書籍目録

『航海と旅行』第1巻

ラムージオ

『航海と旅行』第1巻

(最終改訂版) 全3巻中の第1巻のみ 1613年 ヴェネツィア刊

Ramusio, Giovanni Battista.

DELLE NAVIGATIONI ET VIAGGI RACCOLTE DA M. GIO. BATTISTA RAMVSIO, IN TRE VOLVMI DIVISE:…VOLVME PRIMO.

Venice, Giunti, MDCXIII(1613). <AB2020347>

Sold

vol.1 only of 3 vols.

Very large 8vo (21.3 cm x 29.8 cm), Title., 3 leaves, 34 numbered leaves([1], 2-34), 395 numbered leaves([1], 2-87, 8(i.e.88), 89-111, [NO LACKING LEAF], 113, 114, 114[NO DUPLICATED LEAF], 115- 161, 161[NO DUPLICATED LEAF], 162-231, 229(i.e.232), 233-260, 26(i.e.261), 262-275, 289(i.e.276), 277-278, 276(i.e.279), 280-306, 308(i.e.307), 308-345, 340(i.e.346), 341-366, 376(i.e.367), 368-386, 388(i.e.387), 388-394). Modern three-quarter leather on marble boards.
余白箇所に傷みや、全体的に染みが見られるが、近年に改装が施されており製本状態は良好。本文末尾に旧蔵機関による押印あり。NCID: BA60736340 / BB24328224 (1563, 3rd ed.) / BB03649343 (1588, 4th ed.) /

Information

ヨーロッパにおける最初期の質の高い日本情報を提供し、「新しい時代の新しい世界の新しい知識を新たな形で新しい読者に提供」した記念碑的名著

 本書は、イタリアのみならずヨーロッパにおける本格的な『旅行記集成』の礎を築いた記念碑的名著とされる著作で、全3巻のうち、日本を含むアフリカや沿岸部アジアを対象とした第1巻の最終改訂版として、1613年にヴェネツィアで刊行されています。第1巻の初版が刊行された1550年から半世紀以上にわたって繰り返し版を重ねて読み継がれてきたことからも、本書の影響力の大きさがよくわかります。本書には、ザビエルが日本を訪れるきっかけとなった鹿児島出身のアンジローからの聞き取りに基づく日本報告をはじめ、ザビエルが日本から発信した最初の書簡など、ヨーロッパにおける最初期の日本関係記事が収録されており、日本関係欧文図書としても極めて高い価値を有する書物となっています。

 本書のタイトルは、「航海と旅行(Navigationi et Viaggi)」という極めてシンプルなものですが、そこには著者ラムージオ(Giovanni Battista Ramusio, 1485-1557)の卓越した編纂意図が込められています。本書とその著者ラムージオについては、高田秀樹氏による非常に優れた解説があり、本書の性格を理解する上で大いに役立ちます(「マルコ・ポーロ・生涯と伝記(上)中の「01. ラムージォ」「02. 航海と旅行」を参照。いずれも「同人誌『百万遍』第4号、2020年所収、web掲載。以下の記述の大半はこれらの解説による。)。ラムージオは、パドヴァ大学で古典教養を深めつつ、当時、当地で隆盛しつつあったルネサンスの知的雰囲気の中で多くの人文主義者らとの交流を持ち、ヴェネツィアの臨時書記として公職のキャリアを始め、通訳、書記官として大いに活躍しました。その一方で、類い稀な語学と古典学の才を活かして、古代からの旅行記や、大航海時代の進展によって齎されつつあった当時最新の航海記や地図、地理に関する資料を収集、編纂し、1550年に本書第1巻を刊行しました。1556年には第2巻が、そして没後の1599年には第3巻が刊行され、全3巻からなる壮大な航海、旅行記集成として、ヨーロッパ各地の読者に親しまれ、ハクルート(Richard Hakluyt, 1552? - 1616)による『イギリス国民の主要な航海と旅行と発見』(The principal navigations, voyages, traffiques and discoveries of the English nation. 1589 / 1599-1601(rev ed.)をはじめとした後年の著作にも多大な影響を及ぼしました。

 本書刊行以前にも、大航海時代の目覚ましい展開に感化されて、航海記や旅行記を集めた著作は刊行されていましたが、その資料的価値はともかくとして、編纂方針としては「寄せ集め」と言わざるを得ないもので、明確な編纂方針、地理と歴史に対する確固とした認識に基づく世界観を背景に編纂されたものではありませんでした。本書は、大航海時代の進展によって齎された同時代の最新情報と、古代以降の長い歴史の中で積み重ねられてきた旅行記、航海記とを組み合わせるという、それまでの類似著作にはない編纂方針をとっており、プトレマイオスらによる古代・中世的世界観と、大航海時代がもたらした「新世界」とを、歴史・地理の双方において結合させ、「世界全体」の包括的な記述を試みている点に大きな特徴があります。

「(前略)つまり単なる旅行記の寄せ集めではなく、世界一周によって今や決定的に閉じられ、全体的な展望が可能となった“世界の記述”としての旅行記集という認識である。
 そうした理念も含めて事実、『航海記旅行記集成』はあらゆる点で本格的かつ画期的なものとなった。何よりもまずその収録作品の多さと広範さであり、版によって異なるが全3巻で70編余1000葉近くに及ぶ。時代的には、当然ながら当時の新発見ものに限らず、マルコやハイトンはもちろん、ネアルコスやアッリァノスなどギリシァ・ラテンのそれまで未完だったものをも採録しており、しかも底本とするテキストの選択に当たっては諸写本・諸版本を対校するなど文献学的検討を加え、それをラテン語ではなく俗語イタリア語に訳し、また可能な限り全文を収録した。空間的にも、地球のほぼ全域を万遍なくカヴァーしており、しかも注目されるのはその分類と構成である。
 後に一覧するが、第1巻はレオ・アフリカヌスを巻頭にアルヴァレス、ピガフェッタら主としてアフリカと沿岸部アジアにあてられ、その中にはプレスター・ジョンの国・インド洋・モルッカ諸島・日本や、マジェランやガマの航海なども含まれる。第2巻は、内陸部アジアとヨーロッパ北部・ロシアで、マルコ・ポーロがその巻頭に置かれ、ハイトンがそれに続き、ゼーノやオドリーコが含まれる。第3巻は全て新大陸で、オヴィエドとコルテスを中心とする。実現しなかった第4巻は、新大陸南部と、ラムージォも南極近くにその存在を信じた未知の大陸にあてられるはずだった。」(高田前掲「02. 航海と旅行」2,3頁より)

 このように、それまでの寄せ集めに過ぎなかった旅行記、航海記を、時間・空間を包括的に総合した新しい世界観に基づいて、明確な編纂方針の元において編まれている点が、本書の大きな特徴であり、後年に多大な影響を及ぼし、今なお名著として高く評価されている所以です。これに加えて、本書は、世界地理を物理的に分割してアジア、アフリカ、アメリカというように、単純に記述するのではなく、航海と旅行というタイトルが示すとおり、航海や旅行を行った人間の動きに焦点を当てて、人間の行為を中心にして動体的に世界を把握するという、ルネサンス的な視点を明確に取り込んで編纂されている点にも極めて大きな特徴があります。

「(前略)『航海記旅行記集成』は空間別であり、しかも大陸別ではなくいかにも当時のヴェネツィア人らしく海洋別、あるいは発見と征服のルート別、すなわち第1巻はインド洋を取り巻く空間と東廻りルート、第2巻はユーラシア内陸部と地表ルート、第3巻は新大地と西廻りルートとなっている。かくて、同じ日本でもマルコのジパングは第2巻に、発見されたばかりのジアパンは第1巻におかれることとなった。
 ラムージォのコスモグラフィーは、ルネサンス人として新大陸など当時の航海によって次々と明るみに出される新たな発見・現実を取り込む一方、古典の学徒として古くヘロドトスやプトレマイオスに始めるアジア・アフリカ・ヨーロッパというユーラシア大陸の三分割に従い、その知識は利用するというものだった。また、中世教父地理学的地球像はもちろん捨てされるが(ヨーロッパ・キリスト教共同体すら南北に二分されている)、アレクサンデルの鉄門や太陽の樹、それに未知の大陸の存在は信じた。注目されるのはそれよりも、上の配分基準に見られるごとく、地球を物理的空間として静態的に固定するのではなく、その題名に示すとおり航海や旅行、交易や征服などの人間の営みを基準として機能的に分類しようとしている点である。それは、世界が陸と海と島の集まりとしてではなく、人間の主体的行為によって相互に結ばれた一つの総体として捉えられ始めたことを意味する。つまり、ラムージォはこの集成を編むことによって、生まれて7年後のコロンブスのアメリカ大陸到達、1522年のマジェランの世界一周、1549年ザビエル日本到達と、ちょうど自分の生きた時代にその全貌を現しつつあった地球の、いわば最初の地理的世界史を描いたことになるわけである。(後略)」
(高田前掲「02. 航海と旅行」3,4頁より)

 本書は、これらの卓越した、それ以前の類書には見られない、優れた編纂方針に基づいて編まれていることに加えて、ラムージオ自身がそれぞれの旅行記・航海記に自身の解説やコメントを記していることにも大きな意義があります。後述する日本関係記事にも見られるように、ラムージオはそれぞれの記事の冒頭に、当該記事の概要を簡単に述べ、記事の末尾には自身のコメントや注釈を付していて、ラムージオ自身の見解が随所に披瀝されています。

「(前略)この分類・構成法に劣らぬもう一つの大きな特色をなし、同時にその書を今なお価値あらしめているのは、単に数多くの旅行記を収集・出版したばかりではなく、その個々の作品の大部分にそれぞれ長短様々な序文や解説を付したことであった。しかもそれは、ただ地名や位置の特定、遺跡や珍奇な事物の列挙ではなく、それぞれの国や地域の自然・産物・風俗習慣・伝達手段・歴史・通商関係など様々な側面におよび、諸国・諸地域を自然的・地理的空間としてのみならず、そこに住まう人間の歴史的・文化的空間としても把握せんとするものだった。当時の旅行記ものの出版の多くが、通商に役立たすという実用的目的か、それとも珍奇な事物や習俗の紹介というエキゾチスムを売り物にしたのに対して、ラムージォはそうした流行におもねることなく、本格的な地理的・歴史的出版たることを目指し、国家人のみならず知識人。研究者たちの要請にもよく応えるものとなった。その中には今なお貴重な資料として残っているものもあり、その代表的にして最も優れた例が、マルコ・ポーロの旅行記に前置された3つの『序文』であった。
 かくして、この集成は大いに歓迎され大成功を収めた。新しい時代の新しい世界の新しい知識を新たな形で新しい読者に提供するものだったからである。数年後には早速仏訳が現われ、その後もハクルートやパーチャス、ド・ブリらのコレクションのモデルとして使われただけではなく、多くの作品が史料や文献として、あるいはそのまま翻訳されてその中に収録されることとなった。ヨーロッパにあっては19世紀まで世界のいくつかの部分については基本的文献の一つとして用いられ、今なお唯一の記録としてそれ以前の写本・刊本の発見されていないものも数多い。」
(高田前掲「02. 航海と旅行」5,6頁より)

 本書は、このように今なお高く評価されている記念碑的名著の第1巻にあたるもので、1550年の初版以降飯を重ね続けてきた第1巻の最終改訂版として1613年に刊行されています。本書に収録されている記事についても高田氏による前掲解説で紹介されていて、次のような29本の記事が収録されていることがわかります

「1. ジォヴァン・リォーニ・アフリカーノのアフリカ誌 (1)
 2. アルヴィーゼ・ダ・カ・ダ・モストおよびピェトロ・ディ・シントラの航海記 (96 / 110)
 3. アンノーネの航海記 (112)
 4. リスボンからサン・トメ島への航海記 (114)
 5. 東インドへのポルトガル人の航海記 (119)
 6. ヴァスコ・ディ・ガマの航海記 (119)
 7. 船長ペドロ・アルヴァレスの航海記 (121)
 8. アメリーゴ・ヴェスプッチの航海記2編 (128 / 130)
 9. トメ・ロペスの東インド航海記 (133)
 10. ジォヴァンニ・ダ・エンポリのインド旅行記 (145)
 11. ルドヴィコ・バルテマの旅行記 (147)
 12. イァンボロの航海記 (174)
 13. アンドレーア・コルサーリのインドからの書簡2通 (176 / 181)
 14. フランチェスコ・アルヴァレスのエチオピア旅行記 (189)
 15. ナイル川の増水について (261)
 16. ネアルコの航海記 (268)
 17. ディウへの一ヴェネツィア人水夫長の旅行記 (274)
 18. アッリァーノによる紅海よりインドまでの航海記 (281)
 19. オドアルド・バルボーサの書 (288)
 20. 東インド要約 (324)
 21. ニコロ・ディ・コンティの旅行記 (338)
 22. イェロニモ・ダ・サント・ステファーノの旅行記 (345)
 23. スペイン人による世界一周旅行記 (346)
 24. マッシミリァーノ・トランシルヴァーノの書簡 (347)
 25. 一無名ポルトガル人の手記 (370)
 26. 香料交易に関するラムージォの論考 (371)
 27. イゥアン・ガエタンの報告記 (375)
 28. ジアパン島に関する書簡5通 (377)
 29. ジォヴァン・デ・バッロスの『アジア』より」(384)」

(高田前掲「02. 航海と旅行」8,9頁よりカッコ内の数字は本書における当該記事冒頭子葉番号を店主が追記。)

 上記のうち、日本関係記事として注目されるのは、28番目にある「ジアパン(Giapan)島に関する書簡5通」です。この記事は、「ラムージオ氏による近年発見されたジアパン(Giapan)と呼ばれる島々についての短い報告」(第372葉〜、Informatione breve, di M. Gio. Batista Ramusio. Dell’Isola allhora scoperta nella parte di Settenttione chiamata Giapan.)という、ラムージオ自身の序文に始まり、イエズス会関係者による5つの書簡、そして最後にラムージオ自身の解説によって締め括られています。ここに収録された記事は、本書初版刊行当時には収録されておらず、後年に増補改訂がなされた際に追加された記事であると思われますが、いずれにしても当時最新の日本情報であることは間違いなく、しかも実際に日本を訪ねたザビエルの書簡や、鹿児島出身でザビエルが日本渡航を決めるきっかけとなったアンジローの聞き取りに基づく報告書といった、極めて精度の高い日本情報であったことから、ヨーロッパに伝えられた日本情報として極めて重要な意味を有しているものです。これら日本関係記事についても、上記で触れた高田氏の解説においてその概要と情報が下記のようにまとめられています。

「(1)『新たに北方に発見されたジアパンと呼ばれる島についての情報、コーチン、1549年1月1日』Informazione dell’isola novamente scoperta nella parte di settentrione, chiamata Giapan(これが5通全体のタイトルとなっている)。署名はないが、ローマのイェズス会本部宛ニコラ・ランチッロットの書簡に含まれる、日本情報を説明したパオロことアンジロウの、1548年11月29日総長ロヨラ宛ポルトガル語の長い手紙を訳したもの。

 (2)『フランシスコ・ザビエル、コーチン、1549年1月14日』。実際は、ロヨラ宛のその手紙の後半日本に関する部分(ほぼ全訳)に、同年1月20日付コーチン発ロドリゲス宛の書簡の一部(かなり縮約)を付け加えたもの(河野純徳訳『聖フランシスコ・ザビエル全書簡』平凡社, 1985, pp. 351-4, 259-60)。

(3)『フランシスコ・ザビエル、鹿児島、1549年10月5日、コインブラのイエズス会同僚宛』。鹿児島上陸後最初の著名な書簡(正しくは11月5日、ゴアの会員宛)を三分の一程度に縮めたもの。後に続く者のための心構えを説いた中程の部分を省略し、日本に関する情報の部分のみを収めている(前掲書 pp.464-96)。

(4)『フランシスコ・ペレス、マラッカ、1550年11月16日、カーボ・ディ・コモリンの会員宛』。同地にやってきた4人の日本人について報告したごく短いもの。

(5)『ホアン・グルベーラ[ベイラ]、モルッカ、1549年2月5日、ゴアのサン・パオロ院長宛』。モルッカの状況について報告したもので、日本への言及はない。
 
 これらはすべて日本が旅行に登場する最初のものだが、(1)(2)がラムージォによって初めて出版されたのに対して、(3)(4)(5)は『ポルトガル領インド特報』Avvisi Particolari delle Indie di Portogallo, Valerio Dorico et Luigi Gratelli Bressani, Roma, 1552, にすでに収録されている。(1)(2)(3)は、最初の日本情報として最も貴重なものであり、ラムージォの選択の確かさを物語る。(4)(5)の選択の理由については不明。」
(高田前掲「02. 航海と旅行」10頁より)

 上記のような日本関係記事のうち、(1)の情報源であったアンジローとは、鹿児島出身の貿易商人と言われていて、殺人の罪を犯してしまい、ポルトガル人の船長であったアルヴァレスの支援を受けてマラッカへと逃亡の後、罪の意識に苛まされ続けていたところ、アルヴァレスの勧めでマラッカ滞在中のザビエルと綿男子キリスト教の教えに大いに感動し、以後、ザビエルの日本での宣教準備と渡航の手助けをした人物として知られてる人物です。ザビエルはアンジローとのやりとりを通じて日本の人々が好奇心旺盛で理性的な性格を有しているものと判断し、日本への布教を決意するようになりました。その過程でザビエルはアンジローをゴアの神学校で学ばせ、より深い教義理解を促すとともに、学校長であったランチロットにアンジローから日本の事情についての聞き取りを行わせ、それらを編纂して報告書を作成するように依頼しました。この時に作成された報告書が、本書に収録された(1)のリソースとなっているもので、ヨーロッパに伝えられた具体的で確かな情報源に基づいた日本情報として、最初期のものとして重視されているものです(アンジローについては、岸野久『ザビエルの同伴者アンジロー:戦国時代の国際人』吉川弘文館、2001年が詳しい)。

「ザビエルはゴアの聖神学院(Colégio de Santa Fé)においてアンジローにキリスト教教理を学習させる一方、学院長のランチロットにはアンジローから日本に関する情報を聴取して『日本情報』Informatione de vna Isola を作成するように依頼した。その結果1584年夏から1549年1月まで4種類の『日本情報』が作成された。主たる内容は、序論で、日本の大きさ、日本人アンジローの紹介、本論で (a) 日本の社会 [長子相続、天皇と将軍、天皇の生活、裁判、一夫一婦制、師弟の教育] 、(b) 日本の宗教 [三宗派、寺院での生活、大日[如来]、釈迦の生涯、五戒、、葬式、山中修行]、(c) 日本人及び日本の状況 [アンジローの才能、キリスト布教の可能性、風土、動・植物、食物]、結びで、日本・シナとキリスト教との関係、ザビエルの日本布教の予定、などである。」

「(前略)ランチロットの誤解や曲解も含まれるが、『日本情報』は史上初の、日本人を直接の情報源とした日本社会及び仏教の紹介であり、ヨーロッパ人による最初の日本研究と言えよう。(後略)」

(岸野久「ジパングとジャポンの同定者ギョーム・ポステル–フランスにおける日本研究の単著~」小峯和明編『キリシタン文化と日欧交流』勉誠出版、2009年所収論文、22,23頁より。より詳しくは、岸野久『西欧人に日本発見:ザビエル来日前 日本情報の発見』吉川弘文館、1989年、第6章以降を参照。)

 このアンジローへの聞き取りに基づく「日本報告」は、本書の他には、ギョーム・ポステル(Guillaume Postel, 1510 - 1581) による『世界の驚異』(Des merveilles du monde…1553)や、ジャン・マセ(Jean Macer)の『インドの歴史についての3章』(Les trois livres de l’histoire des Indes,...Paris, 1555)にも転載され、ヨーロッパにおける最初期の日本情報として受容されました(彌永信美『幻想の東洋:オリエンタリズムの系譜』青土社、1987年、517頁参照)また、次のように20世紀に至るまで様々な文献に繰り返し転載され続けました。

「『日本情報』は、日本人を直接の情報提供者とする日本情報がヨーロッパへ伝えられた最初の文献である。上述した4種のうち、ヨーロッパで翻訳、出版されたのは『第2稿』であった。①1552年ポステル G. Postel によるフランス語訳、②1554年ラムジオ G. B. Ramusio の(スペイン語訳(r)(ランチロットがイタリア語で作成した稿本をもとにザビエルが1549年1月1日に作成したスペイン語訳稿本から、1553年に作成された写本のこと;引用者注)からの)イタリア語訳、③1562年『新情報−イエズス会インド書翰集』Nuovi Avisi におけるイタリア語版、④1556年『インド書翰集』 Epistolae Indicae における③のラテン語訳、⑤1586年ゲェッツ J. G. Götz による③のドイツ語訳、⑥1795年エグラウァー A. Eglauer による⑤の再録、⑦1872年コールリッヂ H.J. Coleridge による(スペイン語訳(t) からの)英語抄訳、⑧1877年フォス E.de Vos による(スペイン語訳(t)からの)ドイツ語訳、⑨1902年ハアス H. Haas による⑥及び⑦によるドイツ語抄訳。」
(岸野久『西欧人に日本発見:ザビエル来日前 日本情報の発見』吉川弘文館、1989年、104-5頁より。②に挙げられている、「1554年ラムジオ」とは、本書第2版のこと。)

 また、(2)の日本渡航前の決意と目論みを語ったザビエルの書簡は、実際の来日以前のザビエルの日本観が垣間見える書簡としても重視されている資料ですし、(3)の鹿児島から発せられたザビエルの書簡は、言うまでもなく日本から西洋人が発信した最初の日本情報として、大変重要なものです。たとえば、(2) のなかでは、次のようなザビエルの見解が語られています。

「日本は、シナの直ぐ近くに横たわる島である。日本人は、みな不信心者である。そこにはイスラム教徒もユダヤ人もいない。克己心が強く、神やその他の自然の事物について、非常に知識を求めている。イエズス会員たる私達が、その活動によって結ぶことのできる成果は、日本人の自力で培われてゆく希望がある。以上のような理由により、私は非常に深い慰みを持って、日本へ行くことを固く決意した。」
(アルーベ神父 / 井上郁二訳『聖フランシスコ・デ・ザビエル書簡抄 上巻』岩波書店、1949年、311頁より)

 (3)の鹿児島発ザビエル書簡は、日本の人々がこれまでザビエルがアジア各地で出会ってきた人々の中では最も傑出した特性を持っていると称賛していることでもよく知られるもので、ヨーロッパにおける日本観の形成に大きな影響力を及ぼした書簡です。本書に収録されている日本関係記事は、このようにいずれも非常に質が高く、ヨーロッパにおける最初期の日本情報として重要であることに加えて、本書が1613年に刊行されていることからもわかるように、繰り返し読み継がれていくことによって、16世紀半ば以降のヨーロッパにおける日本観の形成に多大な影響を与えたと言えるものです。

「1549年11月5日付鹿児島発ゴアの会友宛フランシスコ・ザビエルの書簡は、来日後3ヵ月足らずで書かれた日本第一報である。これはヨーロッパにおいて『マグナ・カルタ』(大書翰)と呼ばれ、数ある彼の書翰のうち最も親しまれてきたものである(以下、本書翰を『大書翰』とする)。『大書翰』は主として、彼の使徒的精神とその活動を知り、信仰の糧とするために読まれてきたが、16,17世紀にあっては、日本に関する数少ない情報源としても利用された。」

「日本及び日本人情報の普及という観点からザビエルの働きと『大書翰』の役割をまとめると次のようになる。
① アルヴァレスやランチロットの日本情報が作成されたのは、ひとえに、日本布教を決意したザビエルのイニシアチブによること。
② ザビエルは来日後、これらの先行情報を再確認し、さらに自ら蒐集した最新の情報を加え、これらをすべて『大書翰』に集大成したこと。
③ 『大書翰』は、ポルトガルの国家機密に属する情報を多く含んでいたが、教会文書であったので、ポルトガル国家機関の情報統制から免れ、ヨーロッパ社会に公開されたこと。
④ 『大書翰』は、事実に基づく日本人及び日本の全体像をヨーロッパ社会に、事実上、はじめて紹介し、中世以来知られてきたジパングとその住民像にかわって、日本人=理性的国民観の普及に役立ったこと。」

(岸野久『西欧人に日本発見:ザビエル来日前 日本情報の発見』吉川弘文館、1989年、226頁、237頁より。)


 このように、ラムージオの卓越した見識によって編纂された普及の金字塔である『航海と旅行記』は、旅行記・航海記集成のあるべき一つの理想形を提示した書物として、後続の書物の出版を促し、大きな影響を与えたことに加え、極めて質の高い最初期の日本情報をヨーロッパの読者に提供したという、日本関係欧文資料として非常に大きな意義を有している作品です。しかしながら、日本における研究は決して充実したものとは言えず、高田氏による前掲の解説を除くと非常に乏しい状況となってしまっています。いかに当時繰り返し再版されたベストセラーとは言え、現在では稀覯書として高額になってしまっているためか、国内の研究機関における所蔵状況が芳しくないこともその一因ではないかと思われますが、最初期の日本情報をヨーロッパにもたらした日本関係欧文資料として、またその枠組みに留まらない旅行記・航海記図書の原型として、改めて光が当てられるべき一冊ではないかと思われます。


「16世紀イタリアの地理文献において最も名高い人物は、ヴェネチアの名門出身で十分な教育を受け、若い頃から地理研究に熱中していたジァン・バティスタ・ラムージォ(1485-1557)である。彼はヴェネチアの自分の邸に地理学の学校を開設し、早くも1523年、重要な航海記や旅行譚は残らず蒐集するという野心的な計画を思い付いたと言われている。この目的のため、彼はほとんど30年以上にわたって努力を重ねた。労を惜しまず資料を索めてイタリア、スペインそしてポルトガルを渉猟し、必要とあれば、それらを当時の生き生きとしたイタリア方言に翻訳していったのである。1550年、彼の『航海・旅行記集成』Delle Navigazioni e Viaggi の第1巻がヴェネチアで発行されたが、これはその大半をアフリカと南アジアに割いている。(中略)《イタリアのハクルート》という異名を得たラムージォは編輯者として傑出した人物であり、その材料の料理に卓越した腕の冴えを見せ、独自の価値を持った『集成』を生み出したのである。」
(ボイス・ペンローズ / 荒尾克己訳『大航海時代:旅と発見の二世紀』筑摩書房、1985年、379頁より)

タイトルページ。
ラムージオによる献辞文(実質的に序文を兼ねる)冒頭箇所。
出版社ジュンティから読者への序文冒頭箇所。「ジゥンティ社は、1497年フィリッポ・ジゥンティ Filippo Giunti によりフィレンツェに創立され、イタリア国内のみならず、リヨン・ロンドン・マドリッド・リスボン等ヨーロッパ各地に支店を広げた。『1527年版デカメロン』の出版で知られる。ヴェネツィア店はルーカ・アントーニォ Luca Antonio (1457-1538)の設立になり、トンマーゾ Tommaso (1494-1566)はその息子。同社はその後ほどならずして没落したと言われ、ラムージォの重版が17世紀初めで途絶えているのもそれと関係なしとしない。」(高田前掲「02. 航海と旅行」9頁より)
目次① 1. ジォヴァン・リォーニ・アフリカーノのアフリカ誌 (1)  2. アルヴィーゼ・ダ・カ・ダ・モストおよびピェトロ・ディ・シントラの航海記 (96 / 110)  3. アンノーネの航海記 (112)  4. リスボンからサン・トメ島への航海記 (114)  5. 東インドへのポルトガル人の航海記 (119)  6. ヴァスコ・ディ・ガマの航海記 (119)  7. 船長ペドロ・アルヴァレスの航海記 (121)  8. アメリーゴ・ヴェスプッチの航海記2編 (128 / 130)  9. トメ・ロペスの東インド航海記 (133)  10. ジォヴァンニ・ダ・エンポリのインド旅行記 (145)  11. ルドヴィコ・バルテマの旅行記 (147)  12. イァンボロの航海記 (174)  13. アンドレーア・コルサーリのインドからの書簡2通 (176 / 181)  14. フランチェスコ・アルヴァレスのエチオピア旅行記 (189)  15. ナイル川の増水について (261)  16. ネアルコの航海記 (268)  17. ディウへの一ヴェネツィア人水夫長の旅行記 (274)  18. アッリァーノによる紅海よりインドまでの航海記 (281)  19. オドアルド・バルボーサの書 (288)  20. 東インド要約 (324)  21. ニコロ・ディ・コンティの旅行記 (338)  22. イェロニモ・ダ・サント・ステファーノの旅行記 (345)  23. スペイン人による世界一周旅行記 (346)  24. マッシミリァーノ・トランシルヴァーノの書簡 (347)
目次② 25. 一無名ポルトガル人の手記 (370)  26. 香料交易に関するラムージォの論考 (371)  27. イゥアン・ガエタンの報告記 (375)  28. ジアパン島に関する書簡5通 (377)  29. ジォヴァン・デ・バッロスの『アジア』より」(384)」
非常に詳細な索引も設けられている。
本文冒頭箇所。
372葉裏面から掲載されている「ラムージオ氏による近年発見されたジアパン(Giapan)と呼ばれる島々についての短い報告」冒頭箇所。ラムージオによる序文に続いて、鹿児島出身の日本の貿易商アンジローへの聞き取りをもとに作成された「新たに北方に発見されたジアパンと呼ばれる島についての情報、コーチン、1549年1月1日」が掲載されている。
上掲続き。
「フランシスコ・ザビエル、コーチン、1549年1月14日」冒頭箇所。日本渡航直前のザビエルの布教の意志と狙いとが雄弁に語られた書簡として著名。
「フランシスコ・ザビエル、鹿児島、1549年10月5日、コインブラのイエズス会同僚宛」冒頭箇所。ザビエルが日本から最初に発信した書簡で、日本の人々の気質を高く評価していることでも有名な書簡。
「フランシスコ・ペレス、マラッカ、1550年11月16日、カーボ・ディ・コモリンの会員宛」と「ホアン・グルベーラ[ベイラ]、モルッカ、1549年2月5日、ゴアのサン・パオロ院長宛」
日本関係記事末尾にはラムージオの解説が掲載されている。
本文末尾。旧蔵機関の押印がある。
余白箇所に傷みや、全体的に染みが見られるが、近年に改装が施されており製本状態は良好。