明ですが公式記録である『日本遠征記』、ハイネの『日本遠征石版画集』と比べても著しく少ないのではないかと思われます。その意味でも、本図は非常に貴重で重要な一枚ということが言えるでしょう。


「他の日記と同様に、ハイネの絵も公式記録『日本遠征記』編集のために提出することを義務づけられていましたが、大きすぎた水彩画はブラウンの手元に残すことが許可されました。ブラウンは帰国後、政府の許可を得てそれを大判の石版画にし、日本遠征記より一足早く1855年に出版しています。このハイネの絵による『日本遠征画集』Illustrations ofg the Japan Expedition の内容は、「首里城訪問からの帰還」「ルビコン川を渡る」「久里浜上陸」「横浜上陸」「下田上陸」「下田了仙寺境内における軍事演習」の6点で、それに表紙絵がついていました。このなかで日本遠征記に類似の絵が見られるのは久里浜上陸の図だけです。
 ブラウンは出版の許可をペリーに申請したとき、100部をペリーのために用意すると述べています(アメリカ国立公文書館蔵「東インド艦隊書翰」(RG45, M89/7-8))。現在では6点ともそろった完本は希少となっていますが、『ペリー日本遠征随行記』(新異国叢書)の口絵に掲載されています。当館では「久里浜上陸」「横浜上陸」の2点を所蔵しています。原画の水彩画のうち5点は長くアメリカ人の個人蔵となっていましたが、現在、4点(ルビコン川、久里浜上陸、横浜上陸、下田上陸)は明星大学図書館が所蔵しています。」
(伊藤久子「ハイネの石版画集」横浜開港資料館編『ペリー来航と横浜』横浜開港資料館、2004年、76頁より)