書籍目録

『アメリカから日本、中国、フィリピンへ:日本と東洋からアメリカとヨーロッパへ』

東洋汽船会社 / 小圃千浦 / キング・スティール

『アメリカから日本、中国、フィリピンへ:日本と東洋からアメリカとヨーロッパへ』

(出版情報は収録地図記載に依る) [1919年]  [シカゴ刊]

Toyo Kisen Kaisha (Oriental Steamship Company) / Obata, Chiura / King Steele, James.

From America To Japan, China, Philippines. From JAPAN and the Orient to AMERICA and Europe.

[Chicago], [Poole Bros], 1919. <AB2020378>

Sold

20.5 cm x 23.0 cm (Oblong (23.0 cm x 40.8 cm / Folded: 10.5 cm x 23.0 cm), pp.1-31 ( total 8 leaves including both covers), printed in double column, Original pictorial paper wrappers.

Information

「千浦ブルー」で鮮やかに彩られた英文ガイドブック

 本書は、東洋汽船がその絶頂期にあった1919年に刊行されたと思われる(収録図に1919年との記載あり)英文ガイドブックです。1918年に刊行されたと思われるガイドブックとほぼ同じ意匠で、1900年から1910年代半ばまでに制作されたガイドブックと異なり、主に日本とアメリカの各都市に焦点を当てた内容となっています。

 表紙は東洋汽船の広告や雑誌挿絵を数多く担当した小圃千浦によるもので、このデザインを用いたガイドブックが改訂を経ながら数多く制作されたと言われています。折りたたむことでポケットに入りやすくなる縦長の形状となるのは以前のガイドブックと同じですが、全てのページ上段を横断する大名行列の図案が配置されるなど、意匠にもそれまでにない工夫が見られます。収録される日本地図、世界地図、東アジア地図もそれまでの倍の紙面を用いて掲載されています。テキスト情報は概ねそれ以前のものと大きな違いはありませんが、アメリカ地図を掲載したり、ルートプランを紹介するなどの新しい試みも見られます。

 16ページから19ページに至る4ページ全てを用いて描かれた地図は、東洋汽船の社旗jに用いられるのと同じ濃紺に塗られた海に日本列島や東洋汽船が就航していた大陸、朝鮮半島、フィリピン、台湾などを描いたものです。地図右下にはかなり見えにくいものの、「Copyright J. K. Steele 1919」と記されていて、この地図が1919年に制作されたものであることや、東洋汽船がサンフランシスコで発行していた英文月刊雑誌『JAPAN』の編集長(兼出版人)であった キング・スティール(James King Steele, 1875 - 1937)によるものであることが分かります。この地図はシカゴで印刷されていることが明記されているため、おそらくガイドブックそのものも同地での印刷ではないかと思われますが、キング・スティールが手がけた出版物の多くはサンフランシスコで刊行されていますので、より詳細な調査が必要です。いずれにしても、このガイドブックの制作にあたって、サンフランシスコ在住の小圃千浦とキング・スティールが共同で関与していたことは間違い無いと言えるでしょう。

 1918年刊行と思われるものと本書は、ほとんど同じ内容に見受けられますが、写真の配置やテキストが微妙に変更されており、ほぼ毎年か、あるいはそれ以上の頻度でこのガイドブックが改訂されていたことを窺わせます。また、それだけ頻繁に改訂がなされるほど、この小圃千浦による表紙を採用した英文ガイドブックは人気が高かったということも言えるでしょう。


「同様のデザインで何度か改訂され使用された英語版パンフレット。
 画面右下に見られるサインからデザインは小圃千浦。本名は佐藤蔵六(明治18年-昭和50年)、岡山県出身の日本画家。明治後期の日本画壇において青年時代より高い評価を受けながらも、生涯のほとんどをアメリカで過ごした人物である。
 千浦はサンフランシスコに移住し、明治44年から大正10年にかけて商業デザイン、邦字新聞の挿絵などを描き、東洋汽船発行物のデザインなどを担当したといわれる。東洋汽船が発行していた、刊行雑誌『JAPAN Overseas Travel Magazine』の誌中のイラストも手がけた。千浦自身は労苦を積み重ねながらも、昭和7年にカリフォルニア大学バークレー校においてアメリカ初の日本画講師として迎えられ、日本に戻ることはなかった。千浦の描く青は当地で、『千浦ブルー』といわれ高い評価を得た。東洋汽船の社旗の色は、紺瑠璃ないし瑠璃色の深い青に近く、想像をたくましくするならば、浅野総一郎は『千浦ブルー』の青に魅せられたのではないだろうか。」

(吉井大門『東洋汽船そのあしどり:創業・発展・合併』日本郵船歴史博物館、2014年、12頁より)