書籍目録

「66カ国からなる日本帝国図」

レーラント / (石川流宣)

「66カ国からなる日本帝国図」

初版第二刷 1715年 ユトレヒト刊

Reland, Adriaan.

IMPERIVM JAPONICVM PER REGIONES DIGESTVM SEX ET SEXAGINTA ATQVE EX IPSORM JAPONENSIVM MAPPIS DESCRIPTVM AB HADRIANO RELANDO.

Trajecti Batavorum(Utrecht), Gulielmum Broedelet, 1715. <AB2020346>

Donated

First edition, second issue.

53.5 cm x 62.5 cm(map), 1 engraved map, hand colored, framed,
額装済み。

Information

石川流宣の日本図をもとに東洋学者レーラントが製作した漢字での藩名を記した画期的な日本図

 本図は、当時のオランダを代表する東洋学者、地図学者であったレーラント(Adriaan Reland, 1676 - 1718)が製作したユニークな日本図で、1715年にユトレヒトで刊行されています。北海道等を除く日本全体の姿がかなりデフォルメした形で描かれていて、しかも各藩の境界が記されているだけでなく、天草をはじめとした地名や藩名が漢字で記入されているという、それまでヨーロッパで刊行された日本図には見られない独特の特徴を備えている大変興味深い地図です。

 レーラントは、17世紀終わりから18世紀初めにかけて活躍したオランダを代表する東洋学者、地図学者で、1701年に若干25歳にしてユトレヒト大学の東洋言語学教授に任命されています。西欧における本格的なイスラム学の先駆者としてだけでなく、ヘブライ人の残した古代遺跡の研究や、今で言うところの比較言語学に関する研究も精力的に行いました。レーラントは、日本語研究も行っていましたので、ある程度漢字を理解する能力があったのではないかと思われます。

 レーラントが本図の制作にあたって直接参照したのは、1691年に石川流宣が刊行した「大日本国大絵図(本朝図鑑綱目)」であることは間違いないと思われますが、おそらくこの図はオランダ東インド会社の関係者の手によってヨーロッパにもたらされ、それを当時著名な東洋学者であったレーラントが入手したのではないかと考えられます。レーラントは、原図をただそのまま翻刻するのではなく、本図右下に見られるように長崎湾付近を描いた図を挿入しているほか、17世紀のヨーロッパにおける日本情報として強い影響力を持っていたモンタヌスの著作に収録された日本の人々を描いた挿絵を複数転用して地図下部に配置しています。また、最下部には小さな文字でラテン語文がびっしりと書き込まれていますが、西洋製日本図の研究者であるハバード氏(Jason Hubbard)によりますと、ここには次のようなことが書かれています。

「湾が入り組む長崎のこの小さな部分は、手持ちのみ発行の地図から私が写したものである。その際に僚友のひとりが、われわれが以前から居住地にしていたFirando(平戸島)の描写を間違えた。他の島々や平戸と長崎のあいだの海岸線の描写も同様である。これが示すことは、日本人が描く地図は、その場所を訪れたわが同胞が描くものほど正確ではないということである。日本人は海岸線の輪郭を描くのに太い筆を使う。彼らには西欧の道具がないからである。日本帝国地図の中のごく小さな細かい点を描き変えることは論外であった。私は日本人自身が描くいくつかの地図のみを道案内とすると決意したからである。その中でもこの地図は最も重要で、われわれが通常出版するサイズの8倍もの大きさである。しかも、学識豊かなポール・コリニョン氏−最近まで我々の門人であった-の配慮により、オランダ東インド会社の重役のひとりであるハーフテンの貴族、ベンヤミン・ダトリー卿の図書館から、その地図を私はいつでも利用できるからである。
 帝国に広がる66の地域を見て、それらの本当の名前を知ることができることは真に価値がある。そのほとんどの地域をわれわれは誰も訪れたことがないからである。その一方で、この地図を他のものと比べようとするとすぐに気が付くように、出版された地図上の街や地域、島の名前などが取り違えられ、信じられないほど混乱している」
(ジェイソン・ハバード / 日暮雅道訳『世界の中の日本地図:16世紀〜18世紀 西洋の日本の地図に見る日本』柏書房、2018年、318頁)

 上記で記されているように、レーラントは原図のある程度の不正確性を理解しつつも、地名や藩名が漢字で明確に記されていることが判別できることを重視して、本図を製作したことが伺えます。この辺りは、東洋学者として日本語研究にも深い関心を有していたレーラントならではの意図が感じられる点と言えるでしょう。ただし、その一方で、原図となった石川流宣の「大日本国大絵図」は、地理学的な意味での正確性よりも、ある程度デフォルメを施して日本全体を描くことを優先した地図であったことから、西洋製の日本図の精度としてはそれ以前にすでに製作されていた地図よりも後退することになってしまったことは否めません。しかも、本図はユニークな日本図として後年に繰り返し再版されただけでなく、複数の書物中の折込図としても収録されるなど、多大な影響力を持つことになっただけに、ヨーロッパにおける日本図製作に少なくない混乱をもたらすことになりました。

 なお、ハバード前掲書によりますと、本図は1715年に刊行されたものだけでも少なくとも2種類が存在しています。いずれも刊行年を1715年と記していますが、本図をよく見ますと、図面中央に描かれた献辞文を記す装飾台の右下に小さく、「J[an]. Goeree in[vent]」という記載があることが確認できますので、初版第2刷であることが確定できます。また、同じ1715年に、バーナード(ベルナール)(Jean Frederic Bernard, 1680 – 1744)がアムステルダムで刊行した『北方探検記』(Recueil de Voiages au Nord)第3巻に、本図とほぼ同じ日本図が収録されていて、かつて本図との前後関係が議論されましたが、同じくハバード氏の研究によって、地名の漢字表記の正確さから見て、本図が先行するもので、バーナードの著作に収録された日本図は、本図をもとに複製されたものであることが明らかにされています。

 本図は繰り返し再版されたり、上記のように他の著作に類似の図が収録されたこともあって、比較的よく知られており、また国内研究機関の所蔵点数も少なくありませんが、初版に当たる1715年に刊行された版図は非常に珍しく、第2刷とはいえ、最初期に刊行された本図は、その美しい手彩色も相まって、大変貴重な1枚と言えるでしょう。


「18世紀の第一四半期に、ヨーロッパでは日本の描写が大きく後退した数点の地図が登場した。最初はオランダの東洋学者、アドリアーン・レーラントによるもので、ユトレヒトの書籍、地図の出版業者ウィルヘルム・ブルーデットにより、一枚ものとして発行された。タイトルはラテン語で Imperium Japonicum であった。それはのちに数々の複合地図帳に所載されることになった。地図はプロヴァンスからのフランス人難民で、アムステルダムに定住したジャン=フレデリック・ベルナールによって、同年複製が作られ、世界の北方海域の航海記の選集 Recueil de Voiages au Nord... に「66カ国に分かれた日本(Le Japon Divisee en Soissante et Six Provinces)」として所載された。ブルーデット版の解説によると、その図はオランダ東インド会社の高官であったベンヤミン・ダドレーの蔵書にあったもので、鎖国時代に出島の工房から首尾よく密輸された流宣型地図であると判明した。西洋人の目からすれば、日本人は外国人より自国の地理をよく知っていると思うのはごく自然なことで、事実そうだった。だが西洋人は地図製作の方法論も同じように似ていると推測したので、単純に日本の地図から国土の描写を借用し、緯度経度の概念を加え、日本語地名の音を拾ってオランダ語風にして、「日本の地図から採った……」とだけ注釈を付けて刊行した。レーラントの地図は複製が作られ、アムステルダムの出版業者シャトランにより『歴史地図帳(Atlas Historique)』のすべての版に所載され、アウグスブルクの地図製作および発行業者のマテウス・ゾイターにより1732年頃からの彼の地図帳に所載された。」
(ハバード前掲書、62頁より)


「この日本諸島の素晴らしく装飾的な地図は1715年に有名な東洋学者レランドによって出版された。彼の地図の2つの版は同じ年に出ており、こちらのより装飾的な版が特に人気を博し、1745年頃までフィッセルやオッテンスの地図帳に再発行されてきた。これは1715年、ブリュデレットの刻印で、アムステルダムで発行された初版である。 地図は、図版の下方に添えられた注釈が意味しているように、その出所は、VOC役員のB・デュトリ蔵書の日本原版によるものである。 レランドの地図はおそらく18世紀に最も影響を持ったもので、ケンペルの日本地図にかなり歪んだ様式化した形を提供し、また66の地域を仮名文字??で記述した初期のものの一つであり、西洋の地図にこの文字を使用した最初の一つである。 地図の装飾的質の高さは、フランスの聖クウェンティン大修道院長P・ビノン(1663-1743年)へ献呈された中央下の表題の飾り枠がいっそうその効果を高めている。周りを囲む挿し絵は、モンタヌスの1669年の作品から取られ、余白には注記が同時代人のイタリア人によって追加されている。 希少かつ重要、装飾的で影響力のある地図である。」
(放送大学図書館「西洋古版日本地図:デジタル貴重書室」解説文No.64より)