書籍目録

『1582、1583、1584年の日本(の状況についての)覚書、ならびに1583年、1584年の中国覚書:1585年12月に(ローマにて)受領したイエズス会士書簡より』

フロイス他 / (本能寺の変)

『1582、1583、1584年の日本(の状況についての)覚書、ならびに1583年、1584年の中国覚書:1585年12月に(ローマにて)受領したイエズス会士書簡より』

初版 1586年 ローマ刊

Fróis, Luís.

AVVISI DEL GIAPONE DE GLI ANNI M. D. LXXXII. LXXXIII. ET LXXXIV. Con alcuni altri della Cina dell’ LXXXXIII. ET LXXXIV. Cauati dalle lettere della Compagnia di Giesù. Riceuute il mese di Dicembre. M.D. LXXXV.

Roma, Francesco Zanetti, M.D. LXXVI(1586). <AB2020402>

Reserved

First edition.

8vo (9.8 cm x 15.4 cm), pp.[1(Title.), 2], 3-110, [111], 112-149, 160[i.e.150], 161[i.e.151], 152, 153, 164[i.e.154], 165[i.e.155], 156, 157, 168[i.e.158], 169[i.e.159], 160-181, 821[i.e.182], 183-188, 1 leaf(errata), Later vellum.
タイトルページ裏面に旧蔵者による押印、いくつかの子葉に補修跡あるがテキストの欠損はなく、全体として良好な状態。

Information

信長(Nobunanga)が討たれた本能寺の変について報じるほか、天草をはじめとした日本各地の混乱する社会状況を報じたイエズス会宣教師フロイスによる重要書簡集

 本書は、イエズス会宣教師フロイス(Luís Fróis, 1532 - 1597)による1582年、1583年、1584年の日本における布教状況、社会・政治状況を報告した3つの書簡を中心に、末尾に1583年と1584年の中国の状況を報じた書簡が付属として設けられた書簡集です。このうち、1582年の日本の状況を報じたフロイス書簡は、本能寺の変の様子をいち早くヨーロッパに伝えた書簡としても非常に名高いもので、当時、事件を間近で体験した宣教師らの報告をもとにフロイスが認めたこの書簡は、本能寺の変に関する第一級資料としてこれまで多くの注目を集めてきました。
 また、本書では、日本各地の布教活動の様子や社会状況が地域ごとに整理されて報じられており、本能寺の変という日本史における一大事件の渦中とその直後における日本各地の様子が綴られた大変貴重な書物となっています。例えば、天草鎮尚(ドン・ミゲル)の帰天をはじめとした天草氏とその領地における布教状況、ならびに天草の布教活動において大きな足跡を残したイエズス会宣教師アルメイダ(Luís de Almeida, 1525? - 1583)の最晩年に至る勢力的な活動と、天草における帰天の様子など、天草における様々な布教活動や社会状況が報じられています。

 本書に収録されているフロイスの書簡は、元々ポルトガル語で認められていたもので、書簡の最終受領先であるローマにおいてイタリア語に翻訳されて刊本として出版されました。本能寺の変という、ヨーロッパの読者にとっても衝撃的な事件をいち早く報じたセンセーショナルな書簡を含んでいたこともあって、本書は1586年の刊行直後から多くの読者を得たようで、ヴェネツィアとミラノで異なる出版社からも刊行され、同年中にフランスで2種類のフランス語訳版、ドイツ語訳版、スペイン語訳版と多くの翻訳版も出版されました。本書は、こうした多くの異刷、翻訳版の原典となった初版本で、ローマにおいてイエズス会関係出版物の刊行を一手に担っていたZanetti社から刊行されています。

 本書に収録されている3つのフロイス書簡について、それぞれの概要と、一例として天草に関する内容についてまとめてみますと、次のようになります(天草に関する記事の理解に際しては、玉木譲『天草河内浦キリシタン史:イエズス会宣教師記録を基に』新人物往来社、2013年を大いに参照)。

①1583年2月13日、口之津発、フロイス書簡(3頁〜76頁)

 前述のように、本能寺の変を伝えた書簡としても著名な書簡です。事件当時、フロイスは口之津(現長崎県)にいたため、本能寺の変を実際に見たわけではありませんが、京都に滞在していたカリオン(Francisco Carrión, ? - 1590)の報告を中心にして本書簡を書き上げています。書簡前半では、日本各地の布教状況について、地域ごと(豊後、下(豊後以外の九州)、上(京都(京、Meaco)を中心にした近畿地方、四国地方、中国地方全域)に整理して報告されています。こうした整理方法は、巡察師ヴァリニャーノによって1581年以来定められたもので、本書に収録されている書簡は基本的にこの形式に従って認められています。

 豊後各地における布教状況について論じた箇所では、天草(Amacusa)における一大事件として、天草鎮尚(ドン・ミゲル(本書イタリア語ではミケーレ, Don Michele)の帰天と葬儀の様子、ドナ・ガラシャ(本書イタリア語ではグラツィア、Donna Gratia)の洗礼名で知られた天草鎮尚の妻が営んだ法要と慈善事業の様子、またキリシタンを敵視する薩摩との緊張関係において、天草鎮尚の息子である久種(洗礼名ジョアン(本書イタリア語ではジョヴァンニ、 Giovanni))が見せた不屈の信仰心などについて記されています。これらの記述は、後年にフロイスが日本におけるイエズス会の布教活動史の集大成として執筆した『日本史』の中にもほぼ同様の記述が見られることから、フロイスは『日本史』の同年記事の執筆に際して、本書簡を流用したことが伺えます(フロイス著 / 松田毅一 / 川崎桃太訳『日本史』(文庫版)第10巻、第45章、219ページ〜が当該記事)。

 本書簡の後半(46頁〜)は、有名な本能寺の変を伝える内容となっていて、通常の書簡形式から大きく逸脱する形で、多くの紙幅を費やして事件の様子が綴られています。ここには事件直前までの信長の権勢が如何なるものであったのかが詳しく紹介されている他、明智(Acheci)の名が初めてヨーロッパの文献に登場しています。この書簡の内容とその評価、意義についてはすでに夥しい数の研究や、翻訳がなされていて、日本史研究における重要資料としても早くから高く評価されてきたものです(特に近年の研究については、フレデリック・クレインス「イエズス会士が作り上げた光秀・ガラシャ像」井上章一ほか『明智光秀と細川ガラシャ:戦国を生きた父娘の虚像と実像』筑摩選書、2020年所収、ならびに、浅見雅一『キリシタン教会と本能寺の変』角川新書、2020年を参照。本解説の記述の多くも両書に負うところが大きい)。

 なお、本書に収録されているフロイス書簡は、1583年2月13日付となっていますが、これ以前に、本能寺の変のことを第一速報として伝えた1582年11月5日付の書簡が存在しており、この書簡はポルトガル語のまま、1598年にポルトガルのエヴォラで刊行された、日本を中心としたイエズス会士の1549年から1580年までの書簡をまとめた書簡集(Iesus Cartas que os padres e irmaos de Companhia de Iesus…Evora, 1598、通称「エヴォラ版書簡集」と呼ばれる)に収録されています。本能寺の変についての記述箇所については、エヴォラ版所収のポルトガル語テキストと、本書のイタリア語テキストととの間に大きな相違はないとされていることから、本書に収録されている1583年2月13日付書簡は、第一速報として発信された1582年11月5日付書簡をもとにして、前半部分に通常の年報の叙述形式に従った日本各地の状況を報じた記事を追加して、まとまった報告として認められたものではないかと思われます。いずれにしても、本能寺の変の状況をいち早くヨーロッパに伝えた同時代の記録として不朽の価値を持つ重要書簡と言うことができるでしょう。

②1584年1月2日、長崎発、フロイス書簡(77頁〜127頁)

 本能寺の変後の日本各地の状況を報じたもので、動揺する日本各地の政治・社会状況が、多くの戦乱の様子とともに生々しく記されている点に大きな特徴があります。この書簡では、天草をはじめとした日本各地の布教活動において多大な実績を残したイエズス会士アルメイダの天草での帰天(1583年10月)とその悲しみについての記述(78頁〜)が冒頭にあり、彼の喪失が日本におけるイエズス会の布教活動全体にとっていかに大きいものであったのかをうかがわせます(アルメイダの足跡については、玉木前掲書108頁以降を参照)。フロイスはアルメイダの貢献が多大なものであったことを述べ、アルメイダが医師である一方、自身は病弱な体質であったにもかかわらず終生精力的な活動を続けてきたことを大いに称えています。なお、本書簡では、アルメイダ天草において最晩年を過ごし、同地において帰天したことを伝えていますが、天草の地名表記が先の書簡における「Amacusa」とは異なり、「Amacuza」となっています(79頁)。また、フロイスは、先の書簡と同様に『日本史』の同年記事の執筆に際して本書簡を用いており、ほぼ同じ内容の記事を『日本史』の中にも見ることができます(前掲邦訳文庫版第10巻第47章、235ページ〜が該当記事)。
 また、本書簡では、本能寺の変後の混乱する日本各地の状況が詳細に述べられていて、当時「天下(Tenza)」と呼ばれていた京都(Meaco)周辺の状況や、秀吉(Faxiba Cicugendono)、柴田勝家(Xibata)らを中心とした動向が論じられています。こうした政治状況だけでなく、当時府内(Funai)におかれていた、イエズス会の教育機関であるコレジオ(Collegio)の様子も解説されていて、当時の教科や教育状況などが報告されています。
 さらに本書簡では、1583年における天草における布教状況と、天草鎮尚の妻であるドナ・グラツィアの帰天についても報じられています(84ページ〜、なおこの箇所における天草の表記は「Amacusa」となっている)。

③1584年9月3日、フロイス書簡(128頁〜168頁)

 龍造寺隆信の有馬晴信(洗礼名「ドン・プロタシオ」D. Protasio)に対する戦争についての報告が中心となっています。この戦争はキリシタン大名である有馬晴信に対して、イエズス会が積極的な介入を行なったとされており、イエズス会が九州全域における活動の基盤を磐石なものとするためにこの戦争を重視していた様子が伺えます。この戦争は最終的に有馬晴信の勝利によって集結しますが、キリシタンを敵視する薩摩の軍勢に助力を求めたこともあって、キリシタンにとっては非常に複雑な情勢をもたらすことにもなりました。フロイス自身は戦の様子を実見したわけではありませんが、多くの証言などを手引きに、彼独特の非常に行き来とした筆致で戦闘の推移をドラマティックに描いています。
 また、本書簡は、先の第二書簡に続いて、本能寺の変後の日本各地の状況も報じられていて、特に京都(Meaco)における羽柴(Faxiba)を中心とした動向が詳しく記されています。


 本書には上記のような、フロイスによる非常に内容の濃い記述が満載されており、本能寺の変という一大事件が生じた同時代の日本の情勢が実に鮮やかに描かれていることから、非常に高い資料的価値を有しているものです。

 さらに、これら三つのフロイス書簡に続いては、最初期の本格的な中国の宣教活動を報じた貴重な書簡が複数収録されています(169頁〜188頁)。中国における宣教活動には、ザビエルの宿願でもあり、イエズス会の活動は1563年にマカオでの布教から始められ、本格的には1578年以降に巡察師ヴァリニャーノの強力なイニシアティブによって、現地文化や学問の尊重の姿勢に基づいて、中国語学習を重視して展開されていきました。本書に収録されている中国関連書簡は、ヴァリニャーノのイニシアティブによって開始された最初期のイエズス会士の活動を報じたもので、最初の本格的な中国宣教を開始したルッジェーリ(Michele Ruggieri, 1543 - 1607, 中国名「羅明堅」)、ローマのコレジオで学んだ当時最新の科学知識を活用して中国知識人と深く交わり、多くの漢訳書を刊行したことでも知られるマテオ・リッチ(Matteor Ricci, 1552 - 1610, 中国名「利瑪竇」)、ヴァリニャーノの指示によって来日後に中国宣教を援助するためにマカオに戻りルッジェーリと共に肇慶に滞在した(のちに日本に戻り日本の準管区長となる)パシオ(Francisco Pasio, 1552 - 1612)、日本では布教方針をめぐってヴァリニャーノと厳しく対立して離日し、当時はマカオのコレジオの院長であったカブラル(Francisco Cabral, 1529 - 1609)らの書簡が収録されています。これらの中国関係書簡が本書全体中に占める割合は決して多くありませんが、最初期の中国宣教の様子をいち早くヨーロッパに伝えた記録として、非常に重要なものばかりです。これらの中国宣教関連書簡がフロイス三書簡とともに本書に収録されているのは、あるいは日中両国において指導的立場にあったヴァリニャーノの意向が働いているのかもしれません。(中国におけるイエズス会士の活動、特に学術交流についての基本的情報は、岡本さえ『イエズス会と中国知識人』(世界誌リブレット109)、山川出版社、2008年等を参照)

 本書は、本能寺の変を伝えたフロイス書簡が収録されていることもあって、国内研究機関においても一定数の所蔵が認められますが、その一方で近年において古書市場に流通することは大変稀で、新たに入手することは非常に難しくなっているのが現状です。その意味では、本書は上述のような優れた資料価値に加えて、希少性の点においても、大変価値ある書物ということができるでしょう。


「本書は1582年から1584年に至る、日本や中国からイエズス会本部に送付された報告書11通から成ります。中でも最も多くの紙面を占めているのは、ルイス・フロイスが作成した1582年、1583年、1584年の3通の日本年報です。フロイスは1通目(1583年2月13日付)で日本における布教の状況と、織田信長の死について、2通目(1584年1月2日付)で信長死後の戦乱について、3通目(1584年9月3日付)ではキリシタン武将の有馬晴信による龍造寺隆信に対する勝利などについて記述しています。
 本書の1582年の報告部分に本能寺の変に関する記述がみられます。本能寺は京都のイエズス会士の教会のすぐ近くに位置していました。当時、教会にいたカリオン神父が情報収集をして、本能寺の変およびその後の混乱について非常に詳細な記録を九州にいたフロイスに送りました。フロイスはこの情報を日本年報としてまとめ、ヨーロッパのイエズス会本部に送付しました。ローマではフロイスのポルトガル語原稿はイタリア語に翻訳され、1586年にローマで刊行されました。同年にフランス語版、ドイツ語版、スペイン語版も刊行され、本能寺の変の情報が瞬く間に全ヨーロッパに普及しました。」
(フレデリック・クレインス、国際日本文化研究センター作成データベース『日本関係欧文史料の世界』中の同書解説記事より)

後年に施されたと思われる装丁だが、全体として状態は良い。
タイトルページ。ローマでイエズス会関連出版物を一手に担っていたZanetti社から出版されたもので、初版である本書を起点にしてその後多くの異版、翻訳版が刊行された。
タイトルページ裏面には旧蔵機関によるものと思われる押印あり。
①1583年2月13日、口之津発、フロイス書簡(3頁〜76頁)冒頭箇所。「信長の死について」の名でも知られる非常に有名な書簡。
天草(Amacusa)における一大事件として、天草鎮尚(ドン・ミゲル(本書イタリア語ではミケーレ, Don Michele)の帰天と葬儀の様子、ドナ・ガラシャ(本書イタリア語ではグラツィア、Donna Gratia)の洗礼名で知られた天草鎮尚の妻が営んだ法要と慈善事業の様子、またキリシタンを敵視する薩摩との緊張関係において、天草鎮尚の息子である久種(洗礼名ジョアン(本書イタリア語ではジョヴァンニ、 Giovanni))が見せた不屈の信仰心などについて記されている。
書簡の後半(46頁〜)は、有名な本能寺の変を伝える内容となっていて、通常の書簡形式から大きく逸脱する形で、多くの紙幅を費やして事件の様子が綴られている。
ここには事件直前までの信長の権勢が如何なるものであったのかが詳しく紹介されている他、明智(Acheci)の名が初めてヨーロッパの文献に登場している。
第一書簡末尾。本書に収録されている1583年2月13日付書簡は、第一速報として発信された1582年11月5日付書簡をもとにして、前半部分に通常の年報の叙述形式に従った日本各地の状況を報じた記事を追加して、まとまった報告として認められたものではないかと思われる。
②1584年1月2日、長崎発、フロイス書簡(77頁〜127頁)冒頭箇所。本能寺の変後の日本各地の状況を報じたもので、動揺する日本各地の政治・社会状況が、多くの戦乱の様子とともに生々しく記されている点に大きな特徴がある。
天草をはじめとした日本各地の布教活動において多大な実績を残したイエズス会士アルメイダの天草での帰天(1583年10月)とその悲しみについての記述(78頁〜)が冒頭にある。
本書簡では、アルメイダ天草において最晩年を過ごし、同地において帰天したことを伝えているが、天草の地名表記が先の書簡における「Amacusa」とは異なり、「Amacuza」となっている。
1583年における天草における布教状況と、天草鎮尚の妻であるドナ・グラツィアの帰天についても報じられている。
当時府内(Funai)におかれていた、イエズス会の教育機関であるコレジオ(Collegio)の様子も解説されていて、当時の教科や教育状況などが報告されている。
本能寺の変後の混乱する日本各地の状況が詳細に述べられていて、当時「天下(Tenza)」と呼ばれていた京都(Meaco)周辺の状況や、秀吉(Faxiba Cicugendono)、柴田勝家(Xibata)らを中心とした動向が論じられている。
上掲続き。
第二書簡末尾。発信年が誤って「1586年」となっているが、正しくは「1584年」である(巻末正誤表に修正指示あり)。
③1584年9月3日、フロイス書簡(128頁〜168頁)冒頭箇所。龍造寺隆信の有馬晴信(洗礼名「ドン・プロタシオ」D. Protasio)に対する戦争についての報告が中心となっている。
先の第二書簡に続いて、本能寺の変後の日本各地の状況も報じられていて、特に京都(Meaco)における羽柴(Faxiba)を中心とした動向が詳しく記されている。
第三書簡末尾。
三つのフロイス書簡に続いては、最初期の本格的な中国の宣教活動を報じた貴重な書簡が複数収録されている(169頁〜188頁)。上掲は、ヴァリニャーノのイニシアティブによって開始された最初期のイエズス会士の活動を報じたもので、最初の本格的な中国宣教を開始したルッジェーリ(Michele Ruggieri, 1543 - 1607, 中国名「羅明堅」)による書簡。
ヴァリニャーノの指示によって来日後に中国宣教を援助するためにマカオに戻りルッジェーリと共に肇慶に滞在した(のちに日本に戻り日本の準管区長となる)パシオ(Francisco Pasio, 1552 - 1612)による書簡。
日本では布教方針をめぐってヴァリニャーノと厳しく対立して離日し、当時はマカオのコレジオの院長であったカブラル(Francisco Cabral, 1529 - 1609)による書簡。
ローマのコレジオで学んだ当時最新の科学知識を活用して中国知識人と深く交わり、多くの漢訳書を刊行したことでも知られるマテオ・リッチ(Matteor Ricci, 1552 - 1610, 中国名「利瑪竇」)による書簡。
中国書簡集末尾。これらの中国関係書簡が本書全体中に占める割合は決して多くないが、最初期の中国宣教の様子をいち早くヨーロッパに伝えた記録として、非常に重要なものばかりである。
巻末には正誤表が設けられている。