書籍目録

『ジャワ誌』第2版(改訂決定版)全2巻(揃い)/『ジャワ誌図版集』

ラッフルズ / ラッフルズ夫人(編)

『ジャワ誌』第2版(改訂決定版)全2巻(揃い)/『ジャワ誌図版集』

1830年 / 1844年  ロンドン刊

Raffles, Thomas Stamford / Raffles, Sophia (ed.).

THE HISTORY OF JAVA. IN TWO VOLUMES. [together with] ANTIQUARIAN, ARCHITECTURAL, AND LANDSCAPE ILLUSTRATIONS OF THE HISTORY OF JAVA,…WITH A LARGE MAP OF JAVA AND ITS DEPENDENCIES, AND SEVERAL INTERESTING PLATES NOW FIRST PUBLISHED.

London, John Murray / Henry G. Bohn, MDCCCXXX(1830) / MDCCCXLIV(1844). <AB2020355>

Sold

2nd edition(text vols.)

8vo (14.0 cm x 22.2 cm) / 23.5 cm x 30.8 cm, 2 vols. vol. 1: pp.[i(Title.)-iii], iv-xlviii, [1], 2-536, folded charts: [2]. / vol. 2: pp.[I(Title.)-iii], iv, [1], 2-332, [i-iii], iv-clxxix. / 1 leaf(blank), Title., 2 leaves, (some colored, folded) numbered plates & charts & maps: [88](LACKING no.5, 20, 26, 40), large folded map: [1]. Decorative red cloth. / Red velvet cloth.
テキスト第2版と図版巻のセット。図版巻は92枚中4枚欠落(5, 20, 26, 40番)。NCID: BA3545682X / BB0214165X

Information

ジャワ島研究の金字塔において論じられたラッフルズによる本格的な日本貿易論

 本書はシンガポールの創設者として歴史に名を残すラッフルズ(Thomas Stanford Raffles, 1781 - 1826)がジャワ副知事時代のフィールドワークと研究の成果を発表した大著の第2版と、第2版のために用意された図版巻のセットです。ラッフルズはジャワ副知事時代の1813年にオランダ船を装って日本に船舶を派遣するなど、日本との貿易樹立にも強い関心を持っていたことが知られていますが、本書には「日本との貿易について」と題した小論が収録されており、ラッフルズがどのような分析、構想のもとに日本との交渉に臨もうとしていたのかを示してくれる貴重な資料となっています。

 ラッフルズの多岐にわたる業績とその功罪については、多くの研究がなされていますが、本書で描かれるジャワをはじめとして、赴任先の文化や宗教、言語、動植物に至るまでの包括的な理解を深めることに常に配慮し、資料収集や言語習得に非常に積極的であったことはよく知られています。1811年にナポレオン戦争後にオランダがフランスに占領されたことにより、従来よりフランスと敵対関係にあったイギリスは、東インド地域におけるオランダの拠点であったジャワ島に遠征軍を派遣し、1811年に同島の占領に成功します。このとき実質的なジャワ島統治の最高責任者である副知事としてジャワ島に派遣されたのが、ラッフルズです。ラッフルズは1795年に14歳で東インド会社に入社し、1805年にペナン島に派遣されてからマレー語の習得や現地事情や風俗の深い理解に基づく施策を打ち出して頭角を現し、ジャワ島へのイギリス侵攻を東インド会社に進言したのもラッフルズだったと言われています(ラッフルズの経歴と本書については、坪井祐司『ラッフルズ:海の東南アジア世界と「近代」』山川出版社、2019年に詳しい)。ラッフルズは派遣されたジャワ島でも早速現地調査に精力的に着手し、「各地を旅行し、徹底的な調査と情報収集を行な」(前掲書31頁)い、以降も継続的な調査を積み重ねました。ナポレオン戦争の終結により、ジャワ島をオランダに返還することが決まったこともあって、ラッフルズは1816年にイギリスへと一時帰国しますが、その際に本書初版が刊行されました。この初版本は、1817年に四つ折り版2巻本として刊行されたもので、高く評価されラッフルズはナイトの称号を得ることになりました。イギリス国外でも大いに反響を呼び、1824年にはフランス語訳版(Description géographique, historique et commerciale de Java,… Btussel, 1824)が、少し後年の1836年にはオランダ語訳版 (Geschiedenis van Java…Hague / Amsterdam, 1836)も刊行されています。

 ラッフルズの現地調査の様子とその態度については、マレー語秘書としてラッフルズを助けたアブドゥッラーの自叙伝『アブドゥッラー物語』における記述が残されていて、前掲書では同書を補助線としながら次のように述べられています。

「ラッフルズはマレー人に対して愛情を持って接し、彼らの言語や文化に深い関心を示した。『アブドゥッラー物語』には、以下のような一節がある。『彼は、インチェという言葉が適当な人にはインチェを、トゥアンという言葉が適当な人にはトゥアンを使って話すことができた』。この2つのマレー語はいずれも二人称(あなた)を意味するが、インチェは対等な相手、トゥアンは目上の相手に使う表現である。ラッフルズがマレー語の敬語表現を理解していたことは、彼のマレー文化に対する造詣の深さを物語る。
 ラッフルズは、現在でいう地域研究者の先駆けであった。アブドゥッラーは、ラッフルズがマラッカのあらゆるものを収集する場面を描いている。彼は4人の秘書を雇い、木の葉・花・菌・苔などの植物、蝶や蜂などの昆虫、魚類、鳥類などさまざまな熱帯の動植物を集めさせていた。大英博物館には、ラッフルズの残したコレクションが収蔵されている。なお、植物学において、ラッフルズの名は世界最大の花として知られるラフレシアのなかに残されている。
 ラッフルズはマレー人の歴史・文化の研究者でもあった。彼は、写本などのマレー語資料も金に糸目をつけずに買いあさった。このマレー語の文書資料をもとに、マレー王権の歴史や慣習法を研究したことは第2章で触れた通りである。ジャワ統治時代、森に埋もれていたジャワ島のボロブドゥール遺跡を再発見したのもラッフルズであった。」
(前掲書、76-77頁より)

 このような徹底的で多岐にわたる調査をジャワ赴任時に行なったことにより、ジャワの地理、歴史、政治、文化、宗教、言語、動植物といった総合的なジャワ研究が行われ、それが本書である『ジャワ誌』に結実しています。ラッフルズはこうした調査を通じて、多様性豊かなジャワ島各地の文化や言語、制度の中に「共通する法や慣習が存在することを見出し」、「それらの法制度や文化・慣習を共有する人々としてマレー人をとらえ」(前掲書31頁)、そこから自身が考える最善の政策と改革案を実行しようとしました。彼が本書で展開しているジャワの調査研究は、「現在では細かく分かれている自然科学や人文・社会科学の多くの分野にまたがるスケールの大きな学問」(前掲書80頁)で、一次的には彼のジャワ統治のための研究であったとはいえ、遥かにその範囲を超えた内容を有しています。

「ラッフルズの地域研究の成果の一つが、『ジャワ誌(History of Java)』である。『ジャワ史』の間違いでは?と思われた方もいるかもしれない。しかし、彼の描くHIstoryは現在的な意味での歴史ではない。この本では、まず地質や気候など自然地理から始まり、動植物の種類、人種の特徴などを描いたのち、初めて王朝などの歴史に入る。だから、ジャワ『史』ではなくジャワ『誌』なのだ。」
(前掲書79頁より)

 このようにジャワ島の総合的な学問研究の名著として名高い『ジャワ誌』ですが、日本研究欧文図書としても非常に興味深い記事が収録されていることに注目する必要があります。本書では本編に続いて、数本の補遺(Appendix)が収録されているのですが、そのBとして「日本貿易(Japan Trade)」と題した、ラッフルズによる日本との貿易関係再樹立を行うための分析と提言が展開されています。先述の通りラッフルズはジャワ副知事在任中から、オランダが一手に担っていた日本との貿易をイギリスが奪取することを試み、1813年に当時の長崎商館長ドゥーフのかつての上司で元長崎商館長であったワルデナールを日本へと派遣しています。1808年にイギリス船が無断で長崎に入港したフェートン号事件に衝撃を受け、イギリスに対して警戒心を強てめていたことを熟知していたドゥーフは、ワルデナールの説得に応じず、むしろワルデナールが極めて危険な立場にある(実はイギリス船であることが、フェートン号事件後に神経を尖らせている幕府に知られれば直ちに処刑される可能性が高い)ことを告げ、平和理のうちに問題を解決しました。このように結果的にラッフルズのイギリスと日本との貿易関係再樹立の試みは成功しませんでしたが、本書に収録されたラッフルズによる「日本貿易」を一読すると、彼の構想が単なる思いつきによるものでは全くなかったことが非常によくわかります。ラッフルズは日本との貿易を考えるに際して、日蘭貿易の歴史的推移を非常に細かく分析しており、日蘭貿易におけるオランダの立場が脆弱なもので、利益も次第に低下していることを様々な事例や貿易数字を挙げながら論証し、かつ冷静にその原因を分析しています。それと同時に、イギリス本国における日本貿易によるメリットに対する懐疑的な見解に対しても反駁を試みていて、そのような見解が依拠している日本貿易の分析の根拠のなさを具体的に指摘しています。イギリスの東アジアへの輸出産品は中国を介して日本へと流通しており、イギリスとの貿易需要が日本に潜在的にあることを指摘するなど、具体的な数字に依拠しつつも、現地での豊富な実務経験に裏付けられた独自の分析と提言がなされています。こうしたラッフルズによる日本貿易の分析と提言は、ラッフルズの構想が一時的なものではなく、広範な歴史的、経済的な分析とマレー海峡で会得したアジア海域での貿易実態への実践的な知見に基づいた、非常に本格的なものであったことがわかります。ラッフルズによる日本貿易論は、それが実現しなかったこともあってあまり知られることはありませんが、改めて注目すべき論考ということができるでしょう。

 本書初版は、先述の通り1817年にラッフルズが一時帰国した際に出版されました。本書はラッフルズの没後1830年に刊行された第2版ですが、その出版の経緯について編者として尽力したソフィア夫人による序文が明らかにしてくれています。それによりますと、初版は大きな反響を呼んだものの、わずか900部しか印刷されなかったため、すでに入手が極めて困難になっていること、またラッフルズは生前から初版の不十分さを強く認識しており、改訂の必要性を常々訴えていたことなどが、第2版出版の背景にあったということです。ラッフルズによる本格的な改訂作業はなされませんでしたが、ラッフルズ夫人が彼が生前残した資料などに基づき、最低限の改訂を施した、より入手しやすい八つ折り版として出版されたものが第2版である本書ということがわかります。なお、本書が刊行された1830年には、ソフィア夫人による回想録(Memoir of the life and public services of Sir Thomas Stanford Raffles. London, 1834)も刊行されていて、ラッフルズの伝記資料の古典として評価されています。ラッフルズはジャワ統治やシンガポール創設の功績にもかかわらず、晩年は不遇の時を過ごしたと言われており、没後に彼の名誉回復を行うために、ソフィア夫人が尽力した結果、本書や回顧録が出版されたと考えられます。

 また、本書に付属する図版巻は、本書刊行からかなり遅れて1844年に刊行されたものですが、テキストの約2倍四つ折り版の大判印刷で、初版に収録されていた図版が66枚であったのに対して92枚と大幅に収録点数を増やして収録しています(ただし本書ではうち4枚欠落)。この図版巻についても、ソフィア夫人による序文で言及されており、第2版刊行後間もなく刊行されるはずだったものと思われますが、おそらくその高価な作りも影響してか、何らかの事情により刊行が大幅に遅れることになったようです。この図版巻は、ラッフルズが残した資料に基づいて、初版には収録されていない多くの図版を増補したことで、非常に高く評価されていて、テキスト第2版とこの図版巻との組み合わせを『ジャワ誌』の決定版とみなす見解もあります。

 本書は、ジャワ研究の金字塔である古典的名著として高く評価されているだけでなく、ラッフルズによる本格的な日本貿易論が収録されているという点において、非常に興味深く、また重要な日本関係欧文資料としてあらためて再読されるべき著作ということができるでしょう。