書籍目録

『満州の温泉地』

ジャパン・ツーリスト・ビューロー大連支部

『満州の温泉地』

1919年 大連刊?

JAPAN TOURIST BUREAU DAIREN BRANCH

HOT SPRINGS IN MANCHURIA FINE HEALTH AND HOLIDAY RESORTS AMIDST MAGNIFICIENT SCENERY WITH MAPS AND ILLUSTRATIONS

(Dairen?), not stated, 1919. <AB2017106>

Sold

12.3 cm x 17.8 cm, Title, pp. [1], 2-40. Folding maps: [5], Original pictorial wrappers with tissue guard.

Information

満州の三大温泉地を中心に地図と写真を豊富に交えた英文ガイドブック

 「日本人が満洲(本稿では歴史的名称として,「満洲」を使用する)に温泉があることを知ったのは,日清・日露戦争を契機としてである。1894 年 10 月,鴨緑江を渡った日本軍は九連城を占拠し鳳凰城へと進軍するが,その途上で五龍背に温泉があることを知った。さらに鳳凰城から海城を経 て牛荘に進む途中,湯崗子の温泉を利用したといわれる。その後の日露戦争の際には,熊岳河に湧き出る温泉を付近の住民が利用していることを知り,日本軍はここに初めて浴槽を設け,療養に用いた。この湯崗子, 熊岳城,五龍背の温泉は,その後「満洲三大温泉」と称され,日本式の温泉旅館や温泉ホテルが経営され,多くの日本人が訪れることとなる。
(中略)
 日本人向けの満洲観光案内として確認できる最も早期のものは 1900 年に南満洲鉄道株式会社(以下,満鉄)が発行した『南満洲鉄道案内』だが,その記述によれば,すでに日露戦争直後から 3 つの温泉では日本人が温泉旅館を経営していた。日本人は東アジア諸地域に進出する過程で,版図となった地域に,町名や神社,料亭,遊郭など様々な日本的な物を持ち込んだ。その中でも,温泉行楽という娯楽システムを移植したことは非常に興味深い。満洲で温泉旅行ができるという認識は,多くの国民の満洲イメージを変えたと思われるからである。 日露戦争直後の日本人にとって満洲は,鉄血の代価を払ったにもかかわらず単に旅順・大連の租借地とわずかな鉄道権益を獲得したにすぎない苦々しい思いを抱かせる土地であり,同時に国家の未来を切り拓くた めの仕事の場であった。確かに出張視察など(そこには戦跡観光が付随することが多かった)のために各地に満鉄経営のヤマトホテルが建てられ,旅行のできる体制は整えられたが,それは「血なまぐさい観光」) といった認識から切り離せないものであったろう。だが,そこで温泉旅行ができると知ったとき,満洲イメージには,日常的な親しみと心を浮き立たせるような楽しさが加わったであろうと思われる。」

(瀧下彩子「戦前期満洲の三大温泉 : 旅行案内に見る旅館施設等の変遷」東洋文庫『近代中国研究彙報』第35号, 2013年所収 115-116頁より)

満州の温泉地を本格的に紹介した比較的初期のガイドブックで、しかも英文で刊行されている(日本以外の観光客を対象としている)点が興味深い。
見返し部分には南満州鉄道の広告。ビューロー大連支部は南満州鉄道にあり、両者の関係は非常に深かったと思われる。
タイトルページに刊行地の表記はないが、大連の可能性が高いのではないかと思われる。
満州の三大温泉地を中心に航路と鉄路を示す図。
熊岳城温泉
湯崗子温泉
五龍背温泉
テキストでは温泉の成分、湧出量などの基本情報と、近隣の観光地や施設などの解説が写真とともに豊富に掲載されている。
裏の見返しはビューロー大連支部の広告。