書籍目録

『1612年から1615年にかけて公方様が治める日本の諸王国で生じた我々の聖なる信仰に関する出来事の報告:偉大なる我らが王フェリペ3世に捧ぐ』

ピニェイロ

『1612年から1615年にかけて公方様が治める日本の諸王国で生じた我々の聖なる信仰に関する出来事の報告:偉大なる我らが王フェリペ3世に捧ぐ』

初版 1617年 マドリッド刊

Piñeyro, Luys.

RELACION DEL SVCESSO QVE TVVO NVESTRA SANTA FE EN LOS REYNOS DEL IAPON, DESDE el año de seyscientos y doze hasta el de seyscientos y quinze, Imperando Cubosama.

Madrid, Alonso Martin de Balboa, 1617. <AB202164>

Sold

First edition.

Large 8vo (19.5 cm x 28.8 cm), Title., 7 leaves, pp.1-381, 383[i.e.382], 382[i.e.383], 383[I.e.384], 385-437, 457[i.e.438], 439, 40[i.e.440], 441-516, 4 leaves(Tabla), Modern full leather.
Ii4の頁付(503)の印刷のズレあり。比較的近年に施されたと思われる総革装丁。その際に用紙余白部分の傷み、欠損箇所等にも手を入れたものと思われ、専門家による極めて丁寧な修復がなされている。見返しに過去の販売記録の切り抜きの貼り付けあり。[Laures: JL-1617-KB8-332-215 / Sommervogel: V. 6, 817-818]

Information

徳川幕府によるキリスト教迫害の本格化を詳細に伝えると共にイエズス会の日本の宣教活動の正当性を強調、「天草コレジヨ」所在地論争に終止符を打つ記述でも注目される作品

 本書は、イエズス会士ピニェイロによって執筆された、1612年から1615年にかけて日本で生じたキリスト教び迫害について詳細に報じた作品で、大型本で500ページを超える大部の著作です。フェリペ3世に捧げられた本書は、迫害が激化し始めた時期の日本のキリスト教をめぐる厳しい状況と、それにも関わらず日本の信徒が迫害を恐れず信仰を守り通りして殉教していることを報じることで、イエズス会による日本宣教活動の正当性を述べると共に、スペイン王の庇護と援助を求める目的で執筆されており、その意味では、同時代の日本の状況に対するイエズス会の公式見解とみなしうる重要な作品です。本書は、当時の日本の状況についての貴重な記事を多数収録されていることに加えて、ヨーロッパにおけるイエズス会とフランシスコ会との対立をはじめとした錯綜する利害関係の中で刊行された作品でもあることから、日本の宣教活動がこうしたヨーロッパ史の文脈と複雑に絡み合っていたことを示唆してくれる非常に興味深い書物でもあります。また、長年にわたって激しい論争が続けられてきた「天草コレジヨ」の所在地をめぐる論争の終止符を打つ決定的な記事を収録した作品としても、近年俄かに注目を集めている書物です。
 
 ピニェイロ(Luys Piñeyro, 1560 - 1620)は、ポルトガルにルーツを有するタラベラ出身のイエズス会士で、1576年にコインブラにあったイエズス会のノヴィシャードに入学し、1600年以後は、サン・ミゲル等のコレジオで教鞭をとっていたことで知られています。1615年から1618年にかけてはマドリッドに置かれていたイエズス会の連絡所(Procura)における日本管区の代表者であるプロクラートルを勤めており、この間に出版された本書が彼による唯一の著作として伝えられています。ピニェイロ自身は、日本に赴いたことはなく、本書刊行から間もない1620年にリスボンで亡くなりました。

 本書は、1612年から1615年にかけて日本で生じた様々なキリスト教の迫害と殉教事件について詳細に報じたものですが、このような書物が刊行された背景には、1612年の岡本大八事件に端を発する日本におけるキリシタン弾圧の激化があったことはいうまでもありません。それまでの15年間近くの間、徳川幕府によるキリスト教に対する態度は曖昧なもので、それほど大規模な迫害事件は生じていませんでしたが、キリシタン大名が事件の当事者であった岡本大八事件以降は、はっきりとキリスト教を禁じる方針に転じ、1614年にはキリスト教の禁止令を発するまでに至ることになります。これによって、まずは家康の膝下であった駿府、そして岡本大八事件の当事者であった有馬晴信の所領地であった有馬においてキリスト教迫害が本格的に始まり、それ以降、全国的な広がりを見せていくことになりました。このような日本のキリスト教をめぐる状況の劇的な変化は、衝撃をもってすぐさまヨーロッパに伝えられました。長年にわたって日本における宣教活動の中心的役割を果たしてきたイエズス会としては、こうした日本のキリスト教をめぐる状況の劇的な変化に対して、詳細な実態報告と迫害の背景事情の説明を行う必要が生じていたということが、本書刊行の大きな一つの要因としてあります。

 また、それと同時に、本書が刊行された背景には、30年戦争前夜のヨーロッパにおける聖俗両界における複雑な利害関係の錯綜状況があったことも間違いありません。イエズス会の日本宣教に対しては、すでにフランシスコ会などの托鉢修道会画素の独占に対する批判を兼ねてから行なっていましたが、日本におけるキリスト教迫害が激化するようになってからは、その原因をイエズス会による宣教方針の失敗に求める批判の声が上がっていました。こうした批判に対して、日本におけるイエズス会の宣教方針が、いかに正当なもので多くの成果を上げてきたのかを喧伝する必要が生じており、本書のような書物の刊行が促されることにつながりました。また、それと同時に日本における非常に厳しい状況に対して、フランシスコ会の「不当な批判」に対する弁明を行うと同時に、スペイン王フェリペ3世の庇護と財政支援を求めることもイエズス会において企図されることになりました。本書のタイトルページにおいて、本書をフェリペ3世に対する捧げる旨が大きく記され、フェリペ3世の紋章(スペイン・ハプスブルク家の紋章)が掲載されているのにはこうしたことが背景にあると考えられます。(トリエント公会議後の決定事項と聖俗両界に渡る影響力の視点から本書を紹介した研究として、Rady Roldan-Figueroa. Father Luis Piñeiro, S.J., the Tridentine Economy of Relics, and the Defense of the Jesuit Missionary Enterprise in Tokugawa Japan. In Archiv für Reformationsgeschichte. Volume 101, Issue 1. が参考になります)

 このように本書は、日本における迫害の激化とヨーロッパにおける複雑な政治状況を背景に出版されていますが、このような背景の元にイエズス会から刊行された書物は本書が最初のものではなく、本書刊行の前年1616年にイエズス会士モレホン(Pedro Morejón, 1562 - 1639)が『日本殉教録』(Breve relacion de la persecucion que huuo estos años contra la Iglesia de Iapon,...Mexico, 1616)を刊行していました(同書とその解説については邦訳書である、佐久間正訳『日本殉教録』キリシタン文化研究会、1974年を参照)。モレホンはピニェイロと異なり、20年を超える日本での宣教経験があったイエズス会士で、日本の苦境をヨーロッパに伝えるために日本管区プロクラートルの補欠として一時帰国した際に、同書を刊行しました。同書は初版がモレホンの帰路途上のメキシコで出版され、1617年にはサラゴサでも刊行されています。モレホンは、マドリッド滞在中にピニェイロと協議した上で、自身の『日本殉教録』を素材により広範囲な読者を得るための著作刊行を計画し、その結果として刊行されたのが本書であると考えられています。従って本書は、その記述内容の多くをモレホン『日本殉教録』に負っており、これに日本のイエズス会士から送られてきていた書簡等を参照した上で執筆されています。本書は、ヨーロッパ、特にその庇護を願ったスペイン語圏におけるより多くの読者の理解とスペイン王フェリペ3世の援助を得ることを最大の目的の一つとして執筆されていることから、結果的により親しみやすく、わかりやすい筆致となっていることが独自の大きな魅力となっています。

 本書は、タイトルページに続いて、各種の出版の許認可関係の記載と、フェリペ3世への献辞文などが掲載されています。その後に、読者への序文と、本書の構成の簡単な解説、本書をよりよく理解するための注意書き(日本についての概説)が掲載されていることが注意を引きます。ピニェイロは、本書が全5部で構成されていることを述べ、各部の構成について、第1部は、「最初の迫害が始まった日本帝国の状況と、日本の君主がそのために行ったこと、特に駿河と有馬の領地で生じたこと」が、第2部は、「他の国々にも同様の迫害が広がり、その中でどのようなことが生じたか、特に信徒の亡命、殉教、それらに対して教会が行ったこと」が、第3部は、「日本の君主が日本全土にわたる迫害をどのように進めていったか、イエズス会とその神父たちの長崎への追放と教会の破壊について」が、第4部は「イエズス会神父や主だった神父のマカオ、マニラへの追放と彼らの追放後に有馬で生じた殉教事件」が、最後の第5部は「我らが主がこうした迫害の只中において取りなし給うたことと、日本の教会に生じた最新の出来事」が論じられるという本書全体の概要を読者に示しています。また、それに続き「注意書き」では、日本についてあまり親しみのない読者のために、日本についての一般的な短い解説がなされています。これらは、聖職者やその関係者だけでなく、より多くの読者に本書が読まれることを願ったピニェイロの執筆方針を示すものと思われます。

 ピニェイロが述べているように、本書は全5部構成となっていて、各部が個別の殉教事件やトピックによってさらに細かな章に分けられています。その構成とページ数を簡単に示しますと下記のようになります。

第1部「日本における状況と駿河と有馬で最初に生じた迫害の原因について:(1-100頁)
第2部「日本帝国内の様々な王国で生じた迫害について」:(101-228頁)
第3部「神父たちが亡命を余儀なくされ、殉教者が生じることになった日本の迫害について」:(229-368頁)
第4部「神父たちが追放された後に日本で生じた迫害について」:(369-456頁)
第5部「日本における迫害と、我らが主が日本の新しい教会になし給うたことについて」:(457-516頁)

 本書はフェリペ3世に捧げられているだけあって大型の豪華本として出版されていて、左右にテキストが分割されたダブル・コラムの構成で500ページを超えるという非常に大部の著作となっています。本書で記されている1612年から1615年にわたる日本のイエズス会を中心としたキリスト教界の状況の報告は、同時代の多数の報告を参照し、日本での豊富な宣教経験を有するモレホンの助力を得た上で執筆されていることから、非常に詳細な記述となっており、かつ多くの読者の共感を得られるような筆致で認められていることが、類書にない本書の魅力となっています。

 また、本書第5部の末尾では、この間の日本における殉教者の名簿や、イエズス会の教会や住居、学校施設などが、破壊されたもの、移転を余儀なくされたものも含めて一覧で掲載されています。このイエズス会施設リスト中には、その所在地が本渡であるのか河内浦であるのかを巡って、半世紀以上にわたる激しい議論が続けられてきた「天草のコレジヨ」の所在地を確定させる根拠となる「河内浦(Cavachinoura)」の記述を見ることもできます(この発見の詳細については、天草テレビ出版『天草キリシタン 10の謎』2020年を参照。また、天草コレジヨの所在地をめぐる議論の経過については、玉木讓『天草キリシタン史:イエズス会宣教師記録を基に』新人物往来社、2013年、ならびに、同「天草コレジヨ所在地論争を検証する」『潮騒』第36号、2021年所収論文を参照。)

 イエズス会が総力を上げて企画した同時代の「殉教録」である本書は、既に翻訳のあるモレホンの著作と比べて言及されることが少ないですが、当時果たした役割と後世に残した影響力の大きさの点では、モレホンの著作と同等かあるいはそれ以上のものがあったのではないかと思われることから、今後より一層の研究がなされることが待たれます。なお、本書刊行翌年にはフランス語訳版(La nouvelle histoire du Japon...Paris, 1618)が刊行され、1621年にはモレホンが、1615年から20年までの日本の状況を論じた『続日本殉教記』(Historia y relacion de losucedido en los reinos de Iapon...Lisboa, 1621)を、本書の続刊として刊行しています。