書籍目録

「日本の首都である京都への小旅行 / ミカドとの謁見記」

パリス / プティ=トゥアール

「日本の首都である京都への小旅行 / ミカドとの謁見記」

(『海洋と植民地雑誌』第26号より) [1869年] [パリ刊]

Paris. A. / Petit-Thouars, Abel Bergasse du.

UNE EXCURSION A KIOTO, CAPITALE DU JAPON. / VISITE AU MIKADO.

[Paris], [Paul Dupont / Challamel], [1869]. <AB20211682>

Sold

[Extracted from Revue Maritime et Coloniale. Tome 26]

8vo (15.0 cm x 23.5 cm), pp.850-876, Folded plates: [3], Modern paper wrappers.

Information

フランス公使の天皇との謁見と京都での見聞録を絵入で報じた貴重な記録

 本書は日本国内が激動に揺れる1868年2月、フランス海軍デュプレクス号の士官11名が堺の湾内で測量中に土佐藩兵に殺害された「堺事件」の直後同年3月にミカド(天皇)にフランス公使ロッシュが謁見するために大阪から京都と訪れた際に見聞したことを記録した大変興味深い作品です。

 著者パリス(A. Paris)は、フランス海軍士官としてデュプレクス号に乗船していた人物で、本稿の前編にあたる「京都と大阪をつなぐ河川の観察」を1868年に発表しており、ここでは京都到着後の様々な見聞を記しています。また、本書後半にはデュプレクス号艦長であったプティ=トゥアール(Abel Bergasse Du Petit Thouars, 1832 - 1890)によるミカド(天皇)との謁見の様子を記した記録となっていて、欧米列強諸国の中でいち早く(1868年3月23日)天皇との謁見を果たしたフランス使節の当時の様子を知ることができる大変貴重な記録となっています。プティ=トゥアールによるデュプレクス号での当時の日本記録については、彼の没後1906年に日記や書簡、メモなどを編纂して刊行された著作 Le vice-Amiral Bergasse Du Petit-Thouars d’après ses notes et sa Correspondance. 1832-1890. (Paris, 1906)に収録されていますが、本書はこの著作よりもはるかに早く同時代の速報記事として刊行されたもので注目に値します。同書は、日本関係記事だけを抜粋して『フランス艦長の見た堺事件』(森本秀夫訳、新人物往来社、1993年)として日本語でも刊行されており、その内容は国内でも比較的よく知られていると思われますが、事件当時にプティ=トゥアールの記事が既に公表されていたことはあまり知られていないのではないでしょうか。

 また『フランス艦長の見た堺事件』には、本書前半のパリスによる大変興味深い京都見聞記も付録として「日本の首府・京都への小旅行」と題して収録されていますが、本書に収録されている大阪や伏見、京都の様子を描いた折込図版は収録されていません。これらの図版は、天保山、淀城、大阪城、大阪湾から望む大阪パノラマ図、薩摩藩邸、京都の寺院などを描いたもので、いずれも大変興味深いものです。パリスの京都見聞記は、外国人による単なる物見遊山ではなく、堺事件をはじめとした当時のフランス施設から見た日本の政治、社会状況の分析に始まり、道中での注意深い観察に基づく様々な日本社会についての考察をも含むもので、それでいて臨場感あふれる寄稿文ともなっている大変魅力的な作品です。荒廃した京都の街並みに嘆息しつつも、工芸品に関心を示したりもしています。また、フランス使節一行と同じく天皇との謁見を控えていたイギリス公使パークスが襲撃されるという大事件が、パリスの京都滞在中に起こっており、この事件についても詳しく記されています。それ以外にも大久保利通と思しき薩摩藩関係者をはじめとした日本側使節との交際なども描かれており、京都におけるフランス使節一向の多方面にわたる動向を窺い知ることができます。

 本書を紐解くと、これだけの内容を持った詳細な日本情報に関する記事が、速報記事として当時のパリの読者に向けて図版と共に公開されていたことには、あらためて驚かされます。


「ベルガス=デュ=プティ・トゥアールは代々海軍関係者を輩出しているフランス名門の出である。1832年3月23日、ロワレ県のボルドー=レー=ルーシュの城で生まれた。36歳の誕生日に、明治天皇に謁見する運命にあったのも縁と言わざるを得ない。海軍に入隊し、1849年8月二等見習士官となり、デュランス号で南米へ初の航海をする。以後広くオセアニアやアジアを遠征し、1854年海軍中尉に昇進。翌1855年、クリミヤ戦争の際にはセバストポルの包囲に参加し、頭部に傷を負う。1856年には海軍大尉に昇進し、艦長として活躍する。デュプレクス号の艦長に任命され、シェブール港を出港して日本に向かったのは1867年7月28日である。途中サイゴンに寄港し、1868年2月10日横浜に到着。この任務を終了したのは翌1869年8月14日であった。日本遠征当時の階級は海軍中佐であった。(後略)。」

「ベルガス艦長が滞在した当時の日本におけるフランスの立場は極めて微妙であった。フランス本国における外交政策の変更、フランスが支援していた幕府の倒壊、新政府の樹立に伴うその承認問題、イギリスとの関係の見直しなど、政策転換を迫られたフランスの苦悩が読み取れる。ベルガス艦長は、一方でデュプレクス号に明治政府の要人を招待し、フランスが新政府に好意的であることを示し、他方でこれまで薩摩・長門に肩入れしてきたイギリスとの協調関係を回復するため、パークスやミットフォードをはじめとするイギリス外交筋と親しく交わる。そのためにフランス、とりわけロッシュにとっては必ずしも好ましい存在であったと思われないド・モンブランをも抱き込み、必死になってこれまでの孤立の立場から脱却し、これまで通りにフランスの外交上の優位を守ろうと努力をする。ベルガスは全面的にイギリスに与したわけではなかった。日本の伝統・風習・法律を少しも尊重せずに、一方的にヨーロッパの考え方を押しつけるイギリスの外交方針には批判的であり、随所にこれを皮肉ってもいる。」
(プティ・トゥアール / 森本英夫訳『フランスの見た堺事件』新人物往来社、1993年、解説236, 237ページより)